*弱肉強食と共存世界・イノシシから学ぶ
ジビエ、と言えば聞こえはいいが、
淡路島の中で増えてしまった猪(イノブタ)を
捌いて食べることがある。
ここ淡路島では、野生の猪と鹿が増えていて、
畑や田んぼに入っては芋を掘り、ミミズを掘り、稲をなぎ倒し、
果樹や木を食み、トラクターのごとく耕し穴を掘る。
この野生動物からいかに作物を守るか、人と獣の知恵比べのようになっている。
私の住む地域には鹿はまだ来ておらず、猪がたくさん住み着いている。
そのため、夜8時過ぎになると鳴き声を発し、
外を車で走ると、田圃には大きな影が見え、
筍を掘りに山に入ると猪が掘った大きな穴が開き、
近所の人は車に猪が体当たりしてきたらしく廃車になった。
サファリパークだ。
夜は私たちが檻に入らないといけない!
出てくるのは夜だけだから、まだいいか、なんて思っていたら、
昼の3時に田圃に入っている猪を見つけ、
驚いて車の中からじーっと見ていると猪に気づかれ、
ふんっふんっと鼻を鳴らして威嚇してきたので
素早く退散した。
こんな時間に出てくるのはホント辞めてほしい・・。
だから、田んぼや畑は電柵を張ってみたり、檻で田畑を囲ってみたり・・。
猪をしとめるために、檻を仕掛け、命を頂くのだ。
お互い命がけである。
そもそもなぜ淡路島に猪が繁殖したのかというと、
猪と豚を掛け合わせた猪豚(イノブタ)を家畜として飼っていたのが
震災の時に放れ野生になったとか、
飼えなくなった人が野に放した、とか。
猪はたくさん子供を産まないが、
豚は繁殖力が旺盛で、たくさん子を産み、子育ても上手いという遺伝子が残り増えてしまった、と聞いている。
そして、高齢化や薪生活の減少で山の手入れをしなくなり、
人が入らなくなった山は荒れ、竹林が増えている。
猪や鹿が食べるものも減っているはずだ。
山に食べるものがないから、夜になると山から出てきては
畑を荒らすのだ。
日本には昔狼がいたが、今は絶滅してしまったそうだ。
私が淡路島に移住した当時は野犬を時々見かけた。
茶色の毛をした3匹の親子が毎日山から降りてくるのを見かけたものだ。
気の小さい犬だったが、冬の海辺には猪を食べた後が残されていたから、
襲って食べていたのだろうか。
友人の飼っている犬も鹿を仕留め食べていた。
けれど、野犬は処分され、最近では見かけなくなってしまった。
昭和61年頃に作られた亀井文夫監督の「トリ・ムシ・サカナの子守歌」というドキュメンタリー映画の中で、天敵との関係を、
「食う、食われる」という「弱肉強食」と見られがちであるが、
実は「種の存続のための共存」なのだ、という話があったのを思い出す。
天敵が食ってくれることで、数が制限され、
飢えや病気で全滅することなく、
その種が健全に生きることが出来るというのだ。
今、猪や鹿にはその狼に当たる天敵が「人」しかいない。
人が捕まえる数なんて、たかが知れている。
増えるだけ増えて、その先はどうなるのだろうか。
自然界の掟からすると絶滅してしまうのかもしれないな・・。
数年前にも、淡路島のタヌキがダニで絶滅した。
そんな話を聞いてすぐ、うちの庭に来た狸は
肌がボロボロで衰弱していた。
それ以後狸は見かけていない。
狸がいなくなったことで、ハメ(マムシ)が増えたと聞いた。
狸がハメを食べていたのだろう。
イノシシがもし絶滅してしまったら、何か、影響はあるのだろうか。
筍を掘って食べるものが人間だけになったら、
竹林が増えてって、雑木林が減ってって、
災害が増えてって・・・
・・て、心配損であることを願う!
まぁ、もともと淡路島に野生のイノブタがいたわけではないから、
元に戻るだけで、何の困りごともないかもしれない。
増えすぎてしまった猪の天敵として猪を捕まえ、
その命を頂いてみると、それはとてもエネルギーのいることで、
お互い命がけであることが分かる。
なのに、捌かれた後のイノシシは、もうもはや「肉」でしかなく、
「あぁ、美味しそうなモモやな」
「分厚いロースが捕れたな、何作ろう」
なんて考えているのだ。
我ながら恐ろしいものである・・
共存、という視点で畑を見渡してみる。
私はこの畑の中で、どんな立ち位置であるのだろうか。
一見、食物連鎖の中の頂点のように見えるが、
決してそうではないだろう。
虫や、強い草が繁殖したとき、
「怖いな」と感じ、排除したくなる。
排除しきれるわけでもないのに、へとへとになるまで
頑張る。
しかし、よくよく対象の事を調べてみると、
怖がる必要のないものだったりもする。
頑張り損ではないか!
大した影響も与えることができない、ちっぽけな存在なのだ。
あくまでも、共存するための天敵として
畑の片隅に立ちたいものである。