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飯田朔『「おりる」思想』読書感想

◉前置き…読書という名の“わたし”語りとは、その名の通り、読んだ本について、思ったことなど自由に、とても自由に書いています。
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(人物名等は敬称略)

大学に馴染めず、中退しひきこもり生活を送っていた著者が、競争社会か激化する日本を離れるため1年間スペインで「何もしない」生活を送る。

帰国後もひきこもり生活を送っていた著者が、競争に勝って生き残らねばならないという「思い込み」を捨て、あえて「おりる」ことで、生き直してみるのはどうだろうか、と説く一冊。


はじめに

私は著者が提示する「おりる」思想に、概ね賛同している。特に、「おりる」ことについて丁寧に紐解いていて、非常に分かりやすかった。

一方で、朝井リョウの著作を用いて語られる「おりられなさ」については、私が朝井リョウの著作を読んでいないことも関係しているのか、あまりピンと来なかった。

本記事は読書感想文というよりは、“わたし語り”がメインであるので、「おりる」思想に同意した上で、まず「おりない」で闘うロールモデルを人々が必要していることや、あえて「おりない」ことは抵抗でもあるのでは、そもそもそれ自体も「おりる」ことなのか?ということをみていきたい。

次に「おりられなさ」に付随して、私自身が感じている「おりられなさ」について触れていく。


「おりない」で闘うこと

「おりない」で自分のルールを貫くには、一度社会のルールに則って勝者となった上で示さねばならぬという、マッチョな意味でのサヴァイヴ精神が求められる、そこに矛盾が生じることを本書では提示されていた。

私自身も競争化する社会に疲れ、そのルールにのれなさを感じ続けている側であるので、その矛盾は大いに感じ、そこに悲しさも感じている。

その悲しさを、まさに先日見たクローズアップ現代「痛みと向き合ってきた ラッパー/シンガー・ちゃんみな 彼女のメッセージはなぜ刺さるのか?」で感じた。特に10代の多感な時期に彼女のような闘うロールモデルを必要とする傾向はあるように思う。

その背景には、まさに受験をはじめ、狭い世界で競争することを求められている10代の時期、「おりる」ことは終わりという恐怖観念が強いからであろう。

だからこそ、「おりても大丈夫」と言うことは難しく、その世代がそれを受け入れるのも難しい。ちゃんみな自身も自分は強い女ではない、普通の人だから傷つくと話してはいるが、やはり彼女は多くの人にとってサヴァイバーであろう。

彼女のようにはなれないけれど、彼女の痛みは自分の痛みでもあって、自分の代わりに闘ってくれる人として求められる。そのこと自体は悪いことではないが、どこかで悲しくなるのは彼女が切り開いて証明しようとすることは、まさにそちら側にいっている証拠でもあるのだ。そうしないと生きていけないことがまず悲しいのだ。

さらに、彼女が放つ毒は毒をもって毒を制するわけではない。矛先を持たぬ毒なのだ。勿論、彼女自身が求めているのは復讐ではなく、彼女自身が伝えたいのは「愛」ということも理解はできる。

しかし、乗り越えるために毒を放出する必要性と痛みを抱える必要性があることが悲しい。

「おりる」こともせず、サヴァイヴする強さを持たなくても生きていける、その可能性を見出し始めたのがまさに「多様性」ではないだろうか。

そんなことを感じるようになったのは、映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の存在もある。(とはいえ、私はこの映画を全肯定することができず、それについて以下記事で詳しく述べている)

私自身も「おりる」つもりはなく、かといって競争社会に参加するつもりもない。そのままで許容されるべきだという一種の開き直りを持っている。それは「おりない」という抵抗でもある。「おりなくてはいけない」社会は滅びろと言いたいのだ。

固定観念にとらわれ、息苦しさを感じている人には「おりる」可能性を視野に入れて欲しいと思う。一方で、「おりない」ことはそのルールへの拒絶であるので、それは即ち「おりる」ことと同義なのかもしれないとも思う。


普通地獄と「おりられなさ」

私は鈍感(というより自分の繊細さに無自覚)で、ちょっと浮いた子供だった。大きくなって知識を取り込んで、ああ、私は異端児として扱われていた、ということに気づく。

やんわりとコミュニティから「普通」であることを求められつつ、「普通」ではないというレッテルを貼られ浮いた存在になっていた。小学生くらいの頃は自分の溶け込めなさの理由も対処法もわからずもやもやを抱え、失敗してきた。

そんな私が感じる「おりられなさ」はまさに外部が私に求める「普通」なのだ。「ちょっと変わっているよね」は、マイナスでもあり、プラスでもある。何にせよ、同質とは思われていないことは確かだ。

人に迷惑をかけず、擬態することで私は生き延びてきた。社内に対する疲れが全くないわけではないし、搾取されている感覚もある。

しかし、「おりる」必要性を私個人が感じていないのは、そもそも今の仕事、働くことが好きだからだ。(擬態故の自己暗示ではないはず)

そして私は社会に片足突っ込みつつ、浮遊しているような感覚で生きてきたので、それが丁度いい。野次馬感覚で社会に触れていたいのだ。それはサヴァイヴともまた違う生き方で、このような生き方をしている人は少なからずいる気はしている。

著者もきっとそうだろうが基本的には「おりる」も「おりない」もどちらでも良いのだ、それが選んだ生き方ならば。ここで難しいのは、それが自己責任論として、競争の激化、弱者の排除につながらないことなのである。


さいごに

著者が提示する「おりる」思想について、思ったことを好き勝手に言っていたが…本書を読んで1番心に残ったのは、導入で語られた「生活から始める批評」についてであった。

批評というと、専門的知識に基づいて論じられているという印象があるが、映画においてはそうではない私的な映画批評、映画レビューも見受けられる。

歴史や世界の問題を知るために学術書を読むが、映画批評において学術的な説明はあまり必要としていない。だからこそ、エッセイに近いような、私的な語り口の映画批評の方が好きである。

そして、私自身もサイトに映画レビューを執筆している身ではあり、そのスタンスに迷うところはあるが……まさに私のめざす批評は「生活から始める批評」なのでは、としっくりきた。

どこか批評というには烏滸がましいか……という気持ちはあったので。今後は裾野を広げて読書やさまざまな分野に「生活から始める批評」を試みていきたい。

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