俗物的な渦の中で過ごした後は、 そのまま自分の部屋に入る気になれない。 自分の軸を取り戻す時間が必要だと、 帰る道すがら思った。 思考と感情が、 目まぐるしいのだ。 嫌な感情を打ち消すように思考が働く。 俗物的なものへの怒りなのか悲しみなのか その時はわかっていなかったけれど、 とにかくネガティブな感情を “起きてないもの”にしようとしていることには うっすらと気が付いていた。 “別に何も感じてない” やたらとそう思おうとしている自分に。 でも、目はずっと冴え、
昔盲目的に好きだった人がいた。 その彼の誕生日の朝、 Facebookの誕生日通知により 久しぶりに思い出した。 報われなかった恋だったが、 しかし私の盲目さはもはや重症だった。 望みがない、 とわかった時点で、 想いを沈静化することができなかった。 いや、いろいろした挙句、 一応諦めてはいたのだと思う。 恋の成就…なんてことは、 早々に諦めていた。 それでも彼を好きで居続けたのは、 あれはなんだったのだろう。 彼への想いを消すことができなかった。 おかげで私は2
アカウントの名前にもしている「紫陽花」。 私は紫陽花が好きだ。 と言っても、 昔はさほどでもなかったように思う。 自分の生まれた月にちなんだ花だと思っているのは変わらないが、 それにしても子どもだった時の私には、 「雨の日の花」「梅雨時期の花」という印象で、 雨や梅雨=憂鬱な気分 が結びついていた私にとって、 更にイコールとなる紫陽花も、 そんなにポジティブなイメージを持っていなかったのだと思う。 今は、雨天に対するイメージが変わった。 雨は、恵であり、浄化だ。
家を一歩出れば山と田んぼと畑しかない。 そんな土地で育った。 緑は当たり前のように私の傍にあった。 私の家は山を所有していた。 ご近所さんはそんな家ばかりだ。 時間の流れはゆっくりだった。 すごく長い時間を過ごした気分なのに、 まだ一日が残っている。 そんな感じだ。 朝起きて、 朝食食べたと思ったらもうお昼、 昼食の食休みをしたと思ったらもう夕方、 という勢いで時が流れているように感じる 東京での暮らしとは大違いだ。 正直、本当に時間の感覚が 東京と実家の地とでは違うの
深夜1時前 洗濯物干すためにベランダに出る。 寝静まった夜。 斜め前の窓からは灯り。 外は静か。 空の音、雲の音? 自然の音。 地球が蠢く音がする。 部屋の中の電気音から逃れて、 ともすれば地響きのようにも聴こえる、 ごおおおぉっていう音が心地いい。 地平線のない都心。 遮られる視界。 深夜なのに明るい空。 何もかもが人工的な四角い枠の中で、 それでもただ触れる風だけが、 安らぎをくれる。 遠い緑の街から懐かしい空気を 運んでくれているよう