小説で行く心の旅⑦「夏の花」原民喜
今日は8月6日。79年前のこの日、世界で初めて原子力爆弾が広島に投下された日です。この悲惨な出来事を体験し語り伝える方は、年々少なくなっています。
小説で行く心の旅、第七回目は8月6日に広島で原爆を体験し「このことを書きのこさねばならない」と小説にした原民喜さんの「夏の花」をご紹介します。
「夏の花」は広島に原爆が投下されてから2年後の
1947年に「三田文学」に発表された作品です。
※「三田文学」は慶應義塾大学文学部を中心に刊行されてきた文芸雑誌(1910年創刊、現在も刊行中)
※「原民喜全集2」(芳賀書店)より
【 あらすじ 】
※ネタバレを含みます、ご注意ください。
「私の頭上に一撃が加えられ、
目の前に暗闇がすべり堕ちた」
1945年8月4日「私」は亡くなった妻のために
夏らしい黄色い花を手に、墓参りに行く所から物語が始まります。
2日後の8月6日朝8時過ぎ、私は下着一枚で便所に
入っていた時、突然頭上に衝撃を与えられ、嵐にあったような衝撃音と共に視界は真っ暗になり、何が起きたかわからずパニックになります。便所から出て視界が戻って来ると、立ち昇る砂埃や倒壊した家屋が目に入り、映画の舞台に立っているような気持ちになります。暫くすると妹や職場の同僚Kがそこに現れ、三人は火の手を避け川に向かいます。
「このことを書きのこさねばならない」
川に向かう途中、雑踏の中でKとははぐれてしまいます。そんな中倒壊した家屋から火の手が上がり「助けてえ」「家が焼ける、家がやける」という声があちこちから聞こえ、血まみれの人々が目に入って来ます。私はそんな中、自分がなぜ生きているのか考えます。そして「このことを書きのこさねばならない」と心に呟きます。
川へ向かって更に進むうち、地獄絵巻のような光景が目に入って来ます。河原には、男か女かもわからないほど腫れ上がった顔の人々が、息も絶え絶えに痛々しい身体を横たえていました。皆細い優しい声で「水を少し飲ませて下さい」「助けて下さい」と声をかけて来ます。
近くの公園で夜を過ごし、近くにいた数人の女子学生から声をかけられます。彼女等は皆酷い怪我で横たわっていました。彼女達は「お母さん、お父さん」「水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちゃん」と口々につぶやき、次第にうめき声に変わって行きました。翌朝、彼女達は亡くなっていました。日が昇り、瓦礫の山や人々の凄惨な姿が目に入り、公園は念仏や助けを求める人々の声であふれ、誰かが絶えず死んでいく場所になっていました。
私は長兄や次兄家族と合流し、長兄が手配した馬車で広島市街を離れようとします。その時、次兄は学生の息子の亡骸を見つけます。着ていた服でしか本人とわからない状態で、次兄は遺品のみを黙々と剥ぎ取り、涙も乾きはてた遭遇となりました。
知人のNは行方不明の妻を探して三日三晩、自宅から妻の職場への道を探してまわり、梯子に手をかけたまま亡くなった人や、前の人の肩に爪を立て、立ったまま亡くなった人の亡骸などを一つ一つ確かめて行きますが見つかりませんでした。それでもまた妻の職場に探しに戻った、という話で物語の幕が閉じます。
【読後感想】
後世に伝えたかった作者の想い
作者、原民喜さんは自分が生き残ったのは、
被爆体験を書き残し、後世に伝える為だと作中で伝えています。原爆により罪のない人々が老若男女、無残な死を遂げた事を、実際に被曝した広島市民の目で見て伝えており、その想いが伝わって来ます。主人公が妻の墓参りに行く所から始まり、Nが原爆により妻の亡骸を見つけられなかった話で終わっていますが、原爆は亡骸すら消滅させ、弔う事も出来なかった人々が沢山いた事を伝えたかったのでしょう。
あまりにも悲惨な光景が沢山あり、読むのが辛い作品ですが、原さんの想いを少しでも多くの方々に知って頂き、二度とこのような悲惨な出来事が起こらないよう、未来に繋げて行ければと思います。
79年前の今日、広島で命を落とされた沢山の
方々の魂が、安らかに眠る事を祈るばかりです。
戦争、そして原爆という悲惨な出来事を
後世に残したいと願った作者。
彼と心の旅をしてみませんか?
最後までお読み頂き、ありがとうございました。