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本の感想Vol.4:なぜ働いていると本が読めなくなるのか/三宅香帆

今回は、三宅香帆さんの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」について書いていきます。
小説ではなく、新書です。
私はあまり新書は読まないのですが、この作品は知人に勧められたので手に取ってみました。

この記事をご覧の皆さんはおそらくそんなことないと思いますが、世の中には本が読めない社会人の多いこと多いこと。
スマホをいじる時間はあるのに、読書はできない。
もっと言うと映画を見たり勉強をしたり、文化的なことが何もできない。
そんな現代の病理を、日本の労働史から紐解いていきます。

それでは書いていきましょう。


なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) | 三宅 香帆 |本 | 通販 | Amazon

①本のかんたんな紹介


あらすじ(Amazonより)
「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないか。
「仕事と趣味が両立できない」という苦しみは、いかにして生まれたのか。
自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿る。
そこから明らかになる、日本の労働の問題点とは?
すべての本好き・趣味人に向けた渾身の作。

***

本書は、所謂読書術を伝授するような自己啓発本とは異なります。
(最後にほんの少しだけ書いてありますが、主題ではない。)

むしろ、そうした自己啓発本は文化的な読書とは異なり、スマホゲームなど同じような部類であるというのが本書のスタンスです。

スマホゲームや自己啓発本は読めても、文芸作品は読めない。
その理由は、単に時間がないだけではないだろう。
なぜなら、日本は昔から、長時間労働が当たり前の社会だったのだから。
それでは、なぜ現代人は本が読めなくなったのか?
これが今回のテーマの出発点です。

事実として、明治から昭和の時代は働き方改革なんて言葉もなく、働けば働くほど稼げる時代でしたから、現代よりもよほど本を読む時間はないはずです。
それでも、人々は本を読んでいました。
それは社会情勢や、階級の違いを埋めようとする、修養・教養への渇望があったとしています。
普通に生きていると感じないかもしれませんが、この社会には歴然とした格差というものが存在します。
持てる者と持たざる者の溝は大きく、それを埋めるための手段が読書だというのです。

かつて読書はエリートだけのものだったのが、中流階級が登場したことでそれが階級や学歴を埋めるものとなり、女性の権利拡大により民衆のものとなっていく。
社会情勢や労働環境によって流行り廃りはあれど、読書は人々が「こうありたい」と願うものに近づくための手段というのは変わりませんでした。

そして現代。
新自由主義が台頭し、高度な情報社会と化した今日の日本において、読書がどんなものになってしまったのか、その答えはぜひ本書を読んで確かめてみてください。

おもしろかったのが、事あるごとに映画作品「花束みたいな恋をした」が引用されていることです。
私は単なる恋愛映画としてしか見てませんでしたが、確かに主演の菅田将暉はどんどん仕事に忙殺され、文化的な趣味を失くしたつまらない男になっていきました。
そして、菅田将暉とヒロインの有村架純にはちゃんと家庭環境、すなわち階級の違いもあったのです。
あの映画は、本書で述べているような階級差による文化的な趣味への意識の違い、そして労働により読書が離れてしまった現代人も、きちんと描いていたのです。

②印象的な一節の引用抜粋

"大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。"

本書の結論のひとつと言える一説です。
現代人はノイズが苦手です。
欲しい情報がすぐに見つかり、短絡的な娯楽が溢れた中では、読者は非常にストレスの高いものなのかも知れません。
しかし、本書は自分が欲しい情報――自分の文脈だけでは生きていけないと説きます。
ノイズを受け入れるだけの余裕を持って生きられるようにすることが、大切なのです。

"「自由」はなにより優先されるべきだと言われた 20世紀を経て、 21世紀の今、実は「自由」によって私たちは鬱病を罹患することもある。"

"むしろ自分から「もっとできる」「もっと頑張れる」と思い続けて、自発的に頑張りすぎて、疲れてしまうのだ。"

"自分の意志を持て。グローバル化社会のなかでうまく市場の波を乗りこなせ。ブラック企業に搾取されるな。投資をしろ。自分の老後資金は自分で稼げ。集団に頼るな。――それこそが働き方改革と引き換えに私たちが受け取ったメッセージだった。"

このあたりは普段サラリーマンをしている私にもグサグサ刺さりますね。
気づくと自分を鼓舞して、過労とも言える努力を強いるのは他ならぬ自分自身なのです。
それこそが正しい、それこそがあるべき姿と思い込んでしまっていたことに気がつくと、なんだか寒気がしてきますね。

"「全身」でひとつの文脈にコミットメントすることは、自分を忘れて、自我を消失させて、没頭することである。"

"自分を覚えておくために、自分以外の人間を覚えておくために、私たちは半身社会を生きる必要がある。"

"働きながら本を読める社会。それは、半身社会を生きることに、ほかならない。"

本書は、本を読める社会とは、全身ではなく半身で頑張る社会だと言います。
私は本を読める社会とは、すなわち人間が本来の姿を取り戻し、文化的に生きられる社会ということだと思います。

確かに、仕事だけを頑張るのは他のことを考えなくて済むし、仕事という大義名分があるから気も楽なんですよね。

何かと神聖化される労働だけでなく、他の文脈を持つこと。
そのために、自分の半身は生かしておくこと。
現代人には、その心がけが必要なのかも知れません。

③思ったこと、感じたこと

私は比較的本は読める人生を送っていると思います。
でも、やりたいけどできないことはたくさんあります。
将来の夢のための勉強、小説の執筆、その他趣味のあれこれ。
私の場合はこれらのことが、本書で言うところの読書なのかもしれません。

本書は本を読む方法を書いているのではなく、読書を含めた文化的な営みを取り戻せる社会になるべきだと述べています。

社会情勢や経済の動向などはコントロールはできず、私たちはそれらに振り回されて生活も労働も変わります。
それでも、そんな社会には半身で向き合い、ちゃんと自分のための余裕を残しておきたいものですね。

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