身に覚えのない風景(無題/カーソン・マッカラーズ)
「人は何もかも計画することなんてできないんだよ」
――本文より引用
このセリフだけは、よく覚えていた。
覚えていたというか、ぼくのどこかで痕になって、膿んでじゅくじゅくした音を立てるのを聞いていた。そのくせ、空であらすじを辿ろうとすると、上手くいかない。
『無題』(カーソン・マッカラーズの20代のころの習作。未完成のまま、後年未発表作品集としてまとめられた。)は、アンドルーという青年の追憶で、その記憶は汗ばむほど蒸している空気を纏っていて。思い出せたのは、それだけ。たぶん、正確でもない。(読み返してみると、まあまあ合っていた。)
「人は何もかも計画することなんてできないんだよ」
その通り。
その通りだ。
と、自分の中でふくれ上がる化けものが、外へ出ないように必死でこらえているぼく。を見ているぼくは思う。
熱にうなされるぼくと、それを醒めた目で見ているぼく。
必死なぼくと、それを嘲るぼく。
ぼくが二人になる度、思い出す。
ささやかな、でも幸せな日々に翳りが差す。そんな話で(たぶん)誤っていない。
けれど、ぼくにとって印象的だったのは、話の筋じゃなくて、全編に渡って漂う匂いや空気だった。汗ばんだ肌。蒸し暑い空気の塊。もう何年も読んでいなかったのに、覚えていたこと。
頭ではわからぬまま待っていたことが起きたのはその時だった。全然想像しなかった、あとで考えると無から飛び出してきたように思えること――頭にはそういうふうに思えたが自分のなかの別の部分ではそうではなかった。
――本文より引用
あとは、ところどころ指を突き刺されるような一節。
自分にはまったく関係のない家庭の話。家族関係の話。けれど、その中で過ごす『彼』が、ぼくに重なることがある。それは、『彼』のせいではなく、ぼくの頭が勝手にもたらしたものではあるんだけど。
それとも、他にもいるんだろうか。この話を読んだ人の中に。部外者であるはずの自分が、突然物語の中へ引きずり込まれるような――もしくは、自らの現実と向き合わされるような。
恐ろしくもあるけど、ぼくはこの小説を手放すことができなかった。そういえば、これをいつ手にしたのか、忘れてしまった。
『無題』。習作。未完成で未発表。それは「なんの力も持たない」という意味じゃない。『無題』は今でも、ぼくを現の奥へ引きずり込む。
無題 - カーソン・マッカラーズ(『MONKEY Vol.7』収録)(2015年)