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文がこちらに寄り添ってくれるのか、こちらが文に同化してるのか。
ほぼ日手帳簡体字版の、日々のことば翻訳チャレンジ2025。
今のところ順調に進んでおります。
中国語に関するはてな?はその後は出ておらず、翻訳練習を楽しめております。
先日、Xのほぼ日公式アカウントで日々のことばをポストしてくださっているのを見つけました。
日本語版も簡体字版も日々のことばは同じ内容になっているようで、つまりわたしの翻訳の答え合わせが自分で引用元を検索せずともほぼ日公式さんでぱぱっとできると判明。
やだ、嬉しい…☺️
翻訳の練習になれば、と思ってやっているけど本当に楽しい。
ただ文法的なことや単語の意味を理解するためだけならすぐに飽きちゃうと思う。
この翻訳練習で楽しいのは、こういう意図が含まれてるのではないか?と文脈から想像して翻訳文に落とし込む作業の部分だ。
私が原文から感じたものを、翻訳文の中にいかに、さりげなく、含めることができるか。
そこを楽しみながらやっている。
答え合わせをするとき、ほぼ日公式さんのポストを読むとき、私の翻訳とニュアンスが近いとめちゃくちゃ嬉しい。
元記事を読んでいくともっとそのニュアンスがひろがってもっと楽しい。翻訳時に私の感じたものと元記事の意味とが違っていても、それも含めて楽しい。
日々のことばに抜粋されていることばたちの元記事を、過去に目にしていないか、読んでいても忘れちゃってることが多いのだろうと思う。
そのことが逆に、初見が中国語の文章であることでよりフラットな気持ちで翻訳作業に取り組めてるように思う。
これから先、「!このことば、この記事、読んだことある!」とわかる中国語の日々のことばと出会ったときは、そのニュアンスがより強く翻訳前に蘇ってくるんだろうか?それもまた楽しみではある。
今日も翻訳、楽しくやったのだけど、たまに、本当にたまに、スーッと、なんの苦労もストレスもなく翻訳ができちゃうことがある。
文法的なことが単純だからだとか知らない単語がなかったからとか、そういうこととは違う。
そんな文章を翻訳したときの幸福感。あれは一体なんなんだろうか。
乱暴な表現になるかもしれないけど、その文章に憑依した(された?)ように、するすると言葉が(日本語訳として)出てきちゃう。
自分で言葉を選ぶ感覚はなくて、本当に言葉の方から出てきてくれる。
今日、久しぶりにそういう翻訳体験をした。
1月9日の日々のことばの、とらやさんに関する文章だ。
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あっという間に翻訳し終えて、満たされたー!ったいう感覚。
実際に答え合わせをしてみたら、あれ?ちょっと違ってた…?ってなる可能性はあるかもしれない笑。
それはそれで、結果としてはそうでいいんです。
翻訳を終えた瞬間のこの幸福感は、結果とは全く別のところの話。
次この幸福感をいつ味わえるのかと思うと、やめられない気がする。