邪馬台国 菊池郡山門説 -うてな遺跡-
古代日本の謎として長く議論が続いてきた邪馬台国の所在地。300年以上にわたる論争は、いまだ決着を見ていません。
前回、まぼろしの邪馬台国~その虚像と実像で示しましたとおり「邪馬台国は強国ではなかった」という視点を元に、その所在地を突き止めてみようと思います。
従来説の問題点
邪馬台国畿内説の問題点
畿内説は、魏志倭人伝の重要な記述である「自郡至女王國 萬二千餘里」(帯方郡から女王国まで12,000余里)を無視しています。また、「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」の「南」を「東」の誤りとする根拠のない解釈を行っています。
さらに、箸墓古墳の築造年代を西暦240〜260年とした春成秀爾の研究「古墳出現期の炭素14年代測定(国立歴史民俗博物館2011)」を含む旧INTCAL09での研究結果について、同論文のサードオーサーに名を連ねる坂本稔からも最新の年代測定技術(INTCAL20)に基づく再評価が必要であることが指摘されています(鷲﨑弘朋「緊急レポート!! 炭素14年代:国際較正曲線INTCAL20と日本産樹木較正曲線JCAL」日本古代史ネットワーク)。
箸墓古墳の築造年代が卑弥呼の没年に近いという理由で成立していた「邪馬台国畿内説」ですが、ここにきてその根拠に疑問が生じています。
あろうことか2024年に某公共放送が制作した「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」においてはその疑惑の研究報告を畿内説の証拠として挙げています。この番組は私に「弥生時代の記事を書かなければならない」という強い動機付けを与えてくれたものなので、そういう意味では感謝はしていますが、安本美典が「NHKスペシャル 古代ミステリー 第1集「邪馬台国の謎に迫る」の番組の徹底批判」で指摘している通り、NHKには取材をして裏付けを取るという報道機関として最低限の文化は持ち合わせていないようです。
邪馬台国九州説(特に福岡説)の問題点
九州説、特に福岡説を支持する研究者の中には、魏の使者は伊都国までしか訪問しておらず、それ以降の行程は伝聞によるものだとする「放射読み」説を採用する傾向があります。
しかし、この解釈は魏の皇帝の勅命の重要性を軽視しており、実際に建中校尉梯儁が邪馬台国を訪問したという記述と矛盾します。
また、魏志倭人伝の行程に関する記述は、帯方郡から女王卑弥呼がいる邪馬台国までの道のりを明らかにするのが目的だと考えられます。「放射読み」説は投馬国を魏使の行程から外すことになってしまい、投馬国が魏使の行程と無関係であるならば、なぜ遠隔地の投馬国を魏志倭人伝に書き記さねばならなかったのかという疑問が生じます。
本稿では魏使の行程を直線読みとしています。また「水行二十日」「水行十日陸行一月」という記述も正しいものだと捉えた上で、邪馬台国の位置を熊本県の菊池郡山門「うてな遺跡」に比定しました。
そのような考察に至った経緯を以下に述べます。
魏志倭人伝の距離と方角からの考察(直線読み)
魏志倭人伝には、帯方郡(現在の韓国ソウル近郊)から邪馬台国までの詳細な行程が記されています。この記述を正確に理解することが、邪馬台国の位置を特定する上で極めて重要です。
まず、帯方郡から奴国(現在の福岡市博多区付近)までの距離は、合計10,600里と記されています。帯方郡から邪馬台国までの総距離12,000余里から奴国までの10,600里を引き算すると、奴国から邪馬台国までの距離は1,400里となります。
1里の長さについて古田武彦の研究「古代史のゆがみを正す: 短里でよみがえる古典」によれば、当時の1里は約75mと推定されています。これは、魏志倭人伝に記された狗邪韓國から対馬までの距離(1,000里)、対馬から壱岐までの距離(1,000里)が、実際の距離(約70〜80km)とほぼ一致することからも裏付けられます。
この換算を用いると、奴国から邪馬台国までの距離は約105kmとなります。この距離を地図上にプロットすると、邪馬台国の位置は大分県の北西部から熊本県北部の範囲に絞られます。
さらに、魏志倭人伝には「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」という記述があります。これは、奴国の南に投馬国があり、さらにその南に邪馬台国があることを示しています。この方角の情報も、邪馬台国の位置を特定する重要な手がかりとなります。
地形と人口規模からの考察
魏志倭人伝には博多平野にあった奴国(2万戸)から東へ7~8kmの距離にある不弥国の南に投馬国(5万戸)があり、さらにその南に邪馬台国(7万戸)があったと記されています。弥生時代後期の人口密度を考慮すると、これだけの人口を養うためには相当規模の平野と十分な水源が必要です。
九州において、この条件を満たす平野は二つあります。一つは筑後平野、もう一つは菊池平野です。筑後平野は現在の福岡県南部から佐賀県にかけて広がる平野で、菊池平野は熊本県北部に位置します。
これらの地理的特徴と、魏志倭人伝の距離・方角の記述を組み合わせると、投馬国は筑後平野、邪馬台国は菊池平野に位置していた可能性が高いと考えられます。
また先にご紹介した「弥生時代の九州(熊襲の国)」で熊本県白川より南の熊本平野は球磨郡で多く発掘される免田式土器の大量出土地となっていることから、球磨の勢力下にあったとみられます。
地名の類似性からの考察
古代の地名は、その音や意味が時代を超えて受け継がれることがあります。魏志倭人伝に記された国々の名称と、後の時代の郡名との間には興味深い類似性が見られます。
例えば、末盧国は後の松浦郡、伊都国は後の怡土郡となっています。
この類推を投馬国、邪馬台国に当てはめると、「投馬」という音は「妻」に類似し、「邪馬壹」という音は、後の「山門」という地名に通じる可能性があります。
投馬国 筑後国上妻郡・下妻郡周辺(投馬=トゥマ=妻)
(筑後平野:福岡県久留米市・八女市・筑後市・広川町近辺)
邪馬台(壹)国 肥後国菊池郡山門周辺(邪馬壹=ヤマィツ=山門)
(菊池平野:熊本県菊池市・山鹿市・合志市)
狗奴国 肥後国飽田郡以南~球磨郡(狗奴=クナ=球磨)
(熊本平野+人吉盆地:熊本県熊本市~鹿児島県北西部)
なお、普段われわれは邪馬台国と通称していますが、本来魏志倭人伝の表記では「邪馬壹国」となっているためここでは「邪馬壹」読みを採用しています。
実際、平安時代の地誌『和名類聚抄』には、肥後国菊池郡に「山門」という地名の存在が記録されています。この「山門」は、現在の菊池市の一部に相当すると考えられています。
弥生時代の九州勢力図
そして、これまで弥生時代の九州各地域の勢力について考察してきた内容に、魏志倭人伝の記述を加えて図にしたものがこちらになります。
末盧国 肥前国松浦郡
広形銅矛交易圏 対馬、壱岐、伊都、奴、不弥、豊の国、西四国にまたがる広形銅矛をシンボルとした通商連合都市国家群
女王国連合 邪馬台国を含む有明海周辺の肥の国諸国連合(邪馬台国・吉野ケ里他)+伊都国(広型銅矛交易圏との二重加盟)
邪馬台国への行程は建中校尉梯儁の報告によるもの
魏志倭人伝の記述の信頼性を評価する上で、その成立過程を理解することは重要です。
魏が倭国に使者を派遣したのは2回あります。1回目は正始元年(西暦240年)の建中校尉梯儁の派遣です。
<現代語訳>西暦240年、帯方郡太守である弓遵は建中校尉の梯儁等を倭国へ派遣した。梯儁等は詔書と印綬を捧げ持って倭国へ赴き、倭王に授けた。
並びに、詔をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は魏使に対し、詔の有難さに感謝の意を伝えた。
2回目は正始八年(西暦247年)の塞曹掾史張政の派遣です。
<現代語訳>西暦247年、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
張政は卑弥呼の死後も邪馬台国に滞在し、その後の政変を目撃していますが、彼の報告には年号の記載が無いなど、断片的なものにならざるを得なかったようです。
そのため邪馬台国への行程の詳細な記述は、梯儁の報告に基づいていると考えられます。
建中校尉梯儁使節団の規模
魏志倭人伝には「遣建中校尉梯儁等」と記されています。この「等」という表現は、梯儁が単独ではなく、随員を伴っていたことを示唆しています。
当時の中国の軍制を参考にすると、校尉という地位は700名から数千名規模の部隊を率いる指揮官でした(後漢・三国志時代の官職・軍官編)。さらに、魏の皇帝から邪馬台国への下賜品の数量を考慮すると、使者団の規模は少なくとも千人規模、場合によってはそれ以上だったと推測できます。
その裏付けとなる事柄として、魏の使者が当時の貿易港伊都国へ直接上陸したのではなく、その上陸地点が末盧国だったことが挙げられます。
末盧国での上陸地点・呼子
魏使の上陸地点が伊都国ではなく末盧国になっています。「原の辻=三雲貿易」ではその名の示す通り、伊都国の三雲遺跡へ貿易船は直接乗りつけます。弥生時代の倭の船は丸木舟が主体でした。
現在より5mほど海面が上昇していた弥生時代の伊都国は遠浅の海岸線が続き、喫水の浅い船であれば砂浜へ上陸することが可能でした。しかし魏使たちは経由地である伊都国へ向かうにあたり、なぜか末盧国へ上陸してから陸路伊都国へ向かっています。しかもその行程たるや「草木茂盛 行不見前人(草木が盛んに茂り、行く時、前の人が見えない)」と道なき道を行く様を嘆いている通り、普段の通商ではまったく利用していない道を使ったことが記されています。
これは魏船が大部隊の輸送と下賜品の運搬のために喫水が深い船を使用しており、伊都国の砂浜への上陸ができなかったことを示しています。
船の喫水の深さは積載量が大きいことを表しています。
丸木舟では運べない量の物資、もしくは人員の移動があったことがうかがえます。
そのため、末盧国での上陸地点となりうるのは遠浅の唐津ではなく、リアス式海岸であり喫水の深い船が接岸できる呼子であったと考えられます。
ここは弥生時代は未開の地でしたが、加部島が日本海の波頭を遮り、古代律令以降は官道が整備され駅路も置かれることにもなる天然の良港でした。
魏志倭人伝では「遣建中校尉梯儁等」と8文字で簡単に表現しています。しかし弥生時代の数千から数万戸のクニグニにとって、統制が取れ、おそらくは武装していたであろう千名規模の遣使団という名の軍隊の通過は脅威的なものだったことでしょう。
「水行二十日」「水行十日陸行一月」の謎
魏志倭人伝の記述の中で最も謎とされてきたのが、不弥国から投馬国を経て邪馬台国に至る行程です。「水行二十日」「水行十日陸行一月」という記述を正しいものとし、かつ直線読みで解釈すると約105kmの距離を2ヶ月もの時間を要して移動したことを示しています。
このあり得ないほど遅い移動速度が邪馬台国九州論における最大のハードルとなっています。
その答えを探る手段として、千名規模の遣使団と、遣使団が水行を行った領域に着目してみました。
投馬国の領域
不弥国の場所は諸説ありまだ特定はされていませんが、現在に至る地名の連続性から福岡県糟屋郡宇美町に比定する説が有力です。
その領域は現在太宰府市となっている宝満宮竈門神社あたりまであったのではないかと考えています。ここは魏使が水行する宝満川の源流となっており、この時代の川上信仰から旅路の祈願を行ったと想像します。
不弥国の南にあった投馬国については筑後平野の上妻郡、下妻郡の領域および筑後川南岸に比定しました(筑後川中流域については要検討)。筑後川と矢部川に挟まれた丘陵には多くの弥生遺跡の存在が確認されています。
ここは後の時代、筑紫の君磐井の陵墓である岩戸山古墳も妻郡内にあり、2023年に南西にあたる場所に新たに吉田・辺田ノ上遺跡が発見されました。岩崎遺跡群と合わせると、この付近に投馬国の首都機能があったのではないかと予想します。
また近隣には吉野ケ里遺跡がありますが、こちらは肥前国神埼郡の領域となり、「肥の国」のグループ、つまり女王国構成国の一国だったと考えられます。和名抄では「加無佐岐」とあり、音で近いのは魏志倭人伝に邪馬台国の「旁國遠絶」のひとつとして記された、華奴蘇奴國でしょうか。
郡名が弥生時代の国々を表すように、「肥」や「筑」などの旧国名はその上位のグループの存在を想起させます。
「肥の国」であった肥前と肥後がなぜ陸路で繋がっていないのか不思議に思っていましたが、この「筑紫」の投馬国が間にあったがゆえに「肥」は陸続きになれなかったものと思われます。
投馬国は女王国である「肥の国」のグループとは別個の国であり、魏の使者の通行の許可は得られても食料や輸送手段となる舟の確保に協力は得られなかった可能性があります。
投馬国内の移動は水行に限定
魏志倭人伝の行程である「水行二十日」「水行十日陸行一月」をプロットするとこのようになります。
魏志の表記で不可解な点として、末盧国から東南五百里で伊都国、さらに東南百里で奴国とあるように現在の地理感覚では東北東を東南としていることがあります。理由は不明ですが、魏志の表記には約30°ほど方角にずれが認められます。しかし邪馬台国畿内説が主張する南が東となるような90°のずれはありません。
魏の遣使団ですが、投馬国内の領域を通過するにあたり陸行ではなく、なぜか水行を選択しています。
筑紫平野はほとんど平地であるため、徒歩で通行するのに何の苦労もなく、実際に遣使団は末盧国到着後、草深き獣道までも陸行してきています。
軍事力の行使を危惧されてか、占いで水行のお告げが出たのか理由は明確ではありませんが、投馬国から遣使団の通行許可は得られたものの、領内を徒歩で行軍することを禁じられていた可能性があります。
兵站の破綻による行程の遅延、そして玉虫色の復命報告
水行にかかった時間の謎は、大部隊を少数の丸木舟でピストン輸送するのに日数がかかり、さらにその分食料の確保に追われてさらに余計な時間がかかってしまった、というのが真相ではないでしょうか。
魏の一行の人数が邪馬台国の想定を上回ったのか、手違いで舟を集められなかったのか、いずれにしろこれは邪馬台国側の落ち度です。
繰り返しますが「自郡至女王國 萬二千餘里」として魏では邪馬台国までの正確な距離を把握していました。しかし1400里(105km)ほどの距離に「水行二十日」「水行十日陸行一月」と2ヶ月もかかってしまったことは邪馬台国の兵站能力の貧弱さを示すことになります。
帯方郡に帰還した魏の使者建中校尉梯儁は復命という名の業務報告を行うにあたり、通常の行軍では考えられない長い時間が費やされたことについて報告を行う義務がありました。
ただしこれを明確に記してしまうと、報告者である梯儁も戦時下の魏の兵力を(事情があったにせよ)遊ばせていた責任問題に発展しかねません。
レビラト婚の時もそうでしたが、魏の正史には邪馬台国にとって不利になる記述は婉曲な表現となっており、直截の言及を避けています。
「事実は記せどすべては記さず」という誰も傷つけない解決策が「水行二十日」「水行十日陸行一月」という表現になったのではないでしょうか。今日のわれわれを大いに混乱させることになるとは、当時誰も思いはしなかったでしょう。
そして、投馬国を出発した魏使一行は矢部川支流から再び川を下り「水行十日」がかりで筑後国山門郡にある瀬高付近に上陸し、旧西海道(現国道443号沿い)で邪馬台国へ陸行します。
なお筑後国山門郡も邪馬台国九州説の有力な候補地のひとつですが、7万戸を養える平地も水源も足りておらず、また菊池平野が狗奴国だったとするとその脅威に対して地政学的に無防備です。
筑後国山門郡瀬高はあくまで邪馬台国への入り口だったとすべきでしょう。
瀬高でようやく舟の呪縛からは解放されますが、ここから先は陸行であるにも関わらず「一月」の時間を要しています。
これも理由は定かではありませんが、邪馬台国が狗奴国と戦闘中であったか、占いでよい日取りを選んでいたのか、はたまた魏の使節一行を饗応するための食料備蓄に手間取ったか、いずれにしろ報告書に記す訳にはいかない理由があったものだと推測します。
ともあれ「水行二十日」「水行十日陸行一月」は時間だけの概念を表しており、そこに距離の情報は含まれておりません。
状況的にこれまで述べてきたような解釈も可能であるならば、距離については魏志倭人伝に記載されている「自郡至女王國 萬二千餘里」を正しいとするべきでしょう。
邪馬台国 菊池郡山門説
肥後国菊池郡山門を邪馬台国に比定したのは私のオリジナルではなく、江戸時代の学者近藤芳樹が先鞭をつけ、昭和初期には系譜学者の太田亮が邪馬台国を熊本県北部の菊池郡山門郷とその周辺とし、投馬国を福岡県の上妻・下妻・三潴の三郡の筑後川流域としていました。こちらは、ほぼ私の考えと一致しますが、「水行十日陸行一月」が、投馬国ではなく、対馬から邪馬台国までの距離を示しているとした部分が私の考えと異なります。
私が邪馬台国熊本説に興味を持つきっかけとなったのは伊藤雅文の「邪馬台国は熊本にあった!」という書物です。こちらでは、九州説に多い放射読みの否定や、魏使は伊都国に留まったのではなく実際に邪馬台国へ訪問していることを指摘するなど大変参考になる記述が多いですが、狗奴国の位置を熊本県の外に置いていること、そして「水行二十日」「水行十日陸行一月」の記述を改ざんとしている点が自説とは異なっています。
また、丸山雍成は「邪馬台国魏使が歩いた道」で免田式土器の出土状況から狗奴国を肥後南部の球磨郡とし、熊本県の福岡県に匹敵する鉄器出土状況や交通史学の観点からうてな遺跡を邪馬台国に比定しています。
結論は私と同じであり、こちらの書では熊本県の弥生遺跡の詳細が記されており大変参考にさせていただきました。
しかし残念ながら「水行二十日」「水行十日陸行一月」に関しての結論がなく投馬国の位置が不明瞭となっています。
邪馬台国の比定地 菊池郡山門
「菊池郡山門」という地名は和名類聚抄に記録が残っているだけで、2024年の現在、地図上には存在していません。
平凡社「日本歴史地名大系」によると以下の記述があり、迫間村、龍門村・水源村の範囲が該当することがわかります。
それぞれの村も現在は菊池市に合併されてしまい町名として残るのみですが、その領域を衛星写真上で赤く囲み、弥生遺跡と魏使の行程をプロットしたものが次の図となります。
後の鞠智城を含む菊池川中流域にヤマトの地名が存在していたことになります。
弥生中期までは平和の海、パクス有明海を謳歌していた肥の国連合ですが、弥生後期では緑川、白川を狗奴国に抑えられ、有明海の制海権の確保も難しい状況となっています。
甕棺墓文化が衰退した理由も、肥前のエリアで生産されていた大型甕棺を海路で肥後エリアまで運べなくなってしまったためと考えられます。
また魏の使節団が有明海を進まなかった理由も安全な内陸の通行を選んだことが理由なのでしょう。
邪馬台国を構成する遺跡
方保田東原遺跡は約35haの規模の弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落遺跡となり、全国で唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器など数多くの青銅製品や鉄製品が出土しています。出土土器も、山陰系や近畿系など西日本各地から持ち込まれたとみられる土器が出土しており、菊池川中流域の拠点的な集落であったと考えられています。
西弥護免遺跡は大津町中心街の北側、阿蘇外輪山西麓の標高約160mの台地上にあり、宅地造成に伴う事前発掘調査により全容が明らかとなりました。多量の鉄鏃が見つかり、あまりにも出土鉄器が豊富過ぎるため、この地では弥生時代から既に製鉄が行われていたとする説もあります。居住区は楕円形の環濠をめぐらし、墓地はその東西の外側にありました。墓地は土壙墓と木棺墓で、別地点に弥生前期と中期の甕棺一一基が出土しています。環濠は数条あり、環濠に囲まれた集落がしだいに拡張されていったようです。
邪馬台国の対狗奴国最前線基地であったと目していますが、現在は住宅街となっています。
うてな遺跡
熊本県菊池市七城町台にある「うてな」という地名を冠したこの遺跡は、縄文時代から室町時代まで続く複合遺跡です。ここからは、中国の「新」の時代の硬貨である貨泉や、全国的にも珍しい凝灰岩製の腰掛が出土しています。
特に注目すべきは「うてな」という地名です。魏志倭人伝には「因詣臺 獻上男女生口三十人」という記述があり、ここでの「臺」は魏の皇帝が政務を執る場所を指しています。邪馬台国の人々が魏にならって自国の首都にも「うてな(臺)」の名を冠した可能性があります。
これらの遺跡群は、弥生時代から古墳時代初期にかけて、菊池川流域が政治的・経済的に重要な地域であったことを示しています。
菊池川流域の地理的特徴
邪馬台国を菊池川流域に比定する上で、この地域の地理的特徴を理解することは重要です。
中原英の研究によると、現在の菊鹿盆地と呼ばれる菊池川中流域には、約1700年前の弥生時代に「茂賀の浦」と呼ばれる湖が存在していたことが示唆されています。主要な弥生遺跡は、この推定される湖の周辺に分布しています。
この「茂賀の浦」という湖の存在は、
豊富な水資源の供給
水運による交通・物流の利便性
漁業などの食料資源の確保
防御的な地形の形成
などの利点をもたらしたと考えられます。これらの要素は、大規模な政治的中心地の形成と維持に不可欠なものです。
縄文時代から続く複合遺跡であるうてな遺跡が、邪馬台国の中心地、具体的には女王卑弥呼の居住地であった可能性は十分に考えられます。
堤克彦は熊本・菊池の歴史アラカルト(5)私流「魏志倭人伝」の読み方 ③-「菊池山門説」の正否において、
「確かに弥生後期には佐賀県吉野ヶ里遺跡に匹敵する「うてな大集落」の存在は確認されている。近くには山鹿市の「方保田東原遺跡」の製鉄・銅などの工房施設などがあり、かなり進んだ地域であったことは間違いない。
しかし3世紀中期の邪馬台国時代には、菊池平野(菊鹿盆地)全体がまだ「茂賀の浦」の湖底にあり、崩壊したのは4世紀後半と推定される。その後干地化したが、まだ多くの大小の湖沼が散在していたため、決して豊かな水田農耕地帯ではなかった。また『魏志倭人伝』にある女王卑弥呼の「宮室」や「楼閣」「柵城」などの遺構は出土していない。」
と論じていますが、縄文期から弥生期にかけて後退した「茂賀の浦」によって、うてな遺跡周辺には広大な稲作可能地帯が広がっていました。また灌漑設備の貧弱な古代において、天然の貯水池となりえた「茂賀の浦」の効能についての認識を欠いていると言わざるを得ません。
そして、うてな遺跡の発掘箇所は上図「うてな遺跡航空写真(南上空より)」にある通り台地の縁の一部を調査したにすぎず、台地中央部を含む台地のほとんどが2024年現在未調査となっています。調査していないことをもって、「宮室」や「楼閣」「柵城」などの遺構が出土していないと断じてしまうのは早計なのではないでしょうか。
古代の交通路と鞠智城の存在
邪馬台国菊池郡山門うてな説を支持するもう一つの証拠として、古代の交通路と鞠智城の存在が挙げられます。
延喜式以前に設定された駅路は、鞠智城の南麓、うてな遺跡の脇を通っていたことが知られています(『鞠智城跡』熊本県文化財調査報告第一一六、一二四集、熊本県教育委員会)。
また、7世紀に築かれたとされる鞠智城の存在も注目に値します。
「大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」と『続日本紀』にあるように白村江の戦い後に築かれた水城・大野城・基肄城とほぼ同時期に建造されたとされます。鞠智城ですが九州防衛について他の城に比べ、あまりにも内陸にあり、その戦略的重要性には疑問が生じます。
しかし、もし唐が魏の時代の冊封国であった邪馬台国の場所を知っており、大和朝廷がそこへの唐の進軍を恐れていたと考えれば、鞠智城の立地に合理的な説明がつきます。つまり、大和朝廷は邪馬台国の所在地を知っており、そこを防衛する必要があると考えたのではないでしょうか。
「うてな」は、古代日本にとって極めて重要な場所であったのでしょう。
狗古智卑狗という名前
<現代語訳>(邪馬台国)その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。
魏志倭人伝に記される狗奴国の官クコチヒクについて、その音感から「菊池彦」であるとして、漠然と菊池川周辺が狗奴国の支配領域であるかのような印象を与えてきました。
しかし前項「まぼろしの邪馬台国~その虚像と実像」で、伊都国駐在の一大率という女王国の官名が、一大(壱岐)国担当長官であるという考察を行いました。卑弥呼の時代には、業務対象とする地域名を官の名前に当てる風習があったと考えられます。
つまり「狗古智卑狗」についても、狗奴国における対菊池攻略将軍という意味合いであったと考えることができます。
弥生時代の熊本県下における鉄器の出土状況について詳細を記した菊地秀夫の「邪馬台国と狗奴国と鉄」では、狗古智卑狗を菊池川流域の拠点集落を治める肥後狗奴国の対女王国連合への前線長官としています。しかし、逆にクコチ(菊池)が狗奴国の攻略対象として重要な地点であったという証左となりえるのではないでしょうか。
邪馬台国の終焉
邪馬台国はその後どうなってしまったのでしょうか。
邪馬台国の最期については、日本書紀に興味深い記述があります。
<現代語訳>丙申の年(396年?)、(軍が)山門県に移動し、そこで土蜘蛛の田油津媛を処刑しました。その時、田油津媛の兄である夏羽が軍を率いて迎え撃とうとしました。しかし、妹が処刑されたことを聞いて逃げてしまいました。
これは4世紀頃、山門にいた田油津媛が神功皇后により殺されたという記述です。この「山門」を肥後国山門に比定すると、これは邪馬台国の滅亡を示唆する記述と解釈できます。
それを裏付けるように、有力な弥生遺跡が存在していたにも関わらず菊池川中流域における前方後円墳の成立時期は近隣の他地域に比べ遅れ、4世紀末頃の築造となっています。これは大和王権とは異なる勢力が菊池川中流域に存在していたことを示唆しています。
大和王権による征服後、邪馬台国の存在は意図的に歴史から抹消された可能性があります。「ヤマト」という名称も、畿内の「大和」に奪われ、その領域は狗奴国の領域だったかのように扱われるようになったのかもしれません。
そして1700年経った現在でも邪馬台国は畿内にあったと主張する人々があふれています。
七城町臺の地名は、邪馬台国の人々が遺した最後の抵抗だったのかもしれません。
まとめ
・魏の使者団は実際に邪馬台国を訪問していた。
・使者団の規模は千人以上の大規模なものだった。
・投馬国は筑後平野、邪馬台国は菊池平野に位置していた。
・「水行二十日」「水行十日陸行一月」という長い移動時間は、大規模な使者団の輸送と食料確保の困難さによるものだった。
・「うてな遺跡」を含む菊池川中流域は肥後「山門≒邪馬台(壹)」と呼ばれていた。
・菊池川中流域は有力な弥生遺跡があるにも関わらず前方後円墳の築造は他地域より遅い4世紀末頃となっており、大和王権とは異なる勢力がいた。
・「山門」は4世紀末頃に大和王権によって滅ぼされ、その存在は歴史から意図的に抹消された。
・大和王権は肥後「山門」を重視し、鞠智城を築城した。
・邪馬台国の中心地は、肥後「山門」現在の熊本県菊池市七城町の「うてな台地」にあった。
結論
箸墓古墳の築造年代についての最新の年代測定技術の適用
INTCAL20などの最新の年代測定技術を用いて、箸墓古墳の年代を再評価する必要があります。箸墓古墳の築造年代が卑弥呼の没年と異なる結果となった場合には、邪馬台国畿内説が論として成立し得るのかの再検討が必要になります。
うてな遺跡の本格的な発掘調査の必要性
うてな遺跡について邪馬台国であった可能性について論じてきましたが、考古学見地から見た場合の決定打に欠けており、現状では机上の空論にすぎません。
熊本県が1992年に行ったうてな遺跡の調査は道路整備のためにうてな台地の端の部分を調査しただけで、台地全体については手つかずとなっています。
うてな遺跡の全容を明らかにするため、うてな台地全体の大規模かつ系統的な発掘調査が必要です。特に、弥生時代後期から古墳時代初期にかけての遺構や遺物に注目し、この地域が政治的中心地であった可能性を検証する必要があります。
余談
魏使の規模が行軍の遅延の理由としましたが、魏からの下賜品の運搬にも時間がかかっていたのではないかと思われます。
豪華な下賜品と物流担当者の苦悩
<現代語訳> 今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する。
絹織物の文様がどのようなものだったのかは、きもの研究家の石崎功さんが考察されていますので興味のある方はご覧ください。
古代中国の単位である「匹」は約9.4mであり、五匹は47m、五十匹は470mということになります。古代の絹布の幅は9寸5分~1尺(29~30cm)とされており、下賜品の絹布も幅1尺1匹が巻物1巻相当であったと思われます。
また漢代の1斤を226.67グラム、1両を14.167グラムと推算されており(岩田重雄, 「新莽嘉量について」『計量史研究』)、8両で113g、50斤で11.3kgの重量となります。
下賜品の内訳
絳地交龍錦(深紅色の錦織) 五匹(47m)
絳地縐粟罽(深紅色の毛織敷物) 十張
倩絳(茜色に染めた薄い絹布) 五十匹(470m)
紺青(濃い藍色で染めた薄い絹布) 五十匹(470m)
紺地句文錦(藍色の錦織) 三匹(28m)
細班華罽(花模様の毛織敷物) 五張
白絹(無地の絹織物) 五十匹(470m)
以上で絹織物158巻、敷物8張、また以下の品々が卑弥呼個人宛に下賜されています。
金 八両(113g)
五尺刀 二口
銅鏡 百枚
真珠(水銀) 五十斤(11.3kg)
鉛丹 五十斤(11.3kg)
これらの品々を魏の皇帝曹叡は丁寧にも次のように詔書に認めています。
<現代語訳>帰り着いたなら記録して受け取り、これらの総てを汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。
目録とともにこのような添え書きまでついていましたので、輸送を担う梯儁はさぞ胃の痛む思いをしたことでしょう。輸送中、もし欠品や破損などしたら魏の面子に関わります。
また「皆装封付難升米牛利(皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する)」という曹叡の文言から、下賜品だけは難升米たちが邪馬台国へ持ち帰ったとする読み方もできますが、これだけの分量のものを彼らだけで搬送できたとは考えにくく、「(梯儁は)并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物(詔をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した)」とあるように、実際は梯儁が詔と下賜品をセットで送り届けたのでしょう。
そして、下賜品の輸送についての責任者がもう一人いました。伊都国駐在中の一大率です。「傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯(文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない)」と2000字の魏志倭人伝の中にわざわざ記載されるくらいです。伊都国通過後は邪馬台国へ自ら同行していたとしてもおかしくはありません。
そして品物を間違いなく届けるにあたって、物流担当者が行うことは古今東西変わりはありません。キャンプ地ごと、しかも毎日、これらの下賜品の検品を行ったものと推測します。
指揮命令系統も言語も文化も異なる梯儁と一大率という初対面の2人の人物が行う下賜品の輸送という一大事業が難事業であったことは想像に難くありません。まさに不弥国以降の水行陸行は「船頭多くして船山に上る」を体現することになったことでしょう。