盗まれたのは、高校二年の頃。 学校の自転車置き場から、僕の水色の自転車は姿を消した。 通学は徒歩では遠く、都合のいいバスも走っていない。すなわち傷は深い。 鍵を抜き忘れたのだろうかと考えてみるに、実にその通りで、飛行機の形のキーホルダーが付いたそれは、通学鞄のポケットに入っていなかった。 「お前の自転車、捨てられてたぞ」 クラスメイトが教えてきたのは、それから二週間が経った頃。どこにあったのかと聞くと、彼の家の近くの空き地だという。キーホルダーを見たから間違いないらしい。 拾
下りのエスカレーターに乗れないという、女の子と付き合ったことがある。上りは平気なのに。 はじめて聞いた時、冗談だと思って乗せようとしたら、トートバッグの肩紐が切れそうなほど抵抗されたので、これは本当だと思った。 「足を踏み外して落ちそうになる」 二十歳そこそこの女の子が、真顔でそう言うのだった。 だから僕は彼女と一緒に、何本もの階段を下った。特に健康にはなっていない。 ある駅に改札へ向かう長い階段(もちろん隣にはエスカレーター)があり、下り切ると右に券売機、左に折れるとパン
人には言えないようなことをして、人には言わないでおこう。 たとえばカーテンの向こう側。 たとえば午前一時の電話。気が付いたら逃げていた週末は、ずっと前から用意されていたのかもしれない。サービスエリアで手にしたソフトクリームは潔白の色。ギンガムチェックのシャツの袖をまくりながら、大丈夫だよと大ざっぱな言い方を僕はしたけれど、本当に大丈夫と思っていた。昨日読んだ田山花袋の小説の結末がひどかった。僕はそれを話す。興味を持たれないのは知っている。ソフトクリームが溶けていくのも知ってい
青い鳥しか飛ばない島があるという 北極圏のオオカミの遠吠えが 届くところにある島で 森と青い鳥しかいなくて 憎しみも争いもないって そんな童話みたいな話 あるのかなって言ったら ちょうどウェイトレスが 僕たちの頼んだパスタを持ってきた 話はそこで途切れ 宙ぶらりんのまま もう何年も過ぎてしまった 僕は時々 あの島のことを思い浮かべようとする でもその度 パスタばっかり出てくる 僕たちが食べきれずに 残したあのパスタが
牛乳瓶の底から見ているような世界。 淡い色彩の、輪郭のはっきりしない世界。 手を伸ばしても何にも届かないような、そんな世界を僕は思う。 試着室のカーテンを少し開いて、彼女が顔を覗かせた。ちょっと見てくれるかなと聞くので、いいよと僕は立ち上がった。 細かいレースのあしらわれた、真っ白いブラウス。僕は鏡越しに「いいと思うよ」と言う。そのスカートとも合うし。 彼女は小さく頷き、もうひとつも着てみると言って、カーテンをそっと閉めた。 牛乳瓶の底から見ているような世界。 上下左右を
机の上のノートパソコンをたたんで、少し奥に押し、手前のスペースにおでこを乗せてる。 いったい何分経過しただろう。こうしてるのが一番落ち着くって、どういうことだろう。 うるさい、うるさい、世界はうるさいのです。それでも繋がっていないと、この椅子から落下して、僕は無限空間に放りだされる。手足をばたばた。サイダーキャンディは口の中。 鳥の鳴き声が聞こえる。きっと廊下の柵の上に止まってる。 僕は何度かその姿を見た。ぽてっと丸くてエメラルドグリーンの体。キイキイとしばらく鳴いた後、鳥
田中くんが引越しすると決まった時、 僕はおもちゃみたいな望遠鏡を買って 二学期の終わり頃に渡した。 それを買った理由は、 彼にはきっと望遠鏡が似合うと思ったからで、 それをそのまま伝えると、 田中くんはたいそう驚いた顔をして、 ブロック塀みたいに大きな体を揺らし、 なぜか学ランのボタンを全部外して、 もう一度全部留めながら 「ありがとう」 と言って掃除用具入れの前で、 緑色の包装紙をじっと見つめた。 初めて話しかけられて驚いたことでしょう。 田中くん、お元気ですか。 そこから
時計の針だけを見つめていた。 何日経ったのか、このままだと壊れてしまうことにようやく気付き、地味なアルバイトを始めた。 そこで僕は彼女と出会った。 恋人同士の関係になっても、彼女は裸になるのを拒んだ。幼少期に負った火傷の跡があるという。僕がそれを目にしたのは、付き合って半年が過ぎた頃だった。 一切驚かないと約束していたのに、そうは出来なかった。背中と脇腹、そして太腿の皮膚は捻れたり縮んだりしており、まるで激しく流動するマグマのようで、誰も寄せ付けないほど悲劇的だった。 大人
友だちの作り方を忘れた。 休日は何をしてるのか、聞いたらいいんだろうか。 どんな顔して聞けば。どんな相槌の打ち方で。洗面所の鏡に向かってやってみる。 珈琲に砂糖は入れる? へえそうなんだ。 部屋の壁にポスター貼ってる? ふうん、その映画は観たことない。 小説に出てくる台詞を口にしたことある? ちょっとひねくれたようなやつ。 眠れない夜に森を想像したことある? そこで野ウサギに会ったことは? 寝台車に乗ったことある? あてのない旅に出たことは? 名前を知らない花を育ててるん
ミルクティーまであと5分 絶望ごっこを過ぎて10分 雨の音は気のせいです 邪魔な自転車は投げ捨てます 遊びに行ってもいいかなって聞かれても プレステないし性欲ないし することなんてありません オセロぐらいしかありません 君のトレンチコートのボタンになりたいと 白の石が3つ並んだところで僕は言う 意味が分からないといった顔をする君の 細胞の中を進んでいくと宇宙へ辿り着くとしたら 隣の部屋との境はなくて 自分の爪を切るってことは誰かの爪を切るってことだから さっき投げ捨てた自
遺書を書く癖があって、でも破る癖もあるから、彼は生きている。 カステラみたいなマンションに住んでてね、冬は紺色のコート、夏は紺色のTシャツを着てるから、紺色が好きなんだなと言うと、 「不思議なことを言う奴だ」 などと彼は言って、紺色の自転車にまたがって漕ぎだすのです。 彼の部屋には本以外、ほとんど物がない。 家具がない、調理器具がない、カーテンもないもんだから、脱いだコートはカーテンレールに吊るさざるを得ない。 常に何かを諦め続けているような顔をして、髪はクシが折れそうな
「きのう、星を買ったの」 彼女がキャベツを刻みながら言った。 冷蔵庫のドアを閉じて聞き直す。彼女は同じトーンで同じことを言う。 僕は少し考えてから「そういうの、楽しいね」と言い、もう一度冷蔵庫のドアを開いて缶ビールをひとつ取り出し、ソファーに座ってテレビをつけた。やがて彼女が生姜焼きをテーブルに運んできた。僕らは鉄道の旅番組を見ながら、それを食べた。 ビールを空にした後、「さっきの話だけど」と僕は言った。 「なに?」 「星を買ったとかいうの」 「ああ、押入れに入ってる。でもま
京子は心中穏やかでなかった。バスが目的地に着くのかどうか。 運転手の案内は早口で聞き取れなかったし、誰かに尋ねようにも車内には、うな垂れてぴくりとも動かない老婦人が一人、漫画本に夢中の小さな男の子が一人、左後ろの中年男性にいたっては溜息をついてばかりで、もしや私の座り方に腹を立てているのかしらと、何度も座り直そうにも、座席の正しい座り方など知らないもので、何をどうしても間違っている気がしてしょうがない。 そうこうしているうちに、『玄関の鍵は掛けてきたか』という新たな不安がやっ