京子の場合

京子は心中穏やかでなかった。バスが目的地に着くのかどうか。
運転手の案内は早口で聞き取れなかったし、誰かに尋ねようにも車内には、うな垂れてぴくりとも動かない老婦人が一人、漫画本に夢中の小さな男の子が一人、左後ろの中年男性にいたっては溜息をついてばかりで、もしや私の座り方に腹を立てているのかしらと、何度も座り直そうにも、座席の正しい座り方など知らないもので、何をどうしても間違っている気がしてしょうがない。
そうこうしているうちに、『玄関の鍵は掛けてきたか』という新たな不安がやってくる。そしてそれは一分もしないうちに、『カバンから財布が落ちないか』という不安へ変わり、カバンの口はぎゅっと持っていれば大丈夫だけど、もし底に穴でも開いてしまったらと不安が転移し、ついにはカバンをひっくり返して縫製糸まで見始めた時、窓の外にポストが見えて、三日前に投函した母への手紙が無事に届くのかという不安がやってきた。
配達員が川に投げ捨てたり、実家の郵便受けから誰かが抜いたりしないか。いや、きっと何か他の事故が起こる。ああだめだ。手紙なんて出すんじゃなかった。きちんと説明できれば電話でも良かったのだ。
運転手さんここで降ろして下さい。バスは目的地には行かないのですね。玄関は開けっ放しだし、財布はどこかで落としてしまう。アイロンはつけっぱなしだし、風呂の水は出しっぱなし、おまけにフライパンを火にかけたまま出てきてしまった。降りよう、今すぐに。そう思って立ち上がろうとした時、京子ははっとした。
左手の甲に書いている文字。『母から電話あり』。自分の筆跡。今朝、手紙を受け取ったと確かに言っていた。この字は、数時間後の自分のために書いたのだ。
それに玄関を閉めた時、確認の為にがっちゃんとドアを引いた感触が、この手に残っている。財布が落ちることはない。アイロンは一週間使ってない。風呂の水は昨晩ちゃんと止めた。フライパンは――取っ手が壊れたから今から新しいのを買いに行くのだ――そう思い出すと、京子は形にならない涙を流した。
目的のバス停を、運転手がアナウンスするまで。

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