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大好きなシュウマイを前に「クソまずい」と連呼する子に向き合う母として

大人だって泣きたくなる時がある。「子育てには、子どものペースで見守ることが大事」とはよく理解しているけれど、頭でわかっていても感情が付いてこない。そんなとき、ずっと我慢していたら、大人だって、身も心も持たなくなるときがある。我慢せずにどうするか。私の15年間の子育てから、ようやく最近になって気付けたことを書き残しておきたい。

子どもの駄々こねに今日も向き合う日々

今朝だって。きっかけは些細なことだった。昨日、目玉焼きを2つ食べたから、今日はさすがに…。それで「今日は目玉焼きはなしね」と言ったことだった、と思う。(もしかしたら他に、私の気づいていない理由があるのかもしれない)

長男が15歳。子育てを15年以上してきて、6歳の三男は未だに、というか、最近ようやく? 「自分」を主張し始めた。それまで、気を遣って、いい子過ぎたのかもしれない。とにかく最近の主張は激しい。今朝も些細な私のひと言をきっかけに?「朝ごはんは食べない」「お母ちゃんのごはんはクソまずい」。せっかく大好きなシュウマイを蒸してあげたのに。そんな三男を私は別に否定もせず、聞き流していたけど、三男はそれでも構わず、何回もそんなセリフを連呼していた。

最初はニコニコ、余裕を持って「そんなこと言ったら悲しいよ~」と対応していた私も、次第に笑顔が硬直し始める。そりゃあ、用意した着替えを足蹴にされて、ぶちぶち文句を言い続けられて、私が気に入っていた三男の描いた絵もぐしゃぐしゃにされて…ずっとそんな状況下で我慢して、ニコニコなんて自然にはしていられない。

ちょっとの甘えは可愛い。多少の予定外は赦せる。でも、予定していたことが遅々として進まず、時間の余裕はなくなり、気持ちの余裕もすり減らし、自分を否定される言葉にずっと晒されるのはつらい。それでニコニコしていられるって、よっぽど言葉を受け止めずに聞き流しているか、逆に身の内は鋼鉄の心か。さて、そんな母は我慢せずにどうしようか。

「私」を殺さず、相手も尊重すること

私にできること。それは、我慢はしない。その気持ちは素直に伝えていい。「怒っているんだ」「悲しいんだ」「つらいんだ」――大人だって、我慢せずに、感情に素直に、自分の気持ちを丁寧に扱うこと。それが、子育てではすごく大事だと痛感している。我慢の果てに真の喜びはない。滅私奉公は、「私」が死んでいる。親の「私」が死んで、子どもは喜ぶか。喜ぶはずがない。大好きなお父さんお母さんが、自分のことを大事にできていないなら。

私も生かしながら、目の前の相手も大切にする「私」と目の前の相手は同一人物じゃない。異なる一人の人という存在。その線引きがまず必要。相手を自分と同一視しない。敬意を持って向き合う。そして、親が自分を大切にして、子どものことも尊重する態度が、子どもにとっても、自分を我慢して追い込ませ過ぎず、つらいときに「助けて」と素直に伝える力・・・『受援力(支援を受ける力)』を育む。

危機を察知して逃げるのは動物的本能として当たり前のことだ。それなのに、そこに真面目に向き合いすぎて逃げられなくなるのはどうしてか。自分を大切にする習慣が普段からないからだ。究極を言えば、いじめられたから、うまくいかないからと、うつになったり自死を選んだりことも回避することになる。何より、自分を大切にできない人が、目の前の相手の真のニーズに応えられるものかと思う。

でも、もう一つ、気を付けるべきことがある。子どもに怒りや悲しみをそのままぶつけない。感情をそのまま鉄球のように、相手に向かって直球で投げない。投げるなら、誰もいない方向へ。海や山へ叫ぶ。穴を掘って言いたい放題言う。いらない紙に暴言を書き捨てる。そんな方法で、怒りや悲しみ、つらさを昇華したい。

人は誰でも、生きていれば理不尽なことに直面する。理屈でどうこうできることなんてたかが知れている。子育ては仕事以上に、理不尽の連続だ。私もこの15年間、どれだけ、子どもたちやパートナーに、鉄球を直球でぶつけてしまったことだろう。でもそれは生産的でも建設的でもない。お互いにつらくなる。そう痛感してきた。(家族のみんな、本当にごめんなさい…)

だから、自分の気持ちは我慢しない。でも、相手に生粋の感情をぶつけるのは、本当に人生の中で数度あるかどうかの「いざというとき」だけにしたい。ごめんね、家族にも、自分にも。自分の気持ちは大切にする。でも、自分と一線を引いた相手のことを心から尊重したい。正直、ムカつくときはあるけど。それは否定しない。でもその気持ちを隠さない。見えないことにしない。ちゃんと見つめる。そして相手の気持ちや立場も尊重する。成人君主ではないから、すぐには難しいけれど、現実を変えるのは、それを両立しようとする意識なのだろう。

結局、我慢せずに伝えたらどうなったか

朝食を食べずに、保育園に向かう自転車の後部座席へ乗り込んだ三男。しばらく黙っていたけれど、ぶっきらぼうに「ごめんなさい」と呟いた。

私もその言葉はしっかり聞いた。硬直した現実を打開する一歩として嬉しかった。でも、魔法のひと言なんてない。「ごめんなさいっていう言葉も確かに大事だね。でもなぜあんなに怒っていたの? 何があったのか、どうしてあんなに怒ったのか、その理由がわからないと、また同じことを繰り返しちゃう。それはお母さんも嫌だよ。よく考えて、理由を教えてよ」

そう伝えたら、当然、三男は「わからない」。そうだよね、どうして怒っていたかなんて、忘れちゃうことばかりだよね。でも、これで「ないこと」にしたら、また同じトラブルに巻き込まれる。それは私も避けたい。しばらく黙って待っていたら・・・「考えとく」と小さな声で答えてくれた。

三男が大好きなシュウマイも蒸したのに無視されたけど(駄洒落のつもりじゃありません)、「シュウマイは夜食べる」と言ってくれた。あぁ、ちょっとホッとした。少し気持ちを落ち着けてくれて良かった。今日は少し早めに仕事を切り上げて、保育園へ迎えに行こう。

ちょっと冷めてまずくなった程度が、きっとほろ苦で(本当に苦いわけじゃない)思い出の味に

子育てや仕事に奮闘している人がいたら伝えたい。知ってほしい。「私」を殺すことは絶対に良い結果を生まない。「私」の人生を歩むのは私だけ。つらいとき、大変なときにも、自分を殺さずどう生かすか。私にしかできないこと、私だからできること、私だから感じられる気持ちがある。「私らしさ」を常に意識して、挑戦してほしい。

それはわがままを振りまくことじゃない。何でも自分の思い通りにすることじゃない。そうじゃなくて、「私」が本当に望む世界――それは、目の前の相手が共に喜んでくれる状況が答えであるはず。それを自分の我慢で生むのではなく、対話で共に深め、広げていけたら――。

あぁ、もっと明確に言葉にできるようにしたい。ずっと自分とは何か、「私」という不可解な存在をどう扱ったらいいのか、あれこれと探り、考えてきた人生。このテーマにますますのめりこんでいきそうだ。

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さとこ
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