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心の傷と戦争

少し前にNHKの「バタフライ・エフェクト」というドキュメンタリー番組で「戦争のトラウマ 兵士たちの消えない悪夢」を夫と二人で観ていた。

戦争の前線に送り込まれた兵士たちが戦争での身体体験を通じて心に深い傷を負ってきたことの歴史を追う内容であった。

兵士の心の傷がはじめて注目されたのは第一次世界大戦のこと。

「西部戦線異状なし」とはよく言ったもので、人類史上初めての大量殺りく兵器が投入された第一次世界大戦は、長い長い塹壕を掘ってその中に身を隠したり攻撃したりするしかなく、その戦況は遅々として進まなかった。その塹壕の中で仲間が死んでいく様を見るしかできない兵士たちがシェルショックという神経症を多く発症したというのだ。その第一次世界大戦を起点として、この番組はその後の戦争と兵士たちの心の傷について通史的に描いていた。

夫婦で観る番組はバラエティ番組が多いけれど、NHKのこれは二人ともちょっと好きで、私は授業でも映像教材として使うこともあるくらい好きなのだけど、娘が寝た後の深夜にふたり、しんと沈み込むような気持ちで見入った。

番組が終わった後、夫がポツリとつぶやいた。
戦争はひとの人生を変えてしまうんだね。
不自然な行為だよね。

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ようやく停戦が実現したパレスチナでの戦争では、イスラエル軍がAIを使っていたという。ガザ地区に対する攻撃で殺害対象の標的をAIによって選定していたとか。「ラベンダー」という名前のAIシステムは、その名前から受ける優しい癒しのイメージとは裏腹に、必要以上の大量殺戮をもたらした。

戦争にAIが入り込むこと。これは戦争から身体を切り離すことを意味する。

人を殺すことに対する心の迷い。抵抗感。葛藤。受けた傷の痛み。人を殺したことにより生じる心の傷。近いし人を失った心の傷。苦しみ。

AIが存在する前からずっと、とても人間が人間にするとは思えないような信じられない残虐の限りを、人間は世界史を通じて行ってきた。

誰かを殺害するとか、ある建物を空爆の標的にするとか、そういう判断をAIに委ねて人間の手を離れてしまったら、「自分が人を殺した」という罪悪感が希薄になって、もっともっとひどいことを人間はできてしまうのではないか。

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冒頭の「戦争のトラウマ 兵士たちの消えない悪夢」の中で、違和感と納得が同時に訪れて心がずんと重くなった部分があった。

思い出しながら書いているのでもしかしたら少し間違っているかもしれないけど、シェルショックや後にPTSDとして知られる心の傷の症例が増えてくると、国家はこれを無視できなくなってくる。それで、予防や治療に躍起になる。映像にあった現場の医師たちの治療の様子は、「これが本当に治療なの?」と強引な印象さえある。

そして問題は、傷ついた兵士たちを「使い物になる」レベルまで戻して、再び戦場に送り込んでいたという事実である。

故障した機械を修理するのは再び稼働させるため。そんな感じ。兵士を治療する目的は傷ついた体や心を癒すためではないんだ、とハッとした。傷ついた兵士たちの傷が(少なくとも表面上は)大丈夫なところまできたら戦場へと送り返される。兵士を使い捨てにせず再利用するため・・。こんなこと、兵士たちにとっては再び傷つきにいくようなものではないか。

そうして送り返された兵士は、さらに傷ついて帰ってくるのだろうか。

それとも帰らぬ人となって傷の痛みから解放されるのだろうか。

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この番組のことをすっかり忘れかけた頃、偶然、宮地尚子『傷を愛せるか』(ちくま文庫、2022年)という本に出会った。

筆者はトラウマ研究の第一人者で、臨床精神科医兼一橋大学教授である。お医者さんなのに文系の一橋の先生というのがとても興味深い。


その本はすごく透き通った文章で、大部分は筆者の日常に端を発するエッセイなのだけど、本のタイトルにもなっている「傷を愛せるか」という章の中でこんなエピソードがあった。

トラウマに関する学会に出ていた筆者の感想で、ふと前述のNHKの番組で私が感じたことと重なった。

学会では米国の専門家による招待講演もあり、イラク戦争に参加した米兵のPTSD研究の紹介がされていた。講演を聞きながらわたしは、「トラウマ研究はいつから、戦っても傷つかない人間を増やすための学問になったのだろう」と思った。潤沢な予算がPTSDの予防や治療の研究につぎ込まれることと、平然と戦地へ兵士を送り出すことは、米国では矛盾しない。米兵のPTSDの有無や危険因子は調査され、発症予防や早期回復のための対策は練られるが、派兵をやめようという提案にはならない。

宮地尚子『傷を愛せるか』ちくま文庫、2022年、pp. 220-221

そうか。トラウマ予防は戦っても傷つかない人間を増やすことに力点が置かれていたんだ。

もう一度戦える状態にするためにトラウマ治療が施されていた先の映像と符合する。

ここで唐突に、「国家は人の集合体かそれとも有機的な組織なのか」という、かつてフランスに留学していた時にゼミのテーマで勉強したときのことを私は思い出す。

フランス語が分からな過ぎて、議論の行く末はまるで記憶に残っていないけれど、国家って、たとえば「国会」みたいに所在地もないし、組織の実態もないし(政府が国家の中心っぽいけど、国家=政府でも政府=国家でもない)、かといって「国王」「大統領」「総理大臣」みたいに具体的な一人の人が運営しているわけでもなければ(たとえ独裁国家であっても)、具体的な人物に体現され得るわけでもない。もちろん形式的な代表者はいるけれど、あくまでも形式上、儀礼上、権力上のものに過ぎなくて、その人が国家そのものをすべて体現しているわけではない。

国家は、教科書的な定義でいえば、「主権、領土、国民」から構成されている。

だけど、構成要件であるところのその国民を、国家はどうしてこうも軽んじることができるのだろう。

それになにより、その国家を動かしているのもまた人のはずなのだ。なぜか、上にたって物事を俯瞰的にみるような立場や組織の中に入ると、人を人と思えなくなるのだろうか。

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数週間前に、春期講習の準備のためにマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしようー今を生き延びるための哲学』(早川書房、2011年)をパラパラと読み返していた。その中でパープルハート勲章をめぐる話が印象に残っている。

パープルハート勲章とは、戦闘を含む作戦行動において死傷した兵士に贈られるアメリカの勲章である。傷ついて帰ってきた兵士のうち、身体の傷をうけた人は勲章授与の対象となるが、心の傷については勲章が与えられないというのだ。心の傷を負ってPTSDに苦しむ退役軍人たちは、勲章が与えられないどころか弱い人間として負の烙印を押されている。

国家のために戦い、国家の命令によって戦い、国家のために傷つき、国家のために犠牲になったという点では、本当は身体の傷も心の傷も比べられないはず。なのに私たち人間は、どうしても身体の負傷は勇敢の象徴で心の負傷は弱さの象徴のように思ってしまうようだ。

だけど思う。

体の傷は目に見えやすく、また、場合によっては癒すことができる。でも目に見えない心の傷は、どれだけ深いのか、どれだけ痛いのか、どれだけ体を蝕んでいるのか、傷を抱えるその人以外にはわからない。

見えないから「ない」というわけではない。
仮になくなったように見えたても、「なくなった」わけではない。

「たとえ癒しがたい哀しみを抱えていても、傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷の周りをそっとなぞること。過去の傷から逃れられないとしても、好奇の目からは隠し、それでも恥じずに、傷とともにその後を生き続けること」という、前掲の本の宮地直子のことばが沁みわたる。

戦争は、夫がいうようにあまりに不自然なことである。

そもそも傷なんて負わなくて済むように、戦争それ自体をなくすことはできないのか。なんでこんなに、平和が難しいんだろう。

そんなことを、最近思ったりしている。

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