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向き合うほどに、愛せなくなった

性の在り方を考えれば考えるほど、
恋愛に対してのベクトルが影を潜める様になった。

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異性との恋愛が当たり前の脳みそをもっていた頃の話である。

私は女きょうだいしかいないこともあって、異性である「男」という生き物への耐性がない子どもだった。

耐性がないとは言っても、
男との関わり方が分からず、日常的な関わりでさえ迷走している妹とは違って、
私は距離感が分からず、とにかく当たって砕けろ精神を持っていた。

6歳の頃から、いつも、常に、絶え間なく、好きな人がいた。
その頃は「好き」ということがどんなことかなんて考える暇もなく、
とにかく誰かが好きだった。

足が速いから
容姿端麗だから
趣味が同じだから
思考のテンポが似ているから

歳を重ねるごとに惚れる理由は移りゆくが、
いわゆる恋愛体質。自分からのベクトルはもちろん、相手からのベクトルも手に入れたくて、常に色目を使う様な人間だった。

ーーー

そんな私は18の歳にクィアスタディと出会った。
魅力的で、深く、広く、探求心がこの上なく刺激された。

しかし一方で、誰か(異性)と付き合っている時、私はクィアの世界を忘れたように生きていた。

未熟な私は、どうしてもその二つの世界を中和させることが出来なかったのだろう。或いは、身を投じる覚悟がまだなかったのかもしれない。だから恋愛をするとき、自分が当事者である事実を排除した。

しかし、その忘却も期限付きで、
お付き合いをしている頃合い、胸を突き抜かれたように突如自分の「性」の在り方に疑念が抱かれ、たびたびその関係を放棄することになった。

なぜか、クィアの世界のことを考えると、私は恋愛感情を見失ってしまうのだ。

時には恋愛に没頭し、時には急激に「性」と向き合うことを余儀なくされ、
当初は交互に身を置いていた二つの世界だったが、
段々とその行き来は困難を極め、「性」に吸収されていく私がいた。

今となっては、恋や愛がそもそもどんなものであるのか、私はすっかりわからなくなってしまった。

「性」の本質に限りなく近づけたなら、見失った恋愛を取り戻せるだろうか。
其れとも、この先も「性」の虜である限り、人を愛することが出来ないのだろうか。

将又、デミロマンティックとプロフィールに書くようになるのかもしれない。

今日も変わらず「性」と向き合う。
少し先の未来にいる私の顔色をうかがいながら。
「私の恋愛は、どんな塩梅でしょうか」


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