まひろちゃん、信念を貫いて欲しい!まひろちゃんが「叶えたい社会」、伺えるととても嬉しいです(その3)。【#真剣10代しゃべり場】【エッセイ】【社会貢献】
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まず、前回の記事、(その2)をリンク添付させて頂きます。
では、執筆を進めます。
なぜ、まひろちゃんの「想い」は届かずに、「悲劇的な結末」になってしまったのか。「まひろちゃんの想いは、とても素敵だよ」と伝えたいからこそ。
(2022年12月3日、NHK総合「真剣10代しゃべり場リターンズ」、「42:12~42:47」、本編終了後のラストシーンでの振り返り、まひろさんの言葉。)
「真剣10代しゃべり場リターンズ」第2回、ラストシーン。
「もっと本音をぶつけ合おうよ!」が、今回の議論のテーマで、テーマの提案者を務めたのが、今回のnote記事の主人公である、楳原まひろさんでした。
この、ラストシーンでの、まひろさんの振り返り。
「なんか、孤独な感じがした。」
「私は孤独な感じがしたのが、正直つらかったです。」
そう、「孤独な感じがした」を2回、重ねるように述べていたことがとても印象的です。
振り返りのときは、微笑みを取り戻していましたけど、本編終了直後、他の参加者が退場して「1人のみの空間」になったとき、まひろさんは溢れ出る涙を堪えられずに泣き崩れていました。
「悔しい。」「理解できなくはないけど、納得はできない。」
この想いが、直接言葉に出さなくても、とても伝わってきたのです。
そう、今回の「真剣10代しゃべり場リターンズ」。
まひろちゃんの想いは届かず、「悲劇的な結末」になってしまいました。
観ている自分も、まひろちゃんと同じ気持ちです。
「悔しい」「納得できない」、ただこの想いに尽きます。
では、なぜ、まひろちゃんの想いは届かずに「悲劇的な結末」になってしまったのか。
そう、今回の「悲劇的な結末」は、いわば
「まひろさんが『とても高くて素敵な理想』を持っていて、その理想を共有できそうな『フィーリングが近い人間』が、今回の同じ場にはいなかったから。」
それ故に起きてしまった、と自分は感じています。
だからといって、今回の人選が「失敗であった」とは思いません。ですけど、(自分が知る範囲内での)まひろさんを初めて観た、2021年8月22日の「世界変えたいこと会議」(「24時間テレビ」)の参加者でならば(10人)、そのうちの恐らく何人かは「まひろさんと同じようなフィーリングを共有できたかもしれない」、と正直感じます。
(それこそ、[その1]で少しだけど言及した「ジェンダーフリートイレ」普及の活動に取り組んでいる「原田怜歩さん」とかは、恐らくフィーリングを共有できそうな1人になれるかもと想像です。)
いまリンク添付させて頂いた、「意識高い系」という言葉。
2022年7月9日のnote記事で、この「意識高い系」という言葉について、下記のように述べましたけど、改めて再掲させて頂きます。
はっきり述べます。いまの日本社会だと、まひろちゃんは「『意識高い系』の最たる存在」という烙印を押すであろうと想像します。少なくとも、今回の「真剣10代しゃべり場リターンズ」では、結果としてそのような位置付けになってしまった。
「一人の人間としては、『意識高い系』という言葉がまかり通る社会自体が『最悪にむかつく、狂っている』と正直感じてます。」
この想いこそ、自分の「ありのままの本音」です。はっきり述べれば、「意識高い系」という言葉がまかり通ることこそ、この日本社会の「最大の短所の一つ」「最もかつ早急に改善が必要であること」、そう強く感じてます。
「『異端』『異分子』を認めない」
「異なる考えを受容しない『排除の論理』」
このことこそ、「日本社会の負の部分の象徴」でしょう。
「世界は広い」といえども、その中でも日本の「いじめ」は陰湿である傾向が特に強いといわれています(「いじめ」自体は外国でもあると伺う。尤も「いじめ」がまかり通ること自体がおかしいと自分は思ってますけど)けど、これも「『意識高い系』『排除の論理』という、おかしい概念がまかり通る日本社会の『負の部分』の帰結」と自分は感じてます。
いま改めて、今回の「真剣10代しゃべり場リターンズ」第2回での、まひろさんの主要な言葉を、示させて頂きました。
いえることは、(その2)でも言及させて頂きましたけど、
ということです。それと共に、この「悲劇的な結末」は避けられなかったのか、正直とても考えさせられるのです。
大切なことは「『叶えたい社会』とは『どのような社会』であるのか」と考えます。だからこそ「『自分らしさ』を貫いて欲しい、その先に『叶えたい自分』があるはず」。
まひろさんが、ずっと一貫して「伝え続けようとしていた」こと、「主張し続けていた」こと、それは
「日本の社会をよりよくすること」
です。
で、この「日本の社会をよりよくすること」は、自分も同じ想いです。
そう、「社会をよりよくする一助になりたい」、この想いが、「自分が生きることの根源的な原動力」です。
で、自分の場合、「紆余曲折」「回り道」をしてきました。その末にいま、辿り着いた道が「伝える」「書く」ことです。
「伝える」こと、より深く述べれば、「誰かを応援する」ことです。
で、自分が持っていることを表現できる分野が「スポーツ」「社会貢献」の分野である、という感じです。
いわば、「社会をよりよくする一助になりたい」という「志」では、恐らく自分も、まひろちゃんも、恐らく同じであると想像するのです。それを表現する具体的アプローチが異なる感じかなと。
ですけど、嫌だからこそ、特に大切であると考えるのが、
「まひろちゃんが『叶えたい社会』とは『どのような社会』ですか?」
ということです。勿論これは、これからじっくりと、まひろちゃんが発信していく過程で、まひろちゃんが「叶えたい社会像」は何かを、なぜその「叶えたい社会像」を抱くのかを、そういった「想い」を、是非とも伺いたいなあ、と強く抱く感じですけど。
そう、まひろちゃんの「想い」には、自分はとても共感できると述べてきました。ですけど、「日本の社会をよりよくすること」への強い想いは伝わるけど、今回の議論の過程でのどこかで、まひろちゃん自身の言葉で
「私(まひろ)が『叶えたい社会』は、『このような社会』です。」
という言葉が欲しかった、それをよりうまくはっきりと伝えられたら、誰かに想いが届いたかもしれない(たとえその場合でも「悲劇的な結末」が避けられなかったかもとしても、です)、そう強く抱くのです。
それと、「叶えたい社会像」を描くことにおいて、併せてとても大切であることと感じていることがあります。
「まひろちゃんが『叶えたい社会』とは『どのような社会』ですか?
そのために『特に解決の一助になりたい社会課題』は何ですか?」
そう、「解決したい社会課題」は何かを考えることも、とても大切なことであると、自分は考えるのです。
そう、「人間は完璧な存在ではない」ですので、そう考えると「完璧に理想的な社会にはできない」、これは現実論としてあります。ですけど、「より理想的な社会に近付けることはできる」、自分はずっとそう強く信じていますし、一人一人にできることは小さいかもですけど、「理想的な社会に近付ける一助になることはできる」、それが自分が生きる原動力の一つとしてあります、恐らくですけど、まひろさんは「より理想的な社会に近付ける一助になりたい」想いが人一倍強いのではと想像するし、だから応援したい!と強く思うのです。
では、自分が「叶えたい社会」とは、「どのような社会」か。
自分なりに、ここで示させて頂きます。
およそのイメージですけど、そのような感じです。
で、先日、とても考えさせられる記事があって、「奨学金」がテーマの記事ですけど、「Twitter」「Yahoo!コメント」とかでは、「自己責任論」的な趣旨のコメントが多いこと、もう「吐き気がします」。
そう、自分がこの当事者(この場合「広島の31歳の男性」)の立場だったら?と想像した上で意見を述べるのが筋道ではと。
いつからこの日本社会は「ギスギスした社会」「想像力が乏しい社会」になってしまったのだろう?と、とても悲しくなります。
で、先日、ある知人が、こんなことを仰っていました。
とても考えさせられますので、綴らせて頂きます。
まひろちゃんの言葉でいう「飼いならされた国民」、いわば「社会のことを『自分ごと』として向き合える能力がそもそも持てない人間」と表現できますけど、この「飼いならされた国民」が「70%程度」いる状態ならば、そのうちの「70%強程度」で「過半数の議席」を獲れる計算になるのです。
つまり計算としては「0.7×0.7=0.49」ということです。
正直、認めたくはないですけど、「確かにこれも、現在の日本社会の負の部分といえるよね。」と正直感じます。
で、「社会をよりよくする」といっても、そのアプローチの方法は一つではない、それこそいろいろとあります。少なくともいえることは、国会の内部、統治機構の内部(いわゆる国家公務員)だけではない、それが全てではない、ということです。時間とスペースが許す範囲でですけど、少しですけど自分なりに綴らせて頂きます。
参考リンク添付(1)、『ソーリ』という本、ジャンルとしては「児童文学」で、いまでいえば「ライトノベル」に筆致的には近いかもです。
実は自分は、この本に「2018年の夏」に偶然に出会い(当時、「小学5,6年生におすすめの本」として書店に平積みされていました)、一気に魅了されて、自分の価値観、世界観に大きな影響を与えた、いわば「人生で特別な一冊」といえる存在です。この書籍については、いつか別途で機会があれば、改めて言及させて頂ければと思っていますけど。
いわば、「子ども」「若い世代」が「社会・政治に向き合う」ことにおける入門書的な感じの一冊ともいえます。
参考リンク添付(2)、「桑原悠さん(新潟県津南町長)」です。
自分が一人の人間として「尊敬している人間の一人」です。
現在「36歳」(自分より2歳年下です)。25歳で津南町議に、31歳で津南町長になり、特に2011年10月に津南町議になったときは、当時は現役の大学院生でしたけど、「25歳の大学院生の女性町議が誕生」ということで、大きな話題になりました。
ほんとうは、この桑原さんは、「社会をよりよくしようと奮闘している若い世代」のロールモデルの一人といえると思ってますので(あくまでもその一人出会って、アプローチの一つとしてと申し添えさせて頂きますけど)、今回、ある程度深く言及させて頂こうと構想していたのですけど、遅筆による時間的なこともあって、今回は少し言及させて頂くにとどめる感じが正直もどかしいですけど。
ちなみに、いまリンク添付させて頂きましたけど、地元紙である「津南新聞」「妻有新聞」のそれぞれのバックナンバーを辿れば、桑原さんの奮闘の軌跡を閲読できる感じになっています。
それと、「Yahoo! Japan SDGs」さんの記事のリンク添付も、併せてさせて頂いてます。
「町長は決断できる仕事です」「まちを『自分ごと』にする人を増やす」「子ども時代に町を変える体験を」。3つのことのいずれも、とても共感できる感じで心に響きますし、より一層応援したい想いです。
桑原さんの場合は「地方の議員→首長」という道ですけど、近年でだと「NPO」や「社団法人」等、いわば「社会起業家」的な立場で「社会課題の解決に取り組む人間」が増えてきていると感じてます。
これもまた、「社会をよりよくする一助」であるといえます。
余談ですけど、桑原悠さんと、森下絵理香さん(NHKアナウンサー。現在は「おはよう日本(土休日版)」を担当)と、雰囲気が似ている(いわゆる「顔面相似形」に出てきそうな感じといえる)と感じるのは、自分だけでしょうか?
で、まひろさん、「『自分』を持っている」「強烈な個性の持ち主」であることが伝わる、だからこそなおさら応援したいと強く思うのですけど、まひろさんの特徴の一つに、
「『長い髪』がとても似合うこと。」
があります。恐らく、「長い髪」に強い「こだわり」「誇り」を抱いてるのかなと想像の感じです。
生まれ変われたら「長い髪が似合う日本人の女性に生まれたい」、実は自分はそう強く感じているのですけど、でもいつかは、長い髪に「ありがとう。さようなら」を決断する時が来てしまうとも想像します。
いつか、まひろさんが「髪を切る」ことを決断する時が来たときは、その恐らく「誇り」としているであろう「長い髪」を、社会のために、つまり「困っている子どものために」役立てて欲しいです、つまり「ヘアドネーション」に充てて頂けると、とても嬉しいですと強く抱くのです、それで「ヘアドネーション」のことをリンク添付させて頂きます。
それと、そう考えるとなおさら、まひろさんには、
「『自分』を貫いて欲しい、『自分らしさ』を追い求めて欲しい。
『自分らしさ』を貫ける人間は、魅力的な人間であると感じるから。」
とも、正直強く感じます。
「自分らしさ」を貫く云々でいえば、「座右の銘」「好きな言葉」が何であるのかも、とても興味深いです。
ちなみに自分は、「座右の銘」「好きな言葉」は、いずれ別途機会があればの感じですけど、「座右の銘」をここで述べますと「全身全霊」です(「好きな言葉」だと、いくつも挙がる感じですけど)。
「全身全霊」。「何事にも自分ができる全力を尽くせる人間でありたい、なぜならば後悔したくないから」、それが「全身全霊」を「座右の銘」とする理由です。「炎のように、熱く沸き立つ気持ちを大切に」、それが「自分らしさ」と感じるからも、正直強くあります。
末文にて。(その1)でも言及させて頂きましたけど、いまリンク添付させて頂いた「Steenz」さんの「気になる10代名鑑」シリーズ、とても個性豊かな10代がたくさん登場していますけど、今回自分が取り上げる「まひろちゃん」、「素顔はどのような人間なのだろう?」「『志』は何だろう?」と、とても興味深い感じですので、是非とも取り上げて頂けると嬉しいです、と強く感じてます。
はい、このこと、「とても大切なことですと強く考えますので、2回伝えさせて頂きます!」の感じです。
そのような感じですけど、一人の人間として、まひろさんに「ありのままの想い、本音」を伝えさせて頂いて、今回の筆を置きます。
【エッセイ#8C】【社会貢献#4C】