【エッセイ】【#新生活をたのしく】「2022年春、主として10代(中高生、大学生)に伝えたい想い(その3。10代に特に伝えたい3つの大切なこと)。」
まず、前回の記事、(その2)をリンク添付させて頂きます。
では、執筆を進めます。
2022年春、新年度に向けて、自分が10代(中高生、大学生)に伝えたい想い
(その1)(その2)では、紀野紗良さんを切り口にして綴らせて頂きました。エッセイの中でも、「ある1人の人物に光を当てて、そこから話を進めるスタイル」は、今後も機会を持てれば綴りたいと思ってます。
で、時間的、文章量的なこともあるので、3つほどに絞って綴らせて頂こうと思ってますけど、一人の人間として、「10代(特に中高生、大学生)に伝えたい想い」を綴らせて頂きます。
正直、3つには絞り切れません。伝えたいことは、時間や文章量が許すならば、もっとある感じとしてあります。そういったことは、いずれ機会があるときに改めて(あるいは、繰り返し?)伝えさせて頂こうかなと思ってます。
で、今回伝えたい3つのことの「たたき台」として、(その2)で言及させて頂いた、紀野紗良さんの『成績が上がる学びの習慣』の序章での、「勉強を続けるための『学びの基本』」を、再掲させて頂くことから始めようと思います。
いま示させて頂いた8つのこと。その中には、自分がこれから特に伝えたい3つのことと重なることがあるかもですけど、では、自分が伝えたい「3つのこと」をこれから綴らせて頂きます。
(1)「たとえ勉強が苦手でもいいから、『優しさ』『思いやり』の心を大切に。『優しい心』が最も大切なことだよ。」
「学校の成績は学級で1位です、容姿はかわいいです、でも内面は気難しいです。」
「学校の成績は学級で最下位争いです、容姿はあまり恵まれていません、でも内面は優しいです。」
あなたならば、どちらの人間とより友人になりたいですか?
「かわいいは正義」「テストの点数がよいのは正義」。
確かにそれは、一つの真理かもしれません。テストの点数がよいことに越したことはないですし、容姿に恵まれているに越したことはないでしょう。
でも自分は、声を大にして伝えたいのです。
「人間が生きることにおいて最も大切なのは、『内面(人間性)を成長させ続けようという姿勢』だよ、と。」
よく、この日本社会では、
「かわいい女性」「イケメンな男性」
が称賛の対象になることが多いです。近年では、「かわいいは正義」「国宝級イケメン」という言葉が実際にあるほどです。
確かに、容姿がよいに越したことはありません。でも容姿は、生まれ持ったものによるところが正直大きいです。努力とは異なるところで決まってしまうといってもよい、それで評価されるっておかしくない?と。
「あの人って、容姿に恵まれているとは言えないし、不器用でドジかもだけど、でも『優しい』し、『まっすぐ』だし、『誠実』だよね。」
もしもそういわれたら、どのような気持ちになるでしょうか?
少なくとも、「悪い気はしないかな」という人間が、結構いるのでは?と自分は想像するのです。
そう、誰かに優しくできることは、その相手のみならず、自分の心にも光を照らすことになるはず、自分は、そう強く思うのです。
より深く踏み込みましょう。学級には、恐らく「30人~40人」の人間がいるかなと思います。そのような中には、もしかしたら、
「一人でいて、寂しそうにしている人間」
「グループ学習とかで、発言ができずにつらそうにしている人間」
がいるかもしれません。そのような人間がいるとわかったとき、どうすればよいのか?と。
あなたがその人間の立場ならば、どうして欲しいか?どうしてくれたら、その人間は「自分はここにいてもいいんだ」と思えるのか。
そう、「自分がして欲しいことを、その人にしてあげる」こと。
言い換えれば、「正しいことをする、ちょっとの勇気」です。
少なくとも、「その人のために、自分が『できること』を、最大級に頭を回転させて考えて導き出す」ことはできると思うのです。
「寂しそうにしている人間」を見捨てない。それは、学級の雰囲気をこれ以上暗くしないためにも、とても大切なことであると自分は思うのです。
そう、「そっと声を掛ける」ことはできるはず。その結果として、うまくいかなかったとしても、それは少なくともマイナスになることはないはず。
「やらずに後悔するよりも、やって後悔する方がよい。」
という言葉がありますけど、まさしくこれです。
「正しいことをする、ちょっとの勇気」
でいえば、例えば、
「電車の中で、誰かに座席を譲る」
「目の前で落とし物をしてしまった人間がいたら、拾って渡す」
ことはできるかなと思うのです。
例えば、「電車の中で、誰かに座席を譲る」こと。
[1]障がいのある人間(杖を突いている等)
[2]妊婦さん
[3]高齢者の人間
[4]スーツケースを持っている人間
[5]親子連れで、親あるいは子どものどちらかしか座れていない場合
[1][2][3]は勿論ですけど、それと共に、特に[4][5]。
自分は、この2つのケースでも、座席を積極的に譲って欲しいと強く願うのです。これもシンプルで、自分が相手、つまりその人間の立場に立てば、恐らく座席を譲っていただけるととても嬉しい気持ちになれると考えられるからと。
いずれにせよ、この「優しさ」「思いやり」。
「正しいことをする、ちょっとの勇気」は、周りも自分も笑顔にできる素敵なパワーがあるはずだよ、と自分は伝えたいのです。
(2)「何か一つでいいから、『好き』に出会おう。そのための努力をしてみよう。人生は、どこでどんなことが起きるかわからない不思議さがあるから。」
「『好き』を仕事にする」こと。自分は、一人の人間として、それが「人間としての最高の理想の一つ」と思ってます。尤も現実論としては、これを叶えられる人間は、実は少数派である訳ですけど…。
少なくとも、人間が生きることにおいて、
「『好き』に少しでも多く触れられる」
ことが、その人間の内面をより一層豊かにする。これは、自分の経験上、はっきりとそう強くいえます。
何を伝えたいかというと、
「『青春』ができるときに、いっぱい『青春』をしようよ!」
です。これは、自分自身が中学校・高校時代は「青春」ができなくて、1回目の大学時代は、そこそこ「青春」はできたけど不充分で、内面的な意味での「青春」ができるようになったのは、再び大学生に戻ってからの「27歳以降」という、苦くて異色の歩みが大きく影響しています。
自分自身の「人生の転機」。自分の場合、特に「3つ」あります。
[1]「東日本大震災での『復興支援活動』、それをきっかけとしてのいくつもの出会いや学び」
(これは、小学4年生のときの「阪神・淡路大震災」の被災経験が出発点です。「あのときにして頂いた支えを、今度は自分が支える、いわば『恩返し』の番だ」と。でもそれが、むしろ自分自身の心に光を灯す大きな転機になりました。)
[2]「『ラブライブ』との出会い」
(2015年7月、NHKEテレ『Rの法則』再放送回の視聴がきっかけで、その数日後に劇場版を初鑑賞して、特にラストで感涙で、そこから「自分の内面的世界が一気に拡がり深まり」ました。(1)の東日本大震災の復興支援活動を通してと共に、「世界はこんなに広いんだ!」と実感できましたし、「ほんとうの自分」が「オタク」であることに気付けた意味でも、いままでの挫折は無駄ではなかったのかなと思えた感覚で。)
[3]「『ある一冊の本』との出会い」
(これはいつか是非とも、機会を持てたときに話したいと思ってます。)
そう、人生って、どこでどのような「転機」があるかわからないのです。
東日本大震災の復興支援活動、当時の自分は「27歳」。
「ラブライブ」との出会い、当時の自分は「31歳」。
特に、自分自身の人生の「最高のハイライトの一つ」である、「Aqours 4th LoveLive!」(2018年11月17日、東京ドーム。生まれて初めての東京ドームで、純粋なライブ現地鑑賞も初めて)は、「34歳」ですので。
あのとき、まあAqoursは箱推しですけど、その中でも最推しメンバーである鈴木愛奈さん(愛称「あいにゃ」)が1曲目の終盤でドアップになったとき、一気に溢れ出た涙は、最高の思い出です。そう、「生きていてよかった」と実感できた瞬間でした。
あるいは、自分は「野球」「バスケットボール」も、よく見ます。というか、これから一人の人間としてのメインフィールドにしたいと思っていることです。
(ちなみに「サッカー」も好きな一つですけど、ここ3年ほどは一気に減少傾向が…、です。)
「野球」は、子ども時代からずっと見ています。でも一方で。
「バスケットボール」は、テレビでよく見るようになったのは、大人になってから。生観戦をよくするようになったのは「35歳」のときからです。
いまは、この御時世で、「青春」の選択肢はある種、限られているといえるかもです。でもその中でも、「青春」ということで、できることはあります。
「スポーツを観る」こと。
「本に積極的に触れる」こと。
「ファッションを楽しむ」こと。
「遊園地を訪れる」こと。
そういったことは、この御時世でもできるかなと思うのです。
先日、バスケの生観戦をさせて頂いたとき、平日(水曜日の夜)の試合なのに、制服姿の2人組の女子高校生を見たときは、とても嬉しい気持ちになりました。
「青春」ということでいえば、1回目の大学時代のことを。
自分の中で、1回目の大学時代で、特に「いまの自分」にプラスになっていることが、3つあります。
〈1〉寺社巡り。
(京都の大学で学びたかった理由の一つがこれです。もともと「歴史が得意で好き」であったので[より得意なのは近現代史ですけど]。学業の合間に寺社巡りをすることで、[映像や写真だけでは感じられないというか、]自分自身の目で耳で感じることの喜びを体感できたことは、大きなプラスになっています。)
〈2〉図書館で積極的に本に触れたこと。
(自分は政治学を専攻しましたけど、いろいろなジャンルの本に触れました。よく、世界史の近現代史において、ヒトラーのことが語られますけど、1回目の大学時代に触れた本の中で、スターリンのことは、自分自身、考えさせられることが多くありました。
少し、この本のリンク添付をさせて頂きます。)
〈2〉の続き。
(もしも、興味がある人間がいたら、読んでみるとよいかなと思います。これは、いわゆる「大粛清」として語られていますけど、政治学を専攻してよかったと思えたことです。)
〈3〉単位互換制度。
(京都の大学で学んでいた自分は、「大学コンソーシアム京都」という、京都の大学特有の「単位互換制度」を積極的に用いていました。
その中でも特に印象的なのが、大学2年生のときの「一神教と多神教」「政治と宗教の関係」です。1年間まるまるかけて学びました。
実は自分は、中学校・高校時代は仏教[浄土宗]の学校でした。
政治学を専攻する大きなきっかけの一つは、「9・11」と呼ばれる、「米国同時多発テロ事件」でした。これは「キリスト教vsイスラム教」の「宗教戦争」的な意味合いが強くあったといわれています。
もしも「単位互換制度」に出会えていなければ、「政治と宗教の関係」をしっかりと学ぶことは恐らく叶っていなかった。この「単位互換制度」での学びは、自分自身の「人生の誇り」の一つと自信を持って言えます。
余談ですけど、この「一神教と多神教」「政治と宗教の関係」。
「キャンパスプラザ京都」という、京都駅から徒歩でいける場所です。
授業が夜でしたので、大学の授業を終えてから単位互換の授業までの合間があるので、その間の、まさしく週1回、「京都駅ビルの10階」での「京都拉麺小路」のゾーンでの、夕食のラーメン。まさしく「至福のひととき」でした。)
長くなってしまってますけど、
「『好き』に出会う努力をしてみよう。その努力こそ、れっきとした『青春』だよ。その『青春』は、きっとあなたの内面的世界をより素敵な感じにするはずだよ。」
と伝えたくて、こうして綴ってます。
(3)「『チャレンジ』を積極的にしよう。『チャレンジ』をすること自体が、人間を一気に大きく成長させる原動力だから。例えば、生徒会や学級委員、ゼミ長にチャレンジすることは、確実にプラスになるはずだよ。」
今回伝えたい3つのことの中でも「最も伝えたいこと」が、この3つ目のことです。
「東日本大震災」をきっかけに、社会の変化が起こって、それにより「(学校横断的な)学生団体」が一気に台頭してきました。TwitterやFacebookを調べると、学生団体がいくつも出てくるのではと想像です。
学生団体でなくても、「挑戦する10代(~20代前半)の集合体」的な集まりが、実際にあります。代表的な2つを、紹介しようと思います。
いま、リンク添付させて頂いた2つ。
1つ目は「全国高校生 my project award」。
2つ目は「アショカ・ユースベンチャラー」。
この2つ。かなりかみ砕いていえば、「社会貢献に取り組む高校生(あるいは大学生)の集合体」といえます。もう「ぶっ飛んでいる」(←最高の「誉め言葉」のつもりです)ことが称賛の対象、とはっきりといえます。
いまリンクさせて頂いた2つの取り組み。探していけば、「自分にもできることがあるかも」と見付けるヒントになり得るのではと想像です。
あるいは、昨年の「24時間テレビ」。このコーナーの一つで、EXITさんと高校生が語り合う「世界変えたいこと会議」がありました。
その番組に登場していた高校生の中で、自分が特に印象的であった人物。
下記に、リンク添付をさせて頂きます。
団体(プロジェクト)名は、「plugner」。活動テイストは「トイレを通してジェンダーの解決の一助に」。
独特だなあと。面白い着眼点だなあと。
「発想の豊かさ」が伝わってきます。あるいは、学生団体的な感じでなくても、学校の活動を通してのユニークな研究発表のケースもあります。
「水筒に入れた緑茶が、実はフタの内側にはびこりやすいカビの繁殖を抑えている」ことを発見した研究。これを発見したのは、なんと中学3年生です。そう、言葉通り「子どもってすごい」、「子どもだからこその豊かな発想力が生み出したこと」。この4人、「研究者の卵」といえるでしょう。
そう、これだって、「とても素敵なチャレンジ」です。
で、いま、「『チャレンジ』を積極的にしてみよう」と述べましたけど、中学生、高校生、大学生が「いまからでもできるよ」というチャレンジがある、と自分は思っています。
それは、「中学生、高校生でならば『学級委員』『生徒会役員』、大学生でならば『ゼミ長』にチャレンジすることはできるよ!」ということです。
何故って、「自分が実際にそれで成長できたから」、そう、「実体験」としてあるからです。
学校により表現が異なるので一概には言えませんけど、
中1(体育委員)中2、中3(副級長)
高1、高2(学級委員)
大3、大4(ゼミ長)
(自分が学んでいた中学校・高校では、級長が「学級no.1」、副級長が「学級no.2」、学級委員が「学級no.3」の立場でした。)
自分が実際に経験してきた立場です。
特に、中2、中3での体育大会。自分は体育自体は苦手で、競技自体ではほとんど全く輝けませんでした。ですけど、特に中2での体育大会は、副級長であったので裏方で大きな役割をもらえて、本番を終えたとき、(これ、自分でも不思議だったんですけど、)先生方、先輩(当時の中3)、そして普段は折り合いがよくなかった級友からも、
「あなたが今回の体育大会の『陰のMVP』だよ。」
といってくれた。それこそ、たくさんの人間から。正直、このときの経験は、その後のいくつもの困難を乗り越える「心の支え」の大きな一つです。
学級委員、生徒会役員、ゼミ長。
挑戦する過程で、恐らく失敗もあるかもしれません。
実際、自分自身、イメージしたようにいかないことが結構ありましたから。
ですけど、いくつもの経験をさせて頂いたことは、いまの自分に確実に生きている。これは、実感として抱いています。
自分が応援している声優グループがあります。
『ラブライブ!』の歴代のグループです。
初代は「μ’s」、2代目は「Aqours」、3代目は「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」、4代目は「Liella」。
(初代を除いては、現在も活動継続中です。3代目は「2022年4月クール」、4代目は「2022年7月クール」に、アニメの「シーズン2」の放送が決まっています。)
公式には、リーダーのみが定められていて、サブリーダーは決まっていないのですけど、活動の過程で、サブリーダー的な立ち位置のメンバーが自然と定まっていきます。
自分自身が、サブリーダー的な立場を多く経験してきたので、
「組織・団体・チームにおける『サブリーダーの重要性、素晴らしさ』」
これを身を以て学んでいるので、その立場のメンバーに目線がいきます。
μ’sだと「内田彩さん、徳井青空さん」。
Aqoursだと「諏訪ななかさん」。
虹ヶ咲だと「村上奈津実さん」。
が、それぞれこの「事実上のサブリーダー」の立場です。
そう、やはり複数人でグループを組むと、メンバーそれぞれが「個性豊か」ですので、それを一つの輪に染めていく過程が、とても工夫が必要になるのですけど、ここで大きな役割を果たすのが、
「全体のバランスを調整できる」
この、サブリーダー的な立場の存在があるのです。そういった人間に、自分は一人の人間としての「強い尊敬の想い」を抱くのです。
(グループ活動のときは「サブリーダー的な立場」として、リーダーとメンバーの架け橋的な役割を遂行してるのに、個人活動になると、例えば諏訪さん、村上さんは「全く別の顔」になるのが、また素敵なんですよね。)
話が脱線してしまいましたけど、実はここ数年で、生徒会役員って素敵だよという実例が生まれてきています。では、リンク添付させて頂きます。
生徒による発案で、学校の校則や制服を変えた実例です。
1つ目は、広島の安田女子高校(及び、付属の中学校も)。
2つ目は、栃木の佐野高校(及び、付属の中学校も)。
2つ目は、「公立の中高一貫校」です(「公立の中高一貫校」は、だいたい地域の「1~2番手校クラス」が多い。ですので公立だけど、私国立と同等以上の頭脳の集まりといえます)。
いずれにせよ、2つとも、いわば長年の「ガラスの天井」を打ち破った、学校の歴史において「英雄」といえるのでは、と映ります。もう、「最高に称賛されて然るべきことだよ!とても素敵だよ!」と。
「チャレンジすること」。それは、その結果がうまくいくかどうかではないのです。特に大切なことは、「チャレンジすること」それ自体にこそある、あるいは「チャレンジすること」その過程にこそある、自分はここで、これを特に伝えたいのです。
そう、たとえその結果が失敗に終わるかもでも、「チャレンジすること」それ自体が、その人間を成長させること、実際に自分自身がそうですし、チャレンジする人間に実際に何人も出会って、それを通して自分自身が成長の原動力になってきたからと。そう、これこそまさしく、
「やらずに後悔するよりも、やって後悔する方がよい。」
です。挑戦したからこそ、「ガラスの天井」を打ち破った訳ですし。
で、「チャレンジすること」と関係してきますけど、10代(中高生、大学生)に伝えたいこととして、いまからでもできるよと強く感じることがあります。それは、
「『あいさつ』を積極的にしよう!特に『おはようございます』『ありがとう』『ごめんなさい』は、自分も相手も心をより幸せにできる素敵な言葉だよ!」
ということです。
こんな実例があります。プロ野球、セ・リーグの球団である、「横浜DeNAベイスターズ」。
いまでこそ、集客力が高い人気球団の一つになりましたけど、2012年、中畑清監督が就任したとき、まず最初にしたことが
「あいさつをしよう」
だったのです(これ、ガチです)。そう、当時の横浜DeNAは「暗黒時代」にどっぷりでしたけど、チームの雰囲気が暗いのは「あいさつができないから」ということをはっきりと示したこと。
実際、自分も母から「まずはあいさつだよ」と、子どものときから繰り返し教わりました。で、学校では人一倍、それこそ恐らく直接学ばないだろう先生にも「おはようございます」と挨拶することを心掛けていた。
それが生きた場面が、実際にありました。
中学1年生のとき。秋くらいでしたか、体育のバレーボールの授業で、自分のレシーブ失敗で、ある級友の眼鏡を割ってしまったのです。
で、自分とその級友は、その学級ではほぼ全員が知ってるほどの「不仲」。とにかく折り合いが最悪だった。ですので、学級内での最初の反応は、「おまえがあの級友と不仲だから、腹いせにやったんだろう」と。それこそ、自分と仲がいい級友まで、その目で疑っていた。自分は学級内で「孤立無援」状態に。
眼鏡を割ってしまった瞬間、御互いに大泣き。何が起きたかは、御互いに分かりますから。雰囲気は一変して、当然のように授業は中断。教室に返された上で、自分とその級友は御互いに事情聴取、学級そのものは結論が出るまで自習扱いに。
実は、自分が体育が苦手であること、特に手先が極端に不器用であることも、学級のみんなが知っているレベルであったのです。実際、学校のスポーツテストは「下位10人以内」でしたから(当時の自分の学年は「3学級、120人ほど」)。
で、結果は、「手先が不器用であるが故の不慮の事故」。
そう、自分の主張が通ったというか、「手先が言うことを聞いてくれなかったから、そうなってしまった」という自分の実感が通ったのです。
後で聞いたら、学級の雰囲気が自分の圧倒的不利は想像できたけど、でも先生方みんなは、「普段は不仲であることと、授業中は別だという分別がわかっている人間だよ」とわかっていたよと伺って。その理由を尋ねると
「『礼儀正しい』おまえが、意図的に暴力をふるうことはあり得ないとわかっていたから。」
と。そのとき、「あいさつ」「礼儀」の大切さを、強く実感したんですよね。
想像以上に長くなってしまいましたけど、自分が一人の人間として、
「10代(中高生、大学生)に伝えたい3つの想い。」
(「あいさつ」「礼儀」の大切さを別個にカウントすると、実質的には「4つ」ですかね)
が伝わると、とても嬉しいです。
いずれにせよ、子ども、特に10代の時期って、人間が何かのきっかけで「一気にポーンと成長できる」時期と自分は強く思ってるんですよね。
一人でも多くの子どもが、「自分らしく」成長して、社会をよりよくする一助に成長できますように。ささやかなエールとして伝わると、とても嬉しいです。
【エッセイ#1C】【社会貢献#1C】