【エッセイ】「社会全体で、才能ある子ども・若い世代を応援できる社会」であって欲しい(その1)。
社会には、「才能に満ちる人間」がたくさんいる。でも「才能に満ちる人間を応援できる社会」に、この日本社会はできているといえますか?
「9月2日」。多くの地域では、小中学校の「2学期」が始まる翌日になります(尤も、自分が住んでいる大阪では「8月25日」に2学期が始まってるのですが)。
自分自身、「いじめ」に苦しんできました。ですので、「いじめ」「生きづらさ」というのは、一人の人間として、自分自身がずっと向き合い続けてるテーマの一つです。
ですので、「いじめ」「生きづらさ」をテーマに描く、ということも正直考えたのですけど、今回は異なるテーマで綴らせて頂きます(「生きづらさ」ということは、今回の関係テーマといえるかもですけど)。
8月30日火曜日から、『朝日新聞』で「ギフテッド 才能の光と影」というシリーズが(主に社会面で)連載されています。
このシリーズ、自分自身、「とても共感できる」「考えさせられる」感覚を抱きながら、拝読させて頂いてます。
「ギフテッド」と「天才」がどう異なるのかは、自分の中ではうまく説明できません。ある程度は相似する感じではあるのかなと、自分はそう解釈していますけど。
いま、3月末に執筆させて頂いた記事、主として
「『東大王』で活躍してきた、『紀野紗良さん』のこと。」
を、リンク添付させて頂きました。
そこで自分は、紀野さんの魅力を、下記のように綴らせて頂きました。
で、「紀野さんのこと」、及びこれに関係しての「2022年春、10代に伝えたいこと」、というテーマでの記事の(その1)で、
「自分が小学生時代に出会った、ある天才少女。」
のことを、綴らせて頂きました。
自分自身の人生を振り返ると(1984年生まれ、38歳です)、
「何人もの『天才』との出会い。」
そう、「天才」との出会いや衝撃が、自分自身に影響を与えてきた、と強く感じてます。
ここでいう「天才」とは、勿論「頭脳的な天才」も含んでます。
ですけど、特に2011年以降(東日本大震災の復興支援活動への参加が、自分自身の「最大の転機」であったので)に出会った「天才」は、10代のときに出会った「天才」とは、プラスの意味で「質を異にする」感じです。
なんというか、大人になってから自分が出会った「天才」は、「発想、行動力とかが『ぶっ飛んでいる』」と映る感じで(しかも基本的に、自分よりも年下。出会った当時に10代の人間もいる)、そういった出会いが自分自身の成長の大きな原動力になっている感じなんですよね。
そういった、自分が出会ってきた人間のことは、別途でいつか機会を持てれば、そのときにおいおい綴らせて頂ければと思ってますけど。
で、そのような中で、これは今回のnote記事執筆の理由の一つにもなってますけど、「Yahoo!ニュース特集」での、森七菜さんの特集記事です。
(「七菜」と書いて「なな」と読みます。8月31日で「21歳」になりました。)
記事自体は、21歳の誕生日を目前に控えてのことと、9月下旬に自身初めての(歌手としての)ワンマンライブの開催にあたって、(2016年のデビューからの)6年間の活動を振り返る、が趣旨になってます。
いままでも森さんのインタビュー記事をいくつか拝読してきて、になりますけど、今回の記事自体からは、
「もっと自分に自信を持っていいんだよ。でも、謙虚な姿勢、それでいて情熱的な姿勢を持っているのは、とても素敵だよね。」
と、自分は感じたんですよね。
ですけど、今回、ここで森さんを取り上げたのは、インタビュー記事そのものもですけど、実は「記事に対するコメント欄」が、大きな理由としてあります。
コメント欄を見ると、およそ80%程度が「否定的」な趣旨でのコメント内容です。
「人格否定」「罵詈雑言」。
否定的なコメント内容の中には、これに該当する趣旨のコメントが、正直少なからずあります。
否定的なコメントの理由の多くは、かつての事務所移籍をめぐってです。
これについては自分は、正直「ゴシップメディアの受け売り」と解釈してますけど。
(移籍の過程は、確かにクリーンとはいえなかった部分はあるかもしれない。だけど状況的にはいずれそう遠くないうちに移籍になることは想像はできた訳でと。そう考えると、そこまで責められることかなあ?と自分は感じてます。)
なんというか、否定的なコメントの中でも特に、移籍関係のこと一つをとって執拗に否定的なことを書く、それもはっきり述べれば「人格攻撃」同然のコメントを書く人間に対して。自分は、一人の人間として、正直このような感覚を抱きます。
確かに、例えば森さんが、「いじめ」「差別」「不倫」「暴力」「犯罪」とかをしていれば、バッシングされてもやむなしなところはあるかもですけど、少なくとも森さんの場合、これらのことをしている訳ではないのです。
そう考えるとなおさら、
そう強く抱くのです。
自分が出会った本の中で、特に心に響く本の一つに、いまリンク添付させて頂いた、
『友だちを『傷つけない言葉』の指導」
があります。2008年に発表された書籍で、現職教員や教育関係(教職など)を志す大学生・大学院生に向けての書籍です。
「ふわふわ言葉」「チクチク言葉」という言葉は、自分は最初にこの本から学びました。
話を、森さんのことに戻します。
「一人の表現者」としての森さんでいえば、自分だと、ドラマ『この恋あたためますか』(2020年10月クール、TBS系列)の印象が強いです。
で、森さんの「表現者としての特徴」でいえば、自分は、「森さんにはとても素敵な長所がある」、と思ってます。それは「声」です。
どういうことかというと、
ちなみに「声」に加えて「笑顔」も森さんの長所であると述べましたけど、これは「歌手」に加えて「声優」の活動でも意味はあるとはっきりといえます。というか、ここ数年で声優は「声の活動だけに特化する」という古典的なタイプは減少傾向になっていますし。
(容姿を併せて求めるというのは、必ずしもよいこととは自分は思いませんけど、現実論として、例えば逢田梨香子さん、斉藤朱夏さん、芹澤優さんとかのように、「笑顔が素敵」という特徴をより活かすスタイルの声優は増加傾向にあります[このタイプの声優は「歌手活動もセット」な傾向が強い]。)
そう考えると、森さんの「活動スタイル」という意味で、より「声優」を含めた「声を活かす活動」に重きを置く方が、中長期的な意味ではより輝きを放てるのでは?と自分は思うのです。
ちなみに、森さんに対して「過大評価」という意見は、「主観論」の域を出ないということは考慮の必要はあるかなと思いますけど、確かに一理あるかもしれません。ですけどこれについては特に、同世代に
「『芦田愛菜』『浜辺美波』という『30年に1人の天才』の存在。」
これを考慮することが必要では?と自分は思うのです。
(そもそも同時代に2人も『圧倒的な天才、傑物』がいること自体が奇跡である感じで、そのような存在と比較すること自体が厳しい感じではあるのです。尤もこの2人の存在に加えて、森さんと似たタイプである[個人的には、森さんの上位互換であると思ってますが]『福原遥』の存在も、森さんにとっては逆風であると映ってますが[福原さんは、いわば『The・ベビーフェイス』といえる存在ですので]。)
なんだか、話が脱線した感じもしますけど、批判はあってよいと思うのです、ですけど、なんだか森さんに対する批判って、「一表現者に対する批判」とはある種異なる感じで、「気味の悪さ」を感じるんですよね。はっきり言えば「おかしい」と。より踏み込んで綴らせて頂くと「激しく強い違和感」を抱く感じです。
で、とても考えさせられることが。
8月25日木曜日、プロ野球(NPB)の阪神が、「所属選手に対するSNS(ツイッター、インスタグラム等)での誹謗中傷・人格攻撃に対する注意喚起の声明」を発表しました。
「青柳」「糸原」「梅野」、特にこの3人には、「程度問題を超えている」いわれなき批判が、正直目に余る感じでしたので、一人の「野球ファン」(及び「阪神ファン」でもありますが)としては、
「やっと公式声明を出してくれたか…。」
が正直な感覚です。
確かに、特に「梅野」「糸原」が期待値通りの成績ではないから、阪神が苦しんでいるというのは、正直否定はできません。特に、梅野は「年俸に目を瞑れば」相対的には有能な捕手ではあるのですけど、球宴前までの梅野は「目を覆うような成績」であったことは、正直否めません(ちなみに梅野は今季から「1.6億円×3年契約」です)。
(ちなみに梅野は現時点では「打率.227、3本塁打、5犠打」と、捕手としては「最低限度の成績」にはなっている。とはいえ「RC27」は「1.92」と明らかな低水準であり、「自動アウト」すれすれの感が否めない。投手の評価指標であるチームWHIPが「1.08」と高水準であることの一助になっていることは高く評価されて然るべきではありますけど…。)
とはいえ、いまの日本球界全体が「捕手(及び遊撃手)の人材難」に悩まされていることは、はっきりとした傾向であって、そういうことを考慮すれば、「少なくとも打撃面ではある程度は目を瞑らざるを得ない」感じにはあるのかな、と自分は感じてます。
(ちなみに、青柳に対する批判に至っては、ほぼ専ら「容姿に対する批判」であり、「言語道断」に尽きます。個人の努力ではどうにもできないことに対する批判は、「人間としてとても醜悪である」と自分は感じてますので。)
「恐ろしい」と正直感じるのは、野球、バスケットボールといった一部のスポーツ(球技)には、「不良債権」「死刑囚」という表現が公然と存在していることです。しかも野球、バスケットボールの2つのスポーツは、ここ3~4年程度で(いわゆる「セイバーメトリクス」と称されるが)統計技術が急激に進歩・整備されて、選手の価値が数値化されて、いわば「科学的根拠」と化したことが、ある種「たちが悪い」感じになっています。
「科学的根拠」「セイバーメトリクス」の存在自体は、自分は肯定的に捉えてます、正直言えば、これ自体は「とても有難い存在」です。
ですけど、「梅野」「糸原」への批判は、「数値的な根拠」が含まれているから、たちが悪いのです。確かに梅野の打撃面、糸原の守備面は、それ自体が批判の対象になることはある種やむを得ない(梅野については先述のように「NPB全体での捕手の人材難」があるので目を瞑るしかないけど、糸原については「今オフにFAで、特に中村奨[ロッテ]の補強ができればより望ましい」とは正直強く感じてます)。
ですけど、だからといって、梅野、糸原とかに対して、数値的な根拠での批判が「人格攻撃」に直結してはいけないと強く伝えたいのです。「選手として」の批判は仕方ないにせよ、「人間として」の批判になってはいけないと。
これは先日、ある知人と話したときに、知人が話していたことです。
これを聴いて、自分自身、「はっと気付かされた」感じでした。
そう強く考えさせられるのです。
冒頭の見出しで、自分はこの言葉を綴らせて頂きましたけど、これは自分自身の強い「問題意識」としてあって。
勿論、「才能に満ちる人間」を応援する人間は、この日本社会でも少なからず確実に存在していると感じてます。ですけどその一方で、「リスペクトと真逆の人間」も、悲しいことにこの日本社会では少なからず確実に存在していることも、正直な現況でしょう。
「この日本社会には、『ガラスの天井』が確実に存在する。」
そう自分は強く実感していますけど、「同調圧力」「嫉妬心」は、この日本社会に存在する「負の元凶」である、そう強く感じているんですよね。
気が付けば、最大の本題へと綴らせて頂く前に、想像以上に多くのスペース(文字数)を充ててしまいましたけど、いま自分が「一人の人間として」正直に感じていることを綴ると、このようになってしまった、の感じです。
では、(その2)において、今回の「最大の本題」へと綴らせて頂きます。
【エッセイ#4A】【社会貢献#3A】