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存在は一度きりか――クンデラ的時間への誘い


 私が初めて「時間」という言葉の重みを意識したのは、チェコスロヴァキアのある街角で、とある古びた時計塔を見上げたときだった。無論、そのとき私はまるで哲学的な問いを頭に浮かべていたわけではなかった。ただ、その黒い針が一周する間に、私たちの人生はどれほど多くの風景を見失い、どれほど多くの光を見送るのか――そんな曖昧な感慨が過ぎっただけだった。

 のちに私は数々の小説を書き、そこでは「存在の軽さ」や「愛の戯れ」などをテーマにしたが、振り返ってみれば、それらはすべて時間に関する物語だったかもしれない。時間は私たちが世界を理解する軸である一方、私たちが最も簡単に見過ごしてしまう概念でもある。ゆっくりと流れるようで、その実、気づけば手の中からこぼれ落ちてしまう。こうして時計の針は回り続ける一方で、私たち自身は本当に前進しているのか、それとも堂々巡りの円環を描いているだけなのか――。


 私が生まれ育った土地では、政治体制の変化とともに、人々の記憶も大きく塗り替えられた。過去に称賛されていた人物が突如として反逆者と呼ばれ、彼らの名前や肖像は街から、そして歴史の教科書からも次々に消えていった。

 このようにして記憶は操作される。しかし、もっと恐ろしいのは、政治的圧力がなくても人間は自発的に忘却を選ぶことがあるという事実である。愛の悩みや失敗した恋、恥ずべき過去を私たちは進んで忘れようとする。あるいは、忘れようとしなくても自然と風化していく。

 それにもかかわらず、ふとした香りや一片の音楽が、私たちの意識の奥底に沈んでいた断片を引きずり出すことがある。これはなんと恐ろしく、そして美しい現象だろう。私たちは時として、過去の私たち自身と再会するのだ。ここに、時間の矛盾が潜んでいる。過去は固定されているはずなのに、私たちがそれを想起するたびに、新たな意味を帯びて現れる。

 この「記憶」と「忘却」のせめぎ合いこそ、私が繰り返し描いてきたテーマであり、時間とはけっして直線的なものではなく、回想と断絶を繰り返して波打つものだという証拠なのだ。


 ニーチェが“永遠回帰”を説いたとき、多くの人はそれを背筋の凍るような思考実験だと感じた。自分が生きた人生がそのまま永遠に繰り返される――喜ぶべきか、嘆くべきか。たとえば、誰かを愛した記憶が無限に繰り返されるとしたら、私たちはその愛をさらに深く味わうことができるのだろうか。それとも、やがてそれは苦痛と化すのだろうか。

 私にとっては、時間の感覚を語るとき、この「繰り返し」は避けて通れない問題だ。なぜなら、人は同じ過ちを何度も繰り返す生き物だからである。それは政治体制の話にも当てはまるし、愛と欲望の話にも当てはまる。歴史を振り返ると、同じような戦争や弾圧が繰り返されている。一方、個人の恋愛関係においても、「もう二度と同じ失敗はしない」と誓ったはずなのに、結局同じような相手に惹かれてしまう――そんな光景は現実に枚挙にいとまがない。

 ここに滑稽さがある。まるで喜劇のように、私たちはロマンティックな台詞を繰り返し、同じような予感と失望のパターンに陥るのだ。だが、その繰り返しの過程で、私たちは本当にまったく何も学んでいないのか? あるいは、繰り返す中で微妙にズレを生じさせ、次なるステップへ進むことができるのか?

 私は、このわずかな“ズレ”こそ人間が進化していく余地だと思う。完全な永遠回帰とは異なる、“不完全な反復”が、時間にわずかな前進運動をもたらす。しかし、しばしば私たちはそのズレに気づかず、延々と輪を描いてしまう。時間は絶えず流れると信じながら、その実、私たちの行動は堂々巡りをしているのかもしれない。


 「存在の耐えられない軽さ」を著した際、私は人間の経験が一度きりであること――その不可逆性にこそ、「軽さ」の根源があると考えた。何度も繰り返すことができるならば、私たちは経験を積み、軽率な行動を慎むのかもしれない。だが、人生は一度きりだ。取り返しのつかない行為が多すぎる。

 この“一度きり”が私たちの人生を畏怖すべきものにしながらも、同時に空虚なほどの軽さを与えている。たとえば、私たちは一度しか会えなかった人のことを一生後悔するかもしれないが、その出会いが二度も三度も繰り返される世界を想像すると、一回一回の重みが薄れてしまう気もする。これは矛盾だ。時間は不可逆的であるために私たちに深い悲しみをもたらすのに、その不可逆性のおかげでこそ私たちは愛や人生のかけがえのなさを知る。

 つまり、「軽さ」と「重さ」は時間の一度性をめぐって奇妙に同居していると言える。軽々しいと感じる瞬間は、再現不能であるからこそ尊い。時間が有限であるからこそ、私たちは生の意味を、あるいは無意味さを認識する。これは人間存在の根底にあるパラドックスであり、私たちはこのパラドックスから逃れられない。


 私が育った東欧世界には、幾度となく政治体制がひっくり返り、歴史が“変更”されるという経験がつきまとった。それは同時に、私の個人的な時間の感覚にも影を落としたと思う。あるときは、国が栄えていると信じて希望に燃えていたはずなのに、気づけばその時代の指導者は「最悪の独裁者」と呼ばれている。歴史は線形であるはずなのに、あとから書き換えられ、私たちの時間感覚を乱す。

 大きな歴史の流れが激変するとき、個人の記憶や人生の時間もまた断絶を強いられる。昨日まであった価値観が一夜にして廃れる。愛する人が遠い国へ亡命し、二度と会えない。こうして私たちの生は、ちぎれた断片のように散らばる。その断片をつなぎ合わせる術として、私は「物語(ストーリー)」を活用してきた。それは小説の形をとることもあれば、日記や会話の形をとることもある。

 時間は、語られなければそのまま風化する。語り継がれなければ、やがて不在となる。私はこの“語り”こそが歴史や人生に連続性を与える手段だと信じている。もちろん、その語りが真実をゆがめることもある。だが、ゆがめられたとしても、物語が存在することで私たちは自分の人生を解釈し、再構築することが可能になるのだ。


 小説を書く行為は、“時間”を二重に扱う行為だと私は思う。筆者である私は自分の人生における時間を投じて作品を書き、読者は自分の時間を費やしてそれを読み、物語の登場人物たちは作品の内部で独自の時間を生きている。三重、いやそれ以上のレイヤーで時間は流れていて、あるいは停滞しているのかもしれない。

 その意味で、文学は“時間との戯れ”である。たとえば、登場人物が過去を思い出す場面では、読者もまた自分の過去を思い出すきっかけを得る。作中の十年間を数ページで飛ばすこともできるし、一瞬の出来事を何ページにもわたって描写することもできる。つまり、小説とは時間操作の芸術でもあるのだ。

 ただし、ここで大切なのは、その操作が“遊戯”として楽しみ得ることである。時間を操作する芸術は、読者や作者にある種の愉悦をもたらす。私たちは普通、抗えないはずの時間を、物語の中で自由に操れることにある種の解放感を覚えるのではないか。

 さらに付け加えるなら、音楽もまた時間の芸術と呼ばれる。音楽は始まりがあり、一定の長さがあり、終わりがある。そこではメロディやリズムが時間を切り分け、美と感情を作り出す。小説もまた、冒頭から結末に向かって“ある時間”を形成する。読者はページをめくりながら物語世界の時間を追体験し、独自の満足を得る。それは言い換えれば、現実の時間をいったん保留にして「別の時間」を生きることに他ならない。


 私たちは日々、過去を懐かしみ、未来に不安を抱きながら、現在を生きている。だが、この“現在”とは実に曖昧な概念だ。何かに気を取られているうちに、未来だったはずの瞬間があっという間に過去になり、自分が「いま」と呼ぶ時点は絶え間なく移り変わる。

 では、時間とは一体何なのか。時間に“実体”があるのか、それとも人間が認識のために便宜的に区切っているだけなのか。その問いに確たる答えを出せる者はいない。しかし、だからこそ私たちは、小説を書き、物語を紡ぎ、歴史を語り、愛を思い出す。そうして一つひとつの出来事を、自分なりに時間の流れに結びつけるのだ。そこには悲しみや喜びが混在し、ときに滑稽な笑いが添えられる。

 人生が一度きりで、取り返しがつかないからこそ、私たちは自分の行動に震え、自分の選択に胸を焦がし、決定に葛藤する。繰り返し得ないから尊いのか、繰り返すからこそ愛おしいのか。そのどちらとも言えない矛盾を抱えながら、人間は小さな灯火のように時間の闇を照らそうとする。

 もしも私が読者のあなたに一つだけ問いを残すとしたら――それは「あなた自身にとって時間とは何ですか?」ということになるだろう。書物を閉じたあとも、その問いはあなたの中で響き続けるだろう。なぜなら、時間は自分で意識しないかぎり、私たちの掌からするりと逃げていくからだ。それをとらえようとしても、もう既に次の瞬間には姿を変えている。だからこそ、書くこと、語ること、思い出すことは、時間をふたたび手繰り寄せるための行為となる。

 時間とは、私たち人間が決して支配しえない、しかし逃れられない“耐えられない”存在だ。だからこそ、そこにはロマンティックな夢想もあれば、残酷な現実もある。そして、その真ん中には、滑稽なまでに生を愛する人間の姿があるのだ。

上記の文章はほぼ、AIが作成したものです。
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