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ボールは地球、自身の似姿

田中淳一 詩集『生と死のあわいに迷子』(モノクローム・プロジェクト)

 詩はときに書記主体の生きざまを描く。詩とひとの生死とが同一地平に共存する。だから、ひとが迷子になると詩も迷子になる。「一人称の表記は『僕』『ぼく』『私』が混在し」ているが、「タイトルの『迷子』が迷っている様が表現できていれば」と述べられている通り、まるで路上派詩人の朗読会かライブの趣があった。〈寒かった/コンクリートの上に横たわっても眠れなかった/歩いた/歩いても寒かった//(略)//ぼくは雑居ビルの非常階段に腰を下ろし/詩を書いた/怒りの声だった/ただの手すさびで空腹が満たされることなどないが/精神の安寧は得られた〉(詩「路上にはじかれ」)、このように、言行一致体の書法で眼前の光景が活き活きと描かれているからだ。そうすると、主体の苦悩である生死のあわいが詩に直情的に反映されることになる。だがときに言行一致には往々にして隙間ができ、客観世界が創出されてしまう。田中は言う「詩は心のデトックス」であると。この述懐が田中にとっての詩の位置づけを証言しているようだ。こんな、本書を象徴するフレーズがあった。〈中学校横の草むらに/軟式野球のボールがうずもれていた/ひび割れ/泥にまみれ/地球のように痛んでいた〉(詩「絶滅」)。誰でもわかるようにこのボールは地球の暗喩であり、「うずもれ」「ひび割れ」「泥にまみれ」ているのは、地球のもう一つの顔であって、しかも田中自身の似姿になっていると思うのだ。

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