石川敬大+イシカワケイダイ
現代詩をコアにした文学系マガジンです。詩と評論を両輪に、視覚とリズムと清楚と静謐を求めています。近代史、写真、映画、社会思想などにも関心を広げています。
篠崎フクシ詩集『二月のトレランス』(土曜美術社出版販売) 表題の「トレランス」の語句は、「寛容さ・公平さ」の意味。やはり巻頭の表題作が絶品。《ゆき、またゆきが降るのか、二月》との冒頭の詩行イメージが、白を基調とした表紙デザインに顕著に反映され、本書全体を覆って過不足がない印象を持った。 詩風は清純風な恬淡の、静謐さが「隙間」時間を敲いていた。私のこの「隙間」意識とは、稠密な日常の硬直した壁面から覗く亀裂であり幻想的時空間のことで「詩」の異称ということもできる。《ののしり
「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」安西冬衛の、この詩を含む満州文学というカテゴリーがあることを、わたしは、川村湊や樋口覚の本を読むまで知らなかった。犬塚堯が、そこに属することはなかったが、同じ大陸からの引揚げ者である池田克己創設の「日本未来派」に犬塚の詩が特集され、詩壇の詩人たちに認知されることになるのも、なにかの因縁によるに違いなかった。 安西が満州に渡った五年後の大正十三年(一九二四)に、犬塚堯は長春で生まれている。父は、満鉄が経営していた大連の大和ホテルに勤務
大橋政人 詩集『反マトリョーシカ宣言』(思潮社) 「敬愛する」と自ら書くほど大橋は、まど・みちおに心酔しその詩法も近年益々接近している気がする。詩法のコアとなるのは〈言葉の世界と実物の世界〉の〈違いを見ずにはいられなかった〉不思議な世界を注視することであり、注視した後の自然の wonder を言葉に置換するムーブメントである。本書の随所に垣間みることができ、まどの世界をみている錯視感に筆者は何度も惑乱を感じた。〈海には/大きな魚が一匹/魚は/どんどん大きくなって/海の大き
前田巌 詩集『ひとりゆく思想』(砂子屋書房) 著者は私と同年代。詩の書き始めは高校二年の時「担任の国語の先生から八木重吉詩集を紹介され」、卒業記念誌に詩を発表したのを嚆矢とする。詩のとば口に八木重吉がいたことは、前田の詩性を考えるうえで決定的な意味をもつのではないだろうか。その詩は平易平明な表現で短く簡潔な点が特徴である。ここから先は憶測になるが、八木は30歳手前で病没する。彼がもし老年を迎えていたならどんな詩を書いただろうと想像する。前田と同じ老境の心情を描いたのではな
田中淳一 詩集『生と死のあわいに迷子』(モノクローム・プロジェクト) 詩はときに書記主体の生きざまを描く。詩とひとの生死とが同一地平に共存する。だから、ひとが迷子になると詩も迷子になる。「一人称の表記は『僕』『ぼく』『私』が混在し」ているが、「タイトルの『迷子』が迷っている様が表現できていれば」と述べられている通り、まるで路上派詩人の朗読会かライブの趣があった。〈寒かった/コンクリートの上に横たわっても眠れなかった/歩いた/歩いても寒かった//(略)//ぼくは雑居ビルの非
長津功三良 詩集『天下泰平 何事もなし』(幻棲舎) 身辺雑記、広島物、亡妻物を三章立てに分類整理してきっちり編まれている。集中Ⅱ章が白眉で、圧倒的筆力を感じる。既刊12冊を眺めると「影」の語句が目につくが本書でも同じで、長津の詩作のキーワードともなっているようだ。「影」はひとの属性ではなく変異した姿。「影」は、例えば〈市内電車の 座席に座る〉私の〈向かいに座った〉同級生だった〈タニケン君〉である。〈蒼い放射能石の 蔭で/静かに 哀しみの/舞いを 舞う/影たち〉である。「
葉山美玖 詩集『春の箱庭』(空とぶキリン社) 前作の『約束』は内実と表現形式、それにレトリック三者のバランスが拮抗しており完成度も高かったが、本作では詩的虚飾が剥ぎ取られ、より生の感情が過去形で語られ精神史でも繙いている感覚に襲われた。とはいえ創作は虚実綯交ぜにするものだから、ことの真相を暴くものではないし、そこに軸足が置かれているわけでもない。いってみれば小説や絵本も上梓している葉山が、なぜ文学にのめり込むことになったか自身の創作の原点を探しだし、探り当てようとする精神
山本博道 詩集『夜のバザール』(思潮社) 旅先で詠まれた「覇旅詩篇」と本書の帯にあるが、少し趣が違っていた。なぜならばカンボジア、タイ、ベトナムなど、東南アジアを巡るロードムービーの喧騒と猥雑な旅であり、漢籍の枯淡の旅情と呼べる情緒には欠けているように感じたからだ。むしろ沢木耕太郎の『深夜特急』シリーズの世界に近い世界観だった。本書のタイトルが象徴するように「線路市場」「泥棒市場」「百年市場」の他、各国の地名を冠した市場やバザールの詩篇タイトルが並んでいるが、それはそこが市
山本かずこ 詩集『恰も魂あるものの如く』(ミッドナイト・プレス) 冒頭の詩篇から読み始めると表題詩の後に『あとがきにかえて』、これで終わりと思うと「もうひとつの『あとがきにかえて』があった。なんとこれが本書の核となる詩篇で、中原中也の『冬の長門峡』の一節を表題にした詩篇に連携しており、この詩集の魅力に納得がいった。「もうひとつの『あとがきにかえて』は亡夫で刊行社主、山本の詩集のほぼ全てを手掛けたかけがえのない連れあいであった岡田幸文を偲ぶ、詩篇の挽歌であり絶唱であった。〈
裏路地ドクソ 詩集『ビューティフルワインド』 読みだした当初、70年代の尖鋭でラディカルな饒舌体による詩法で書かれた詩群のように感じた。しかし注意して眺めれば政治色は薄く、むしろ尾崎豊的な「愛と反逆のエコー」であり「韻を踏まないラップ」、「自身と他者に向けられたアジテーション」、「言葉の衣裳を纏ったソロダンス」などの評言で全体像を把握したいと思ったが、そのフレームをパンすれば若年の吟遊詩人であるともいえないこともない。〈帰り道/君とお揃いで買った色違いのバイクに乗って/い
新井啓子 詩集『さざえ尻まで』(思潮社) 心象風景と抒情詩は厳密には違うが、外材する景観を素材として内在するものを投影させる詩法的に言えば、この二つはそう隔たるものではない。主体側の主観による網掛けがなされた、半具象的な素描がこれに相当するだろう。内在するものは記憶であり、願望や憂愁、悲哀、寂寥、郷愁等々、清新で繊細な感覚である。外材する景観にしても見たありのままであるはずがないから、夢遊的な描写にデフォルメされることになる。タイトルの「さざえ尻」の語感、松江の地名である
江上紀代 詩集『空を纏う』(鉱脈社) キャリアを積んだ詩人であるかのように「最初の作品」という詩『祈り』の完成度の高さには驚いた。言葉に対する助走もなく、このレベルの詩が書けるなら天性のものだろう。第一連が猫とサボテン、第二連が海とモーゼ、第三連で「母が/逝った」と関連性が希薄な素材を使って間口を広げ、次行「追われたように/ひとりで逝った」と収斂させ、「追われるものの背中に/限りない祈りが/降り注いでいる」と締めくくる詩法は見事であった。「音をたてずに滑らかに廻る秒針は/
前田利夫 詩集『生の練習』(モノクローム・プロジェクト) レトリックを度外視してでも、自身の内なる声と真摯に正対する、清新な姿勢で一貫した詩集であった。そうすることで副次的には、外界の自然現象でさえ原初的な光景として詩的に立ち現われてくる。〈風が唸る音がした/いつまでも 身体を撫ぜる 大気が剃刀のように/斬りつけているのに/空だけが なぜこんなに青いのだろう〉(『透明な統計表』)。次のような特異で異常な行為だって許容できる。〈風が吹いてきて 線路をなでていた/ひとは さび
古根真知子 詩集『皿に盛る』(私家版) 横長見開きの詩作品を読むと、ページをめくることなく一篇が完結していて心地良い。余白の多さと言語空間の生活感が薄い形而上的な透明度と清楚感とが巧みにシンクロしているからでもある。冒頭作ではないけれど詩篇『音』はこんな詩だ。〈窓をあけると//雨の音が/はいってきた//地上におちた/ひとつぶひとつぶの/音//無数の/透明なつぶの/音//雨の音〉(詩篇『音』前半)。目につく余白にひらがな表記と漢字の語彙選択に清潔感が漂う。「音」を異なる情態
木村孝夫 詩集『十年鍋』(モノクローム・プロジェクト) 読み進めながら、私自身の父母や姉達の死者体験とどう違うのか考え続けてきて、少しわかった気になった。それは、背負っている死者の数、失ってしまった景色など、喪失の総量がまるで違うのだということに。そのことに圧倒された。詩語は慎重に抑制されて直截性を薄めながらも、勘所を的確に押さえているのでスパイス効果があり、訴えかけてくる力強さは少しも減じることはなかった。〈その場所を足で掘ると/多くの声が隠されている〉(『骨の重さ』)
長谷川信子 詩集『不器用な真珠』(鉱脈社) 詩集の読みはわたしの場合、冒頭作から順に頁を繰ってゆく。そうすると各作品の冒頭部の印象が重要になってくる。要するに「つかみ」の重要性がこれに当たる。佳品と思えるものは「つかみ」が秀でている。本詩集もそうだ。〈海面に三角定規を当てて 鋏で切り/取った 海は破れた 二箇所破れた/青い海原には 白い三角形が 二隻/浮いている〉(『秋の気配』)、〈いつも/腹を空かしていた縄のきれはしは/自由自在に這い回り/藪の中の/白い十字架のドグダミ