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日々の心情を詩的言語へ

ひとはなお 詩集『風の空へ飛んだ』(土曜美術社出版販売)

 表現者であってもかなりの割合で、当人の仕事やその性質の色を嫌が上でも帯びてしまう。ひとはが発する詩的言語は、直截的で率直なケースが多い。ご本人も勘づいておられるように英語教師としての職業柄、主張が明確である英語の影響を受けており、詩作する上で、日本語での詩的表現に苦慮されてきた様子がうかがえる。平易な表現を用いながら、いかに日常と日々の感慨を詩的言語に昇華させるか、そのことに懸けてきたというのがひとはの詩的営為の概要だろう。こんなフレーズを引用すれば理解いただけるだろう。〈貯水池には/月見草が咲いて/月が語ることばが/わたしにも/聞こえた〉(『この街で』最終連)。本書では父母のことが詩情を込めて多く語られている。誰でも通る道なのだが、誰もが避けて通れない隘路のような道なのである。〈母とバスに乗って/秋から冬へと/街角を曲がる//(略)//母とバスに乗ったのは/何年ぶりだろう/子どものころには/母に手を引かれた/今は わたしが/母に頼られるようになった〉(『バスに乗って』より)。〈叱るように/わたしをいざなった/父の辞典の/いたんだ表紙//(略)//父の辞典は/わたしの道しるべではなくなった〉(『晩秋』より)。前半が母との、後半が父との接し方の違い、父母の役割の違いが端的に表現されているのが読み取れる。

 集中わたしが最も興味を魅かれたのは、詩篇『おやすみ』だった。〈空を のこして/陽が沈む//(略)//みいんな/ちょっぴり 心をのこし/布団にくるまり/ねむるんだ//(略)//わたしは 明日に/きょうをのこして〉。先にわたしは日常から詩的言語への昇華作業に苦慮されたのではと書いたが、ここにはもう一つ別の昇華がある。日々の心情を詩的言語へと言語化させるという昇華である。これがひとはの、詩的言語に寄せる心的で内的運動なのだ。

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