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伝えないことで伝える

冨上芳秀 詩集『言葉遊びの猟場』(詩遊社)

 〈言葉遊び〉とタイトルにも謳われる、表題作はこんな調子の内容である。〈アルマジロ、アルマジ・アルマ・アル・ア、ああああああああああ/あるまじろ、るまじろ・まじろじろろ ロロロロロロロロロロ/カメレオン、カメレオ・カメレ・カメ・カ、かかかかかかかかかか〉(冒頭部)。全行を通読してもほぼ意味を汲み取れない言葉の羅列であるが、本作品を極致として意味からの脱出は途上であり、他のほとんどの詩作品はこの詩に見られる音韻重複やずらしや意味からの連想による詩法の駆使であった。『曲者から始まる言語増殖の実験』とタイトルを付記された作品を覗いてみると、〈ジュース、二十九、十八、番茶も/出花挫かれ/今は山中、今は浜/の真砂は尽きるとも/世に盗人の種は月、/見草に候/尼僧、早漏にあきれ果て〉(部分)と、音韻より意味のほうに足をとられているように感じられる。〈言葉遊び〉の軽いノリで済まそうなどと金輪際思って編んだ詩集ではないはずだ。そのことは冒頭の詩作品『闇の中の読者』から読み始めた読者ならわかり切った事であろう。〈「まだですか、あなたの詩はまだですか。狼が食べたのですか。山鳩が啄ばんだのですか。それとも都会に棲むあなたを愛してあなたを憎んでいる化け物の女が食べたのですか」(略)「そんなものは詩ではない」また、孤独な男は私に向かって暗い声で冷たく囁いた〉。読者とはもちろん書き手の中の対詩における規範意識のこと。『後記』を読むと意外な言葉と出会う。「私は言葉遊びというものを敵視してきた」「言葉の意味は極めて重要」と書いていたからだ。冨上のこれまでの詩集を思い返すと、音韻による連想が詩作品の推進力になっているシーンを度々目撃した。それによって新たな意味やイメージが喚起されることはあっても、無意味な言葉の羅列というのはなかった。いかに意味を重要視してきたかはよく理解できるところだ。本書のような試みははじめてであり、それは日本語の「特質とか機能というものの不思議な働きを意識」し始めたからであり、それゆえの「伝えないことで伝えることもある」だろう実験場だったのである。その実験の果実は読者のものだろうか、いやむしろ冨上自身のものだろう。

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