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散文脈により正統的欲望

裏路地ドクソ 詩集『ビューティフルワインド』

 読みだした当初、70年代の尖鋭でラディカルな饒舌体による詩法で書かれた詩群のように感じた。しかし注意して眺めれば政治色は薄く、むしろ尾崎豊的な「愛と反逆のエコー」であり「韻を踏まないラップ」、「自身と他者に向けられたアジテーション」、「言葉の衣裳を纏ったソロダンス」などの評言で全体像を把握したいと思ったが、そのフレームをパンすれば若年の吟遊詩人であるともいえないこともない。〈帰り道/君とお揃いで買った色違いのバイクに乗って/いつかの海岸線を走る//本当は私、いつまでも待っていてほしいんだよ/良かったバイクに乗っていて//この背中の小刻みな震えが、誰にも悟られないから〉(『背中』)。これらの詩句は、私ならもっと簡潔に、こんなに多くの言葉は使わないだろう。また、〈地球が回っているなんて当たり前だよ/僕だって寂しさを紛らわすために踊るんだから〉(『Pain』)。など、詩句の口調を読むと、かつて近代詩に文語調があり、口語詩にとって代わられた詩史を思い出した。そしていま書き言葉と現代の話し言葉の表記問題がある。そこで気づいた、本詩集の詩群は書き言葉ではなく話し言葉で表記されていたのだ。それがわかると、饒舌体で書かなければならなかった理由もわかってくるのだ。〈街を出るって毎日泣いて、誰かを救いたいって身を削って/一日がおやすみで終わることの無いこの生活が心地よくて/僕も君には愛してるなんて言葉を言ったこともないのに、僕等は確かに繋がっていて〉(『脳内リリカルリリイ』)。これなど読むと話し言葉で散文調だから、一行が長文になる。ここまで私は詩法である言葉の衣裳を語ったが、内容面での作者の主張は真っ当で正統的である。〈明日、セカイとやらが弾け飛んでも/君の唇から香る言の葉が/いつまでも遺りますように〉と希望と愛を語っている。本書は話し言葉の散文脈により正統ある欲望を主張し、それが同世代を惹きつける要素になっているように感じた。

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