見出し画像

原爆投下した国から来た夫と、被爆地出身の妻のこれまで

わたしは、広島出身です。

そして、広島に原爆を投下したアメリカ出身の夫、マイクがいます。

正直に言うと、結婚するまでは、それを深く考えたこともありませんでしたし、原爆について話し合ったことなどありませんでした。


わたしは、何となく

「マイクも広島に住んでいるんだし、原爆の被害が大きかったことも知っているだろうし、原爆は間違いだったと考えてないはずがない」

と、勝手に思っていました。

でも、一緒に住んでみてはじめて、二人の間にはとてつもなく大きな「壁」があることが分かりました。


わたしは、広島の原爆記念日の8月6日は当たり前のように登校日で、平和教育の授業があり、幼い頃から広島原爆資料館の数々の悲惨な写真と展示を見て、被爆者の証言をたくさんの聞き、

「原爆は絶対に許されない」

と教えられて育った、コテコテの広島人です。


かたや、夫は

「戦争を早く終わらせて
 これ以上兵士が犠牲にならないために、
 原爆投下は必要だった」


という教育をずっと受けて育ったアメリカ人です。


普段は優しくて、他人との争いも好まないし、明るくて人が好きな夫なのに、戦争のことになると、いつも同じ言葉を発するのでした。

「アメリカが世界の平和を守ってるんだ」

「武力を持たない国が侵攻されたら、罪のない市民を救えるのはアメリカしかない」

「原爆投下は仕方なかった。アメリカだって、日本にやられる危険があったんだ」


これらはどれも、わたしにはどうしても受け入れられない考えでした。

何度話し合っても、いつも平行線。


毎年、8月がやってきて、テレビで原爆記念日や終戦記念日のニュースが流れる季節になると、わたしたちは、飽きもせず同じことで喧嘩をし、お互い意地を張って譲らず、二人の間はギクシャクするのでした。

そして、いつしか戦争の話は、わたしたち二人の間では「触れてはいけないタブー」になりました。

結婚して5年ほど経った年の8月、たまたま、つけっぱなしのテレビに映っていたNHKの番組を、夫が見始めました。

それは、2007年に亡くなったアメリカの元軍人のドキュメンタリーでした。


番組で取り上げられていたジョー・オダネル氏は、原爆投下の後、軍の「記録班」として長崎の駐留軍人の様子を写真に収めるという任務につきます。

軍の情報統制で、「軍のカメラしか使用してはいけない」「決して日本人を撮影してはいけない」という厳しい規律があったにもかかわらず、彼は規律に反してこっそり自分のカメラを持ち込み、長崎の被爆者たちを写真に収め続けました。

ひどい火傷を負って死の淵をさまよいながら「エネミー!(enemy)」と片言の英語で彼に向かって叫ぶ人、息絶えた幼い弟を背負って直立不動で火葬場に立ち弟を荼毘に付す順番を待っている少年、そんな傷ついた人たちの写真をオダネルさんは撮りつづけました。


悲惨な光景を次々に目の当たりにするうち、オダネルさんの心にはある変化が起きます。

番組では、オダネルさんが晩年に取材に答えた時の肉声が英語で流れました。

「私は、真珠湾攻撃の後、軍に志願しました。
 日本人が憎かったからです。

 日本人をたくさん殺したい、そう思っていました。

 でも、長崎の惨状を目の当たりにし、
 私の考えはすっかり変わりました。


 日本軍は、確かに私たちに対してひどいことをしました。

 でも、だからと言ってこの傷ついた人たちから
 母を、子を、兄弟を奪う必要が本当にあったのでしょうか。


 最初は日本人を憎いと思っていたのに、
 もう私には、彼らに対する憐れみの気持ちしかありませんでした。



 1945年、あの原爆はやはり間違っていました。

 それは100年たっても間違いであり続けます。
 絶対に間違っています。絶対に。

 歴史は繰り返すといいますが、
 繰り返してはいけない歴史もあるはずです。



 ああ、私の国は、何ということをしてしまったのでしょう」



夫は、オダネルさんの証言を聞きながら号泣しました。


夫は、「戦争を早く終わらせてこれ以上兵士が犠牲にならないために、原爆投下は必要だった」と教えられ、それを疑うことなく何十年も生きてきました。

彼は、今は「アメリカが世界の平和を守っている」とか、そういう思想はもう持っていません。

それでも、「原爆は、戦争を終わらせるために必要だったのか」という問いへの答えは、今でも「半々」だそうです。


夫の涙はおそらく、そのドキュメンタリーを見る前からずっと心の奥にあり、でも蓋をしつづけていた、アメリカ人としての強烈な罪悪感、「それでも原爆は必要だった」という信念、そして、その信念が揺らいでいることへの葛藤、それが一気に溢れ出たものだったのだろうと、今となっては思います。

夫は、そのテレビ番組を見て以降、わたしと原爆について話すのを一切拒否しました。


「触れてはいけない話題」というのは、どの夫婦にも一つや二つはあるのかもしれません。

でも、それを見て見ぬふりをして仲がいい夫婦を装うのは間違っている、とわたしは教わりました。


でも、毎日、忙しい生活のなかで、じっくり本音で話し合ったり、喧嘩をしたりするのは、ものすごいエネルギーが必要です。

それを、面倒くさいと思うようになった自分がいました。


結婚したばかりの頃は、わたしの中の理想の夫婦像、つまり夫が「原爆投下は間違っていた」と認め、二人が同じ意見を共有することを目指して、何度も話し合いをしようとしました。

でも、すでに書いた通り、それは全くうまくいきませんでした。


いつしか、

「この人とは、深いところではきっと一生分かり合えない。

 でも、戦争の話さえしなければ波風立てずにいられるんだから、そうすればいいじゃない」

と諦めていたような気がします。

でも、せっかくご縁があって夫婦になった人と「この人とは分かり合えない」と思いながら共に生きていくのは、やっぱり違う、とわたしは思いました。


広島出身のわたしが、マイクというアメリカ人と出会って結婚したのは、なぜなのか。

日本人同士なら悩む必要のない数々の困難にぶち当たっては、たくさん傷つき、また傷つけなければならなかったのは、なぜなのか。


それは、もしかしたら日本人が誇りを持って、言葉の壁を超えて堂々と外国人と向き合う姿勢、そして、勇気を持って大切な人との間にある壁を壊していく姿勢を、わたしが率先してコミュニティの人に見せていくためなんじゃないか。

そう思いました。


そんな時、日本では一般的に「卑怯な奇襲攻撃」だったと教えられていて私もそう信じ込んでいた真珠湾攻撃が、実は日本側は意図して騙し討ちをしたのではなくアメリカ側も攻撃を事前に知っていた・・・

という、ひとつの歴史解釈を、こがみのりさんといういつもお世話になっている先生から聞きました。


全く知らなかった話に衝撃を受けたわたしは、その話を夫が知っているのか、それについてどう思うのか、どうしても知りたいと思いました。わたしはそれまでのタブーを破り、ついに、夫と対峙しました。

最初は、夫はわたしの話を聞くのを非常に嫌がりました。

でも、わたしは「これが真理だ」という断定をしたり、アメリカを悪く言ったりはしませんでした。

日本側の事情や主張だけでなく、アメリカ側の事情や動機についても、わたしが勉強して理解したことを伝えました。


奇襲ではなかった可能性については、夫はすでに知っていました。でも、真実が何かということより、お互いの国の批判ではなく「私たちの国は、当時はそれぞれいろいろ事情があった」という話が、はじめてできました。

夫とわたしは、夜通し語り合いました。

自分の国の歴史について何を教えられたのか、これまで何を信じてきたのか、はじめて喧嘩せず、でも熱く語り合うことができたのです。

夫がドキュメンタリー番組を見て号泣したあの日から、10年が過ぎていました。


夫の家系は、代々軍人です。

祖父、父、兄が海軍や海兵隊で働いていました。

いろいろな事情で実現しませんでしたが、彼自身も、本当は米軍に入りたかったそうです。

だから、夫は愛国心が強いし、「アメリカは正しいことをした」と信じてきたのも、当たり前のことなのです。


軍のトップや政府の思惑はともかく、夫のお祖父さんも、お父さんも、お兄さんもそれが最善のことと信じて危険な戦地に赴いたのだと思います。

「愛する家族を、愛する国を守りたい」という、ただその一心で。

それは、1945年のアメリカの軍人さんも同じだったでしょう。

もちろん、日本の軍人さんも。


「原爆は間違っていた」と夫が認めることは、危険を冒して戦地に赴き、必死でアメリカを守るために戦った家族や先人の思いを、踏みにじることになるのです。

そして、その子孫である自分自身のことをも否定することになるのです。


夫が中学生の頃、夫の父親はソマリアにいました。

お父さんが死んでしまうかもしれない。
もう二度と、家に帰ってこないかもしれない。

そんな恐怖に怯えながら、夫は多感な少年時代を過ごしました。


これをお読みの方の、いったいどれほどが「家族が戦争で死ぬかもしれない」という経験をしたことがおありでしょうか。

わたしは、ありません。


それまで、恥ずかしながら、わたしは、こういう夫の背景に全く思いが及ばなかったのです。

代々軍人家系だったことは知っていましたし、マイクのお父さんがソマリアにいたことも、聞いたことはありました。

でも、それが何を意味するのか、考えたことがなかったのです。


その日、夫の話を聞きながら、「原爆は正しかった」という意見そのものはわたしはやっぱり受け入れられないけれど、でも「原爆は正しかった」と信じたい夫の思いを、はじめて理解しました。


以前、毎年8月が来ると同じことで喧嘩をしていた頃は、夫が完全にわたしと同じ意見になることを期待していました。

「原爆は悪い」と、学校で習ったことをそのまま受け売りで主張していた当時のわたしは、「どう考えても、わたしの方が正しい」と思っていました。

でも、それは間違っていました。


わたしは、
こがさんからこう教わりました。

「どちらが善でどちらが悪か、
 どちらが正しくてどちらが間違っているか、
 そういう二項対立の考え方こそが、
 戦争を生み出すんです。

 そうじゃなく、相手が自分の考えと違うなと思っても
 それをいったん受け入れてみること、

 その人がどうしてその考えに至ったのか、
 その背景を考えてみること、
 そこから意見を交わしていくこと、
 そして、互いが『和すること』が大切なんです」


わたしはそれまで、二人が完全に同じ価値観を共有しなければいけないと思っていました。そうでないと分かり合えない、と。

でも、そうではなく、善悪で物事を判断しないこと、「この人は、ここに至るまでいろいろ事情があったんだ」と、相手の背景を理解しようとすることが大切だったんです。


こがさんは、こうも教えてくれました。

「自分と相手の意見が相容れないとき、
 そのままぶつかっても共通項がないんだから
 喧嘩になるのは当たり前。

 そうじゃなく、抽象度を上げて、ふたりの間の
『最小公倍数』を見つけたらいいんですよ」


マイクとわたしは、今日もなお、歴史認識についてお互いの価値観が違うところがたくさんあります。

そんなわたしたちが見つけた最小公倍数は、こうです。

アメリカも、日本も、それぞれの国のいろんな事情で戦争をすることになってしまったこと。

戦争で多くの人が犠牲になったのは、それぞれの政府が国民をプロパガンダで煽ったことにも原因があること。

わたしたちは、それぞれが「当たり前」と思ってきた教育(洗脳)から抜け出し、自分にとっての真実を見つけないといけないということ。

そして、

原爆は、
もう二度と使われてはならないこと。


まだまだわたしたち二人の間には、いろんな壁があります。

今まで、

「難しいから」
「面倒くさいから」
「言葉が通じないから」

と避けてきたことが、たくさんあります。

それに、これからも一つ一つ向き合って、たくさん喧嘩をし、話し合い、「和」していきたいと思います。


というわけで、大変長くなりましたが、日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースに寄せて、わたしたち夫婦のこれまでの道のりを書いてみました。

戦争や核兵器の是非とか、真珠湾攻撃の真実とか、そういう話ではなく、あくまでも、夫婦がお互いの壁を壊し、お互いにたどりつく道をつくってきた過程をお話しさせていただきました。

あなたが、自分の壁を壊して新しい可能性に挑戦したり、大切な人と向き合ったりするために、何かのご参考になれば幸いです。



英語学習者向けのブログを書いています。↓


いいなと思ったら応援しよう!