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自由共産主義の希望

"The inherent vice of capitalism is the unequal sharing of blessings. The inherent virtue of socialism is the equal sharing of miseries." -- Winston Churchill, 1945

『資本主義の本質的な欠点は、恩恵が不平等に分配されることだ。一方、社会主義の本質的な美徳は、悲惨が平等に分配されることだ。』-- ウィンストン・チャーチル, 1945

プロローグ:ダブル選挙の開幕

 2025年、人口減少と経済停滞にあえぐ日本は、ついに多党制の時代へ突入していた。かつての政権与党は一党支配の崩壊とともに勢力を失い、世論は真っ二つに分裂した。そんな中、衆議院の解散総選挙と参議院の通常選挙が同時に行われる『ダブル選挙』が実施されることになり、国民は再び重大な選択を迫られた。

『格差こそが進化の証』というスローガンを掲げる自由競争主義党は、富裕層をターゲットにした贅沢なキャンペーンを展開した。豪華な会場で繰り広げられる選挙演説は、まるでハリウッドの映画プレミアのようだった。党首の剛田武(ジャイアンとは関係ありません)は、『努力しない者は淘汰されて当然だ!』と高らかに宣言し、観客はシャンパン片手に拍手を送った。

自由競争主義党の政治資金パーティー

 一方、全く異なる哲学を掲げる共産党(*1)は『平等のための犠牲は甘受せよ』と絶対的な平等を主張している。演説会場は質素な公民館で、観客は冷や汗をかきながら百均一(もも・きんいち)党首の『みんなが同じ苦しみを味わうべきだ!』という力強い演説に頷いていた。

共産趣味者の選挙活動

共産党(*1) :本作品に登場する架空の党であり、世界中の共産党から正式に公認も認識もされていない共産趣味者の団体です。また、主義者趣味者は異なる概念です。

 選挙結果は、誰もが予想しなかった事態に陥った。自由競争主義党が辛うじて第一党となったが、過半数には届かず。キャスティングボートを握ったのは、なんと共産党だった。

第一部:歴史的な妥協

 剛田武は、眉間に深いしわを寄せたまま、共産党本部に向かう車の中でため息をついた。『あの百均一と手を組むなんて、悪夢以外の何物でもない……』と独りごちた。だが政権を握るためには、彼のプライドを飲み込まざるを得なかった。

 一方、百均一も不満を抱えていた。『資本主義者の豚どもと手を組むなんて、私の生きる意味が問われる!』と叫びながらも、議会の現実に背を向けるわけにはいかない。

 両者が緊張感たっぷりに会議室で対面したとき、報道陣のフラッシュが容赦なくたかれた。『我々は、かつてない協力体制を築くことを決意しました!』と、剛田武と百均一は、引きつった笑顔で握手を交わした。

 こうして誕生したのが自由共産党だった。キャッチフレーズは、

『格差と平等の両立!あなたの未来は政府次第!』

政策の迷走

 自由共産党の政策は、初日からカオスそのものだった。富裕層には『競争優遇手当』が支給され、一部の企業は税金免除の特権を享受した。だが、全市民には『平等分配税』が課され、毎月の収入は政府が定める平均額に一律修正されることとなった。

 さらに『努力者の称賛及び非努力者の平等保護に関する法律』という奇妙な法案が成立した。

努力者の称賛及び非努力者の平等保護に関する法律

第一条(目的)
本法は、努力する者の成果を称賛するとともに、努力しない者に対する平等な保護を保障することを目的とする。

第二条(努力者の称賛)
努力を惜しまず、社会的、経済的、または文化的発展に寄与する者は、政府より公的に称賛され、特別表彰が与えられるものとする。

第三条(非努力者の保護)
社会的に努力を行わない者であっても、人権および生計の権利は平等に保護されるものとし、経済的な困窮状態に陥ることがないよう、政府が必要な措置を講じる。

第四条(権利の平衡)
努力する者と努力しない者との間に発生する社会的格差の是正を目的とし、政府は所得再分配などの措置を講じ、全市民に平等な機会を提供することを目指す。

 この法律の施行により、オフィスではエリート社員たちが無気力な同僚を横目に汗を流し、互いに『努力しない権利』を争奪する奇妙な競争が勃発した。

社会の変化

 政策の矛盾に苦しむ国民は、日常の中で次第に希望を失い、その瞳から光が消えていった。赤坂のとあるレストランでは、豪華な食事を頬張る自由競争主義党の支持者たちと、配給制の粗末な食事を必死に耐える共産党支持者が、同じテーブルを挟んで沈黙しながら向き合っていた。二つの思想は決して交わることなく、ただ食べ物の香りだけが彼らを結びつける唯一の糸となっていた。

 しかし、『資本主義の豚臭』『廃給食のディストピア臭』に染まったこの国では、誰もその違和感に気づかなくなっていた。鼻がすでに、それを拒絶する力を失っていたのだ。

 人間は強烈な臭いに数分もさらされれば慣れてしまう。この現象は『嗅覚順応』と呼ばれ、長時間同じ臭いにさらされると不快感は薄れていく。まるで社会が腐敗の臭いに順応してしまうかのように。

 風通しの良い場所では順応に時間がかかるが、閉ざされた空間では速やかに嗅覚は麻痺する。閉じ込められた国民が政策の腐敗に慣れていく様は、重くのしかかる空気そのものだった。

 一方、学校では『競争授業』『平等授業』が交互に行われ、子どもたちは混乱の極みに陥った。『今日はトップを狙え!』という教師の声が響く月曜日には、全員が必死に答案用紙と向き合う。だが翌日の火曜日には、『みんなで平均点を取ろうね!』と促され、全員が同じ解答を書くという奇妙な協力ゆとりプレーが展開された。

国際的な失笑

 外国のメディアは、『日本は暗黒ユートピア国家』と皮肉を込めて報道した。好奇心に駆られた海外からの観光客たちは、日本独自の『自由共産主義』体制を一目見ようとやって来たが、街中の人々が混乱と絶望の表情を浮かべ、道端に座り込む姿を見るにつれ、期待に満ちていた笑顔は次第に引きつり始めた。『本当にこれは観光スポット? 心霊スポットじゃなくて…』と、自撮り棒を握る手も震える始末だった。

 一方、剛田武と百均一は、それぞれの支持者に向けて、『我々の政策は新しい社会の実現に向けた挑戦です!』と必死に訴え続けた。背後では、ビルの広告モニターが無表情なアニメキャラクターに社会の成功を宣伝させていたが、それも今や風刺画のように映っていた。だが、誰もが分かっていた。これ以上の迷走は、もはや『社会実験』などという優雅なものではなく、ただの悪夢であることを…。

結末への布石

 人々の不満が爆発し、国会前では抗議のデモが頻発した。『自由を返せ!』『平等を守れ!』という相反する叫びが交差する中、自由共産党は窮地に立たされた。次なる総選挙で、果たして日本はどこへ向かうのか? それは、誰もが予想できない、新たな政治の地平へと続いていた……。

第二部:自由共産主義の崩壊と希望の影

国民の反乱

 自由共産党による政策が施行されてから半年が経過したが、社会はかつてない混迷に陥っていた。テレビでは、『働き過ぎる者に罰金を課す』という新たな政策が報じられ、キャスターが笑顔で『これで皆平等です!』と伝えるたびに、視聴者はテレビ画面に向かって物を投げつけた。

 街角では『自由』と『平等』をめぐる議論が至るところで白熱していた。喫茶店でコーヒーを啜る中年男性は、隣の席に座る若者に向かって怒鳴り始めた。

『自由を奪われたら何の意味があるんだ!』と叫ぶ彼に対し、若者は『平等がなければ自由も虚しい!』と応酬する。その様子を見ていた店員は、溜息をつきながらメニューの値段が日ごとに変わることに嫌気がさしていた。もはや、スタバでサステナぶっている時代ではなかったのだ。

 一方、政府は『不満のない社会』を目指し、『幸福度強制向上委員会』を設置。街頭では政府公認の『幸福おじさん』が笛を吹きながら歩き回り、笑顔でない市民を見つけるたびに『もっと笑いましょう!』と励まして回った。だがその結果、人々はますます表情を曇らせ、幸福おじさんが通り過ぎるときだけぎこちなく微笑むようになった。

自由共産党のパラドックス

『このままでは国が終わる!』自由共産党の剛田武党首は、党内緊急会議で怒声を上げた。彼の顔は赤く、手元の資料には『国内生産性20%低下』と赤字で大きく書かれていた。一方、同じ党内で平等を重視する百均一党首は落ち着いた表情で『平等は守られています。私たちの理想には揺らぎがありません』と応じた。

『理想なんて、そんなものに何の意味がある!』剛田武が叫ぶと、百均一は冷静に立ち上がり、『我々が目指したのは、人々が同じ立場で生きられる社会です』と一歩も引かない。その言葉は一見すると確信に満ちているようだが、実は彼も内心で揺れていた。支持者たちの間からは『絶対的な平等など幻想ではないか』という疑問の声が次第に広がっていた。

 会議は堂々巡りのまま終了し、党内は理念と現実の矛盾に引き裂かれたままだった。自由を重んじる者と平等を重んじる者、その両極にいる剛田武と百均一の対立は、もはや修復不可能に見えた。理想を掲げたはずの自由共産党は、自らが作り上げたパラドックスに絡め取られ、出口の見えない迷宮に陥っていた。

破滅の序章

 街中では、自由競争主義党の過激な支持者たちが、『自由を取り戻せ!』と叫びながらデモを行い、共産党支持者たちは『平等を守れ!』と応酬する。ある日、デモはついに暴動へと発展し、東京の中心部は混乱の渦に巻き込まれた。政府は緊急事態宣言を発令し、警察が出動して市民を抑えようとしたが、事態は悪化するばかりだった。

 ニュースキャスターは震える声で、『私たちはこれまでにない混乱を迎えています……』と伝え、放送中にスタジオが停電する事態まで発生。国民の間には、政府が発表した『停電は計画的平等化措置』という言い訳に呆れた声が広がった。

自由共産党の崩壊

 ついに自由共産党は政権維持が困難となり、再び総選挙が行われることが決定した。党首の剛田武と百均一は、互いに責任を押し付け合いながら政権から去ることを余儀なくされた。最後の会見で、剛田武は『我々は新しい挑戦をした』と述べ、百均一は『理想を追求する道は終わらない』と締めくくったが、国民は冷ややかな視線を送るばかりだった。

新たな希望?

 しかし、混乱が収束するかと思いきや、次に待ち受けていたのはさらなる波乱だった。新たに結成された政党は、『幸福主義党』と名乗り、『幸福は義務』と掲げていた。政府は市民一人一人に『幸福度測定チップ』を配布し、毎日の幸福度をリアルタイムで監視する計画を発表した。市民たちは、『自由』『平等』、そして『幸福』という3つの言葉に翻弄されながら、新しい時代の幕開けに立ち尽くすばかりだった。

第三部:多極化する世界の中の日本

 自由共産党の崩壊から1年後、日本は再び選挙戦の渦に巻き込まれていたが、国内の混乱はもはや日本一国の問題にとどまらなかった。世界は今、かつてない多極化の時代に突入していた。アメリカを中心とする『アメリカ至上主義陣営』と、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)が率いる『BRICS至上主義陣営』が国際社会の主導権を巡って拮抗していた。

 この中で、日本はその地政学的な重要性からキャスティングボートとして、全世界の注目を集めていた。日本がどちらの陣営に与するかによって、世界のパワーバランスが決まると見られていたのだ。

二大陣営の圧力

 アメリカ至上主義陣営は、日本に軍事的な安全保障を強調し、『自由と民主主義の守護者』として日本を味方に引き込もうと圧力をかけていた。駐日アメリカ大使は毎日のように日本の首相を呼びつけ、『あなた方の決断が自由世界の秩序を保つために不可欠です』と強い口調で迫り、そのたびに首相は追い詰められる思いをしていた。

 一方、BRICS至上主義陣営は、日本に経済的な誘惑をちらつかせていた。中国とロシアは共同で『アジア繁栄構想』を打ち出し、日本がBRICSに加われば巨額のインフラ投資と天然資源の優先供給を約束するとしていた。インドの首相はビデオメッセージで『日本が我々と手を組めば、21世紀の繁栄の中心となれるでしょう』と熱弁を振るった。

政治家たちの迷走

 この中で、日本の政治家たちは再び分裂していた。新たに誕生した政党の一つ、親米自由党は『アメリカとの同盟こそが日本の繁栄を守る道』と訴え、テレビ広告では星条旗を背景に『自由と経済を守ろう!』と力説していた。

 一方、BRICS連帯党は『西洋一極支配の時代は終わった。これからはBRICSと共に世界をリードする』と誇らしげに主張し、党の演説会ではカレーとピロシキ、そして麻辣酸辣湯が所狭しと並べられ、辛さと油が効いた多文化共生を象徴する場面を演出していた。香辛料の匂いにむせながらも、党員たちは『これこそが真の国際協力だ』と涙目で宣言した。

 しかし、日本では別の涙が流れていた。SAF(持続可能な航空燃料)の原料となる廃食油不足に悩まされる官僚たちは、演説会の料理を眺めて複雑な感情を抱いていた。

 麻辣酸辣湯の表面に浮かぶたっぷりの油を見ては『あの油があれば…配力湯(パワーオイルスープ)として輸入できないだろうか?』と夢想し、ピロシキを見てさらに目を細めた。『待てよ、ピロシキには焼きと揚げがあるが…これは揚げピロシキだな。揚げた時の廃食油を確保できないものか?』と、もはや食文化への敬意もどこかへ吹き飛んでいた。

 さらに、香辛料のテンパリングに使われたギーを見ては、『ギーもSAF原料として活用できるのでは?』と真剣に考え始める有様だった。そして、中国の地溝油分離技術の噂にすら心を奪われ、『あの技術があれば、日本でも夢の純国産資源が確保できるかもしれない…』と目を輝かせていた。国際協力どころか、もはや廃食油を巡るサバイバルが展開されているかのようだった。

 だが、現実はスパイスほど甘くはなかった。どちらの陣営も一筋縄ではいかず、SNS上では支持者たちが熱くなりすぎて、まるで麻辣酸辣湯を一気飲みしたかのような激しい論争を繰り広げていた。

日本の国会、再び混迷

 国会は再びカオスの極みに達していた。ある日、親米自由党の代表が議場で『我々はアメリカと共に未来を築くべきだ!』と叫ぶと、BRICS連帯党の代表がすかさず『それは西洋の陰謀だ!世界はアジアとBRICSが引っ張る時代だ!』と反論した。議場はまるで国際会議の縮図となり、委員会ではイミフな議論が白熱し、もはやイミフ語の通訳が必要なほどだった。

世界の注目と混迷の時代

 国際メディアは連日、日本の動向をトップニュースで報じていた。CNNは『日本がアメリカ至上主義に傾けば、アジア全体が激震する』と伝え、BRICS系のニュースチャンネルは『日本がBRICSと手を組めば、西洋世界の支配に終止符が打たれる』と盛り上げていた。

 そんな中、日本の街は異様な熱気に包まれていた。アメリカ支持派のデモでは『自由と安全保障を守れ!』と叫ぶ群衆が星条旗を振り、BRICS支持派のデモでは『新しい繁栄の時代を築こう!』とシュプレヒコールが響き渡った。さらに、『どっちもやめてくれ!』と叫ぶ無所属派のデモまで現れ、街全体は混沌(カオス)そのものだった。

混沌=カオス(ギリシャ語由来)』と『混迷=コンフュージョン(ラテン語由来)』は、どちらも混乱を表す言葉ですが、語源や意味に違いがあります。『カオス』は原初の無秩序を指し、『コンフュージョン』は要素が入り交じった混乱を意味します。したがって、両者は同じ語源から来ているわけではありませんが、混乱という点では関連しています。この違いは哲学的にも興味深く、『カオス』は秩序がまったく存在しない状態を表し、『コンフュージョン』は何かが秩序を乱した結果として生じる混乱を指します。

武智倫太郎の語源ワンポイントレッスン

市民の視点と不安

 一方、市民たちはこの混迷に不安を募らせていた。中年サラリーマンの田中は職場で同僚と議論を交わしていた。『アメリカにつけば安全は守れるが、経済は苦しくなるかもな』『でもBRICSにつけばインフラは発展するけど、外交問題が増えるかもしれない…』 彼らの会話はどこか諦め混じりで、誰も答えを知らないのだ。

 大学生の佐藤は友人とカフェで話していた。『結局、どの選択肢もデメリットしか見えない。♬僕たちの未来♬はどうなるの?』友人はコーヒーを一口飲んで苦笑した。『まさに混迷の時代だよな。もはや笑うしかないよ』

国際会議のジョークネタ

 日本の政治的混迷は、国際会議でも冗談のネタにされ始めていた。G20の晩餐会で、ある国の首脳が『日本は自由と平等、そして幸福を同時に求めた結果、混乱を手に入れたらしい』と笑いながら語った。隣の国の首脳も冗談に乗り、『いや、きっと彼らは混迷こそが新しい自由の形だと考えているのさ』と返した。

日本の行方は?

 この多極化の時代に、日本がどちらの陣営を選ぶのか、あるいは新しい独自の道を模索するのか。全世界がその決定に注目しながらも、日本はさらに迷走を深めていく――そして、この混迷がもたらす未来は、まだ誰にも見えていなかった。

エピローグ:自由と平等の果てに

 2030年、世界は最終的な崩壊へのカウントダウンを迎えていた。日本の混迷は一層深まり、その余波が国境を越えて広がっていた。地球上のすべての国は、多極化した陣営に引き裂かれ、世界はもはや誰にもコントロールできないカオスの渦中にあった。

経済の崩壊

 アメリカ至上主義陣営とBRICS至上主義陣営の対立は、世界経済に致命的な打撃を与えていた。両陣営は互いに制裁合戦を繰り広げ、貿易は全面的に停止。食糧やエネルギーが不足し、世界中の都市で暴動が頻発した。日本では、米国からの輸入に依存していた小麦が枯渇し、パン一斤が黄金よりも貴重なものとなった。

『これが我々が望んだ自由と平等の代償か……』と、パン屋の主人は空っぽの棚を見つめながらつぶやいた。市民たちは食糧を求めて狂乱状態に陥り、街は略奪と破壊の地獄絵図と化していた。

環境の限界

 経済の崩壊と同時に、気候変動がかつてない勢いで猛威を振るっていた。北極と南極の氷は完全に溶け、世界中で海面が上昇した。かつて繁栄を誇った沿岸都市は次々と水没し、難民があふれかえる事態となった。気温が異常に上昇する中、人々は逃げ場を失い、熱波で数百万人が命を落とした。

 日本でも、夏には50度を超える異常気象が日常化し、電力不足で冷房も使えない。国民は炎天下で意識を失い、病院は重症者であふれかえった。だが、医療物資もすでに底をついていた。『もはや私たちには、神様仏様に祈るしかないのか……』と医師は絶望の涙を流した。

最後の大戦

 混迷を極めた国際社会は、ついに最後の一線を越えた。アメリカ至上主義陣営とBRICS至上主義陣営は、互いに核のボタンを押す決断を下した。地球上に無数のキノコ雲が立ち上がり、世界は炎と放射線に包まれた。核爆発の衝撃が大地を揺るがし、空は一瞬にして真っ暗になった。

 日本はそのキャスティングボートとしての役割が、最後まで両陣営の争いに引き裂かれる形となり、逃れることはできなかった。都心の巨大スクリーンでは、核爆発の映像が映し出され、人々はただ呆然と立ち尽くしていた。『これが、人類の自由と平等の行き着く果てか……』と、ある老人がつぶやき、次の瞬間にはその姿も消え去った。

人類の滅亡

 数カ月後、地球は完全に変わり果てていた。灰色の空には一筋の光も差し込まず、大地は黒い雪に覆われていた。人類の大半は死に絶え、生き残ったわずかな者たちも、放射線に蝕まれながら死の淵をさまよっていた。

 かつての繁栄は跡形もなく消え去り、人類が築いた文明は瓦礫と化した街並みと、静まり返った荒野に埋もれていた。地球は最終的に深い静寂に包まれ、生命の息吹は完全に絶えた。すべてが終わりを迎えたかに見えたその時、荒廃した世界に、ただ一つだけ残されたものがあった。北極と南極の氷が溶け、海面が上昇した果てに、水面上に孤高にそびえ立つ巨大な図書館だった。

アポカリプス(黙示録)の部 完

ポストアポカリプスの名作に続く(パステルカンナ作)

自己解説

#なんのはなしですか

 ここからが、皆さんお楽しみの『自己解説』のコーナーです。筆力のある作家は、自分の作品を解説しなくても、読者が理解できるように巧みに書いたり、あえて説明を省いて読者に余韻を楽しんでもらったりするものです。

 ところが、私のように筆力のない作家は、作品で何を言いたかったのかが読者に伝わらないことが多いため、このように『自己解説』のコーナーが必要になります。自己解説をすることは、換言すれば筆力不足の証左であり、作家としては恥ずかしいことなのです。

 でも、ほかの作家の皆さんは恥ずかしがる必要はありません。なぜなら、自らの恥や無知を売る自虐的な職業こそが、作家稼業なのです。

 このような自己解説が必要な作家の作品を読んでしまい、時間を無駄にさせてしまった読者のために、謝罪の意を込めて、ここで有益な小説作法の情報を提供します。

武智倫太郎の小説作法(1)

 物語を書く際には、作者である人間の視点だけでなく、動物や自然そのものの視点も取り入れることができます。これにより、物語がより多面的に描かれ、テーマが新しい角度から浮き彫りにされる効果が生まれます。さまざまな視点には、それぞれ独自の魅力と特徴があります。

1.一人称視点

 一人称視点は、語り手が『私』や『僕』、『俺』、『あたい(中島みゆき調)』、『吾輩(デーモン小暮調)』などとして物語を語る方法です。この書き方は主観的であり、語り手の感情や考えがそのまま文章に表現されます。語り手が人間である必要はなく、動物や無機物を使うことも可能です。

 そのため、語り手が何を感じ、どのように世界を見ているかが直接伝わります。たとえば、夏目漱石の『吾輩は猫である』は、猫の目を通して人間社会を観察する作品として有名です。この視点では、読者は語り手に強く感情移入しやすく、個別の体験を深く感じられます。動物の視点を用いることで、人間社会の習慣が異質なものとして描かれ、独特な解釈が可能になります。しかし、一人称視点には制約もあり、語り手が知らない情報を描写するのは難しく、物語の展開が語り手の視点に縛られます。

2.全知視点

 神の視線とも呼ばれる全知視点は、語り手が全てを知っている存在として物語を語る方法です。この視点では、登場人物の感情や背景、未来の出来事まで自由に描写でき、人間の物語に限らず、自然や動物、さらには無生物の視点まで取り入れることが可能です。たとえば、人類が滅んだ後の世界を全知視点で描く場合、自然界がどのように回復していくかや、動物たちが新たな生態系を築く様子を俯瞰的に描けます。

 この視点は、物語のスケールを大きくし、複雑なプロットを展開するのに向いています。また、多くのキャラクターや状況を同時に描けるため、テーマやメッセージを強調しやすいメリットがあります。ただし、視点が散漫になりやすく、特定のキャラクターに感情移入しにくい場合があります。さらに、語り手が全知的に語りすぎると、物語の緊張感が薄れる可能性もあります。

3.動物や擬人化視点

 動物や自然の視点を用いると、人間中心の世界観とは異なるものの見方を提供することができます。たとえば、森が人間の文明の痕跡を見たり、海の波が環境の変化を記録する物語が考えられます。動物の視点では、生存本能や感覚が中心に描かれ、自然の視点では時の流れが広大に感じられることがあります。

 狼の群れの視点から新たな秩序を探る物語や、何世代にもわたって見てきた出来事を語る木の視点などが例として挙げられます。非人間的な視点は、人間の行動や文明を批評的に見る新しい角度を生み出します。また、動物の本能的な行動や自然のサイクルを描くことで、普段は気づかない視点を読者に提示できます。しかし、こうした視点は読者にとって理解しにくい場合もあり、物語の進行が動物や自然の行動に制約されることもあります。

 このように、多様な視点を使い分けることで、物語に深みと多様性を持たせることができ、それぞれの視点が物語の目的やテーマに応じて効果的に働きます。

人類が滅ぶまでの作品と文明が崩壊した後の作品の書き方

 基本的には、人類が滅亡した後の作品では、一人称視点を用いることが難しいとされています。なぜなら、全ての人類が滅亡した後では、『誰が語り手となるのか』という矛盾が生じるからです。そのため、このような作品では一人称視点が使われにくいのです。

人類が滅ぶまでの作品

 このジャンルは『終末もの』や『アポカリプス(黙示録)』と呼ばれます。内容としては、人類が滅亡する危機に直面する過程や、文明の崩壊が描かれます。たとえば、パンデミック、環境破壊、核戦争、小惑星衝突などがテーマになります。登場人物たちは生き延びるために奮闘し、人間の本質や社会の矛盾が浮き彫りにされます。

文明が崩壊した後の作品

 これは『ポストアポカリプス』と呼ばれるジャンルです。文明が崩壊した後の世界が舞台となり、わずかに生き残った人々が荒廃した環境で生き抜く姿が描かれます。作品では、新たな社会秩序の形成、希望と絶望の間で揺れる生存者たちの葛藤、あるいは新たな文明の再構築がテーマになることが多いです。

筆者の目線の違い

アポカリプス(黙示録)の目線

 これらの作品では筆者の目線は警告的であることが多く『人類が直面する現実的な危機』を強調します。筆者は、読者や視聴者に危機感を与え、現代社会の問題点に目を向けさせることを意図していることが多いです。ストーリーの展開には緊張感があり、結末に向かうカウントダウンの感覚が支配的です。

ポストアポカリプスの目線

 これらの作品では、筆者の視点は哲学的かつ内省的なことが多いです。文明が崩壊した後の世界で、人間の生き方や新しい価値観が問われることが多く、文明とは何か、人間らしさとは何かといった深いテーマが探究されます。希望と再生、あるいは絶望の物語を通じて、人間の回復力や弱さが描かれます。

武智倫太郎

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