『父と 母と 私の旅』⑥ あなたを失う怖さと、失われない恩寵の網の目と
(前回の話)
母との地獄めぐりから7年が経ったが、
未だに、私自身の中に、大切な人(母)を失うことへの爆発的な恐怖があると、時折自覚する。
弱る母を見ることや、母にあらゆる病や死の懸念が出たとき、私はまたマグマのような恐怖と、
「そんなことは絶対に許せない」という激烈な感情が、怒りとなって瞬発的に起こるのだ。
この一年ほど、母とのことを思いめぐらせていて、私はふと、小さかった頃の自分を思い出した。子どもの頃、時折なぜだか、突然 「もう母がいなくなるかもしれない」という思いが湧いて、猛烈に哀愁の念に襲われ、涙ぐむことがあったのだ。母は病気でも何でもなく、いつもそこにいてすこぶる元気にしていたはずなのだが。
その怒涛の哀愁の念は、公園で友達と遊んでいるときなど、本当に何気ない、普通に日常を過ごしているときに突然訪れた。 「大切な母が、自分の元を去っていく」という鮮烈な悲しさの印象がなぜだかリアルなものとして、幼児期の私の中にあった。
大人になってから、好きになった男性が内戦地帯に行くというので、自分の気が動転し、仕事をほおり出して彼を追いかけ、海外へ行ったこともある。
「大切な人がわたしの元を去っていく」 「私は置いてけぼりにされる」 「見放される」
私の中の、そのマグマのような恐怖は、どこから来るのか。
前世の記憶の何かなのか。
不思議に思っていた。
私たちが人生をかけてしたいことは、『父の傷』と、『母の傷』を統合し、その痛みの奥にある『願い』を叶えていくことなのだと、メンターの加美大輔さんに教わった。
それが、私たちの生まれてきた意味なのだ、と。
ふと、あぁ私のあの恐怖は、「母の恐怖」であったのかもしれない、と思い当たった。母は、19歳の時に自身の両親をそれぞれ病気で亡くしている。
ほんの半年ほどの間に、突然10歳下の弟と2人残され、天涯孤独の身になった。
若かった母の中に、「大切な人が、自分の元を去ってしまう」という記憶と悲しみが強烈に刻印されている。
人の氣に同調しやすい自分が、(それも特に母娘という、元々一体であった緊密な関係の相手だったがために)
母が潜在的に抱えていた恐怖を、小さかった自分がそのまま無意識下で、自分のものとして受け取ってしまったのかもしれない。
母は、両親が亡くなってから数年が経った後、私の父となる人に出会って結婚し、結婚生活は幸せだった。
そこで、数十年が経過して、ある日突然、心のよりどころにしていた父が、先に他界した。
「大切な人はいなくなってしまう」 「大切な人がいなくなった後、私は、愛されない」
その傷が発動した。これは、母の持つ根源的な傷で、私も、それをそのまま、転写して受け継いでいるようだ。
母が極限まで弱ったとき。私も引きずり降ろされるように、心身同調し、弱っていった。
この頃、グリム童話に出てくるような魔女か老婆が、私をどこまでも追いかけてくるという悪夢を何度も見た。
「あなたがいなければ、生きていけない」 そう言って、恐ろしい老婆は私を追いかけて追いかけて、捕まえようと手を延ばしてくる。
彼女は、私が、私として生きることを、なんとしても阻止しようとしてくるように見えた。
この人に捉えられてなるものか。嫌だ、わたしは、わたしの人生を生きるんだ、
王子様に出会って、幸せに暮らすんだ‥‥
あの老婆は、母ではなかった。「わたし」だったのだ。
『母よ、あなたがいなければ、私は生きていけない。あなたを失ったら、私は生きていけない。あなたを失ってたまるものか…』
そう、必死の形相で追い求めてくる醜い老婆は、私自身だった。
怖かったのだ。 大切な母を、失っていくことが。
「何が起こっても、どんな私であろうとも、私は見放されない」
「大切な人を失ったとしても、あなたは、ずっとずっと、その人から、愛されている。
その人の存在は、肉体が失われたように見えても、決してなくなることはないんだよ。
魂は、ずっと存続し続けている。
そして、あなたの側に、片時も離れず、あなたを見守り、無限の愛で、愛しいあなたを見守り続け、
大切で、世界で一番 愛おしいあなたに、無上の愛を、注ぎ込み続けている。
あなたは、ただの一度も、一人ぼっちだったことなんて、ないんだよ。
あなたが生まれてから、この人生終えていくまでの間、ただの一瞬たりとも、
あなたが "愛"から見放されたことなんて、決してないんだよ。
あなたを包みこんでいる、この愛の海に、気づいて欲しい。
この愛の海から、逃れることなど、不可能なんだ。
あなたは、あなたの大切な人の魂から、そして大いなる存在から、
あなたの思いを遥かに超えた質と量で、愛おしまれ続け、守られ続けているから。
だから、どうか、安心してね。
私は、無理やりあなたを振り向かせることはしない。
あなたを大切に思うがゆえに、あなたの自由意志を、どこまでも尊重しているから。
あなたが、自分で気づける瞬間を、待っているだけなの。
ただ、わたしの見えない手が、あなたの頬を撫でているのを、感じてもらえたら、と願っているくらいなの・・・」
私が、そして母が、受け取りたいものは、大いなる存在からの、そうした思いだったのだろう。
父の願いは、
『自分が亡くなった後も、ずっと、側にいる。
だから、どうか、安心して、幸せであって欲しい』 ということだった。
その願いを、わたしは、受け取り続けられるだろうか。
その大きな包まれる安堵を、思い出し続けられるだろうか。
不完全な自分、何度も何度も、大切な人を失う恐怖は、完了することなく、私自身の中からわき起こる。
それは、大切な人の身に何か起こる度に、わき起こる。
母と2人、弱っていた7年前、過去の記憶の中のこの時期の自分自身に再び接近しても、いまだ自分自身と母の極限状況に、息が詰まる自分がいる。
今この不完全な自分を、私は、そのまま、受け容れようと思う。
どうやったって、自分なりに、精一杯やっていたのだ。
どうやったって、泣きじゃくってしまう自分だったのだ。
どうやったって、恐さで、怒り狂ってしまう自分がいたのだ。
この私の脆弱性すら、そのまま、大きな存在から、包み込まれている。
私は、それを、より深く、自覚したい。
愛は、どんな私をも、見捨てたことがないから。
愛は、どんな私をも、見放すことがあり得ないから。
どれほど凶暴で、脆弱で、惨めだと思う私をも、最初から最後まで、ゆるしきっているから。
私にとっては、それを知るのが、この人生の旅路の目的なのかもしれない。
私の高自我、全ての人にとっての高自我。
それはすなわち、愛、全体、真我なるもの。
その愛おしい子なのだと、言われている。
私自身が、一番弱い私を、ゆるせるだろうか。
私が自分自身を、問いかけ、育み、内側を、聴き続けることが、できるだろうか。
7年前、母がリハビリ病院で入院中、幾度も行くべき時に、私は自分の体調がもう限界を超えていて、行けなかった。
「私が行くべきところ、ごめん」
来て欲しいと願う母の願いに応えられない自分、
母を助けられない自分に、負い目を未だ感じる自分だった。
「本当に、よく頑張ったね」
「お母さん、よく耐えたね」
「でも、愛子、あなたも、本当に良く頑張ったね。もう、精一杯やったよね」
「もう、精一杯やったから。しょうがなかったよね。 いいよ、愛子、もうあなたは、精一杯やっているから。
それ以上、何かしようとしなくて、いいよ。
愛子、生きてるだけで、いい」
そう、何もできない自分を、ただ抱擁してくれる存在を、ひたすらに、自分のこころの中に、育みたかったのだ。
自分の命の灯が消え入りそうになり、自分への不信と嫌悪で、もう立っていることもできなくなりそうだった、この頃。
灯火を求めて、もつれるような足取りで、父が肉体を離れた瞬間に代わりに出逢った、師である橋本久仁彦さんのところまで逢いに行った。
その人の円坐というエンカウンターグループのような場が開催されていた場へ。
円坐の場で、私は何も語れなかった。みんなの前で、何も話せなかった。
ただ、休憩時間に入り、他の人が一瞬離れたとき、自然と、その人のところに足が向いた。
橋本さんも、私に何か感じてくれていたのだろう、私の方へと自然すっと足を向けてくれた。
私はやはり、一言も何も話せなかった。
ただ、父と祖母を続けて亡くした後の私、彼は私の顔を一目見るだけで、すべてを分かってくれた。
「息してるだけでええ。息してるだけで、ええからね。」 と言って、きつくきつく痛くなるくらいに私を抱きしめてくれた。
ただ、涙しか出なかった。
「息(生き)してるだけでええ」
果てしなく惨めで、最低最悪だと自分を断罪し、全く立ち上がる力もないと、体力も精神力も底の底をつき、無力の思いしかなかった私に。
必要だったのは、本当に、ただこの言葉と、抱擁だけだった。
この全受容してくれる存在を、私は、生涯かけてでも、『自分が』、『自分の中に』育みたかったのだ。
私の、母との緊密な関係性は、より大きな「母なるもの」に出逢ってゆくプロセスのようだった。
ある種運命的な「親子」という関係性の中で、出し惜しみしない優しさも、慟哭の怒りや哀しみも、あらゆる感情を受け取り、ぶつけ合い、返し合っていくのをゆるしあえる中、
その安心と、時に極限まで高められる圧の中で、内側から、それまで顕れたことのない、神聖で真正な「母なるもの」が、初めて浮かび上がっていく。
慟哭の中にいる自分すら、ちゃんと否定もされず見捨てられもせず、すべてゆるされ、愛おしまれていると。
私自身が、どんな自分自身にも味方になり続け、決して自分を見捨てない、決して自分を「一人にはさせない」 その決意と意志を自らに添わせていける強い力が自分の中にあることを、
知りたかったのだ。
この人生は、私にとって、永遠に失われない「母なるもの」を、自分の中に見つける旅なのだろう。
そして、どんな自分も決して見捨てない、自分を守り抜くという決意と意思を貫き通す、男性性の「父なるもの」を、自分の内側に、見つける旅なのだろう。
それを何度も気づかせ、根付かせていくために、私はこの現世で私と近接してまざまざと、私に関わってくれる人を、
父と母を筆頭に、必要としていた。
そして、もし仮に、大切な人を私が失っても、
私は、愛され続けている―――
その無限の、光に包まれた安心感の中にいる感覚を、私は受け取りたいのだ。
私が、父を失ったときに、目で見えない光をまざまざと観て、感じたように。
それが、私の魂の望みであり、人間の自我を超えた大いなる全体が、恐らく私という存在に願っていることである。
愛する人の喪失、というのは、それ以前の知覚を遥かに超える、より大きな愛に、目覚めていく事柄なのかもしれない。
私たちは、過去の世で、どうしても愛し切れなかった自分を愛するために、生まれてきたと、加美大輔さんは言う。
魂は、無限の輪廻転生を繰り返して、あらゆる人生を経験し続けている最中なのだと。
そして、一回一回の転生で、それ以前に、愛し尽くしていない自分を、より愛するための経験をしているという。
生身の肉体を持ってでしか、体験し得ないことがある。
そして、少しずつ少しずつ、輪廻を繰り返すごとに、愛を知っていく。
「自ら」を愛していく、過程なのだ。
全包囲、「無条件に」 愛され続けている、ということを、
私たち一つひとつの魂は、知っていきたいだけなのだ。
無条件、何の条件もなく―― どれほど、極悪なことをしたように見えても、どれほど残虐なことをしでかしたように見えても、
どれほどの痛みを受けても、どれほどの、悲しみにくれても、
どのような感情を味わうことも、どのような行為をしでかすことも、
まったく、最初から最後まで、ゆるされきっている。
「母を助けられない私じゃ、だめだ」
断罪していたのは、自分だったのだ。
「この人がいなくなったら、私は一人ぼっちになる」
自分を孤独に追い詰めていたのは、自分だったのだ。
でも、違う。
どの瞬間も、大いなる存在から、愛され続けている。
私がどんな姿であろうと、裁かれることはないし、
「独りぼっち」になったことも、過去未来に渡って、一瞬たりとも、あり得ない。
私がそれを受け取り、それに気づいたときに、前には感じられなかった安心感にくるまれていく。
その安心感の中で、こころが、やっと、ふわりと広がる。
自分への否定や恐れが消え、やさしさに包まれたら、
そこには、ただの、素朴で純粋な小さな子が、いるだけなのだ。
ただ、「自分は独りぼっちになってしまう」 と思って、怖かっただけなのだ。
怯えていただけだったのだ。
この世には
「愛」 か、「愛を求める叫び」 しか存在しない、と言う。
ただ、「私を置いていかないで」 「私の側にいて」 「愛して欲しい」 その切なる叫びが、あっただけなのだ。
ならば、裏返せば、結局のところ、「愛」しか存在していない。
私たちの意識には、力がある。
現実を、創り出す力が。
自分が、この無限の愛を受け取り、より大きな愛になりたいがために、
まだ幾度もの過去世で、愛し損ねてきた自分を、愛するための現実を、自ら創り出す。
「大切な人が、私の元を去っていったら
私は、愛されない」
その傷を、母が抱えていたからこそ、「そうじゃないんだよ」
それに気づかせるために、父は、先に逝った。
『私は、幸せを受けるに値しない。私は、惨めなんだ。それは、ずっと、変わらないんだ』 …
違うんだよ。
全てを超えた母の魂存在と、母の母の魂、母の父の魂、夫の魂、全存在が、
全包囲から、母に、私に、呼びかける。
大切な人が身を失ってすら、あなたは、一人ぼっちだったことは、ただの一瞬たりともない。
ずっと、私たちが側にいる。側にいて、付き添い、あなたを大きく抱いている。
肉体がなくなっても、可愛い可愛いあなたを愛し、愛おしみ、ぎゅっと手を握りしめている。
何があっても、あなたが、見離されない ということを、あなたが、体感でき、ふわりと安心感でくるまれるまで…
もう、あなたのこの傷が、うずかなくてもいいくらい、癒されていくのを、私たちは、待っている。
* * *
『悲しい』 身を裂かれるような出来事が、起こるのは
そこに、まだ、自分が安心しきれていない心のひび割れがある、ということの印。
『何があっても、見捨てられないし、愛おしまれ続けている、護られ続けている』
大地に全面的に抱かれるような、その安心感を、「わたし自身が」 より、受け取りたい という印。
このひび割れが、金で継がれて見事蘇り、以前よりもより美しく、丈夫な器になるために、この悲しい出来事は起こる。
魂は、より、自分自身を全面的に受容し、自分のそれまでの知覚を超えた、
さらに無限の愛を受け取るためだけに、現実にあらゆる出来事を起こす。
起こる現実は、全て、私たちの魂の所作によるものなのだ。
それは、より全体的な愛に近づきたいという、大きなものの計らいなのだ。
より大きな愛に目覚め、より大きな、源の愛と一つになるために。
現実は、私たちのこころが映し出すスクリーン。
私のこころが永遠の平安なら、
私の現実は、永遠に、平安なものになる。
私が、(母が、) 人生をかけて受け取りたかったのは、より大きな、この愛だった。
そうして、最高の未来を創造して、幸せを享受していくことが、
亡くなった存在含め、大いなる存在が、「わたし」という、この小さな一つのいのちに願っていることでもある。
* * *
母との地獄めぐりから7年目の今年。
少しずつ、わたしも、母と共通する自分自身の根源的な傷に気づき、それを、愛に還していくことを学んできたらしい。
この7年間、目の前の現実は、どんどんと、安らかになっていった。
笑顔と、安らかさ、穏やかで、健康になった、母との2人暮らし。
このやさしい現実があるということが、私たちの心が平安になったという証拠なのだろう。
私は、もうすぐ40歳になる。この年齢まで独身でいることを、10年前、20年前は、全く想像していなかった。
この10数年、人を深く愛するのが怖かったのだと思う。
自分が誰かを愛してしまったら、
同時に、その人を、いつかどこかのタイミングで失うことも引き受けなければいけない。
その失う恐怖が潜在的にあったがために、傷つくことが恐くて、深く愛する人に出逢うことを回避していたのだろう。
その、「失う怖さ」も、少しずつ癒えてきたらしい。
私も、恋愛をして大切な人ができ、人を愛するようになった。
『何があろうとも、私は、独りぼっちになることはない
失うことはないから、大丈夫』
その安心が私自身の内側で深まっていったらしい。
外側の現実にも、私が愛を注げる人、私を愛おしんでくれる人が現れた。
日々の暮らしで彼との関わりを重ねる中で、一緒に過ごせる幸せ、支え合える新鮮さな喜びをじんわりと味わっている。
生身の肉体を持って、大切な人との愛おしい時間を噛みしめる幸せ。
そして、同時に、互いの自我の奥にある、個を超えた大いなるものの神聖性の愛を、見つめ続けることができればと思う。
そこを見つめ続ける限り、「喪失」することは不可能だ、と知れるからだ。
どこまでも、失う怖さを持っている、自分だ。
けれど、
何が起こっても、どんな現実が訪れても、
私は、永遠の愛の中にいることを、瞬間瞬間、思い出し続けられる自分でいたい。
自分の今の知覚と想像を超えた、無限の愛を、一つひとつ知っていきたいがために、生まれてきた。
何層にも編まれた祝福と恩寵の網の目、
逃れようにも、逃れられない、愛の大きさ、気づくごとに、驚きと感動で、目が開かれる。
この世は、なんと、美しいところだろうか。
この目に映るものの美しさが、増していくばかりなのだ。
愛されているということの実感が、増していくばかりなのだ。
起こることのすべてが、「あなたは愛されている」という、証拠でしかない。
それが、例え、愛する人の喪失であったとしても。
母の願いは、「大切な人に、側にいて欲しい」 だった。
父の願いは、「大切な人を、幸せにしてやりたい」 だった。
父は他界したことで、魂がずっと側にいて、幸せであることを実感させてくれる。
母は父を亡くしたことで、永遠になくならない愛を見出すことができる。
生きている(いた)二人の自我が、仮にそうは思えなかったとしても、娘の私は、その世界を信じ、その光を見出していくのだ。
それにより、私の思いの確信と安堵が、世界に広がっていくから。
父が叶えたくて叶えられなかった願いを、叶えるために
母が叶えたくても叶えられなかった願いを、叶えるために
私は、生まれてきた。
生まれてきて良かった、と
この私を産み落としてくれた、父と母に、
そして、出逢ってくれた大切な人たちに、
そして、私に愛を気づかせるために起こしてくれたありとあらゆる現実の事象に、
深く感謝している。
今、私は、最高に、幸せになっていいと、より、自分に許可を出し
幸せになることを、決めようと、静かに決意している。
父が、私に願ったことだった―― 「愛ちゃん、幸せに、なりや」
年が暮れる冬の日の朝、澄み切った空が一瞬一瞬変化するこの上ない美しさを届けてくれる愛の中。
大切な人の隣で、胸の内から沸き起こる、無限の喜びに、包まれて、泣いている。
一つひとつを味わい尽くしながら、ただ愛となる途上にあることの、無上の喜びに包まれて、泣いている。
ここまでの旅、いのちの局面や根源の傷に、私自身が触れることをゆるすに辺り、数えきれない多くの方に助けていただいた。
1人では、怖くて素通りし、気づくことも触れることもできなかった傷。
深く深く、感謝しています。
そして、これからも続いていく人生、永遠になくならない魂の旅。
開けていく未来を、私は、これほどになく楽しみにしています。
* * * * *
ここまでの私の長い長い旅の記録を読んでくださり、ありがとうございました。
誰もが、父と母のすばらしさを引き継いでいます。
そして、誰もが、父と母の傷を負い、そして、その傷を癒そうという願いの元に生まれています。
父と母が得たくても得られなかった幸せを、より深く、より一層体験していくことを願っています。
私たちの魂は、連綿と、いのちを繋ぎ続け、
父母の系譜を含んだ全体として、より幸福に自由になることを意図し、進化し続けています。
あなたは、どんな怖さを持っているでしょうか?
それは、あなたのお父さん、あるいはお母さんの、どんな傷と、一致しているでしょうか?
その【傷】を裏返したときに、あなたと、あなたのご両親の魂が持つ、根源的な、深い深い【願い】があります。
その傷を癒し、愛に帰し、昇華していくことが、今回の人生、あなたの魂があなたへと願ったことです。
その傷を癒すことで、あなたは、あなたの父母の系譜含んだ全体の癒しを、一気に進められる存在となります。
読んでくださったあなたにとって、ご自身や、ご両親の思いの何かに、そっと触れるものがあったなら、私はこころから、嬉しいです。
もしよろしかったら、あなたのこころに起こったこと、ご感想など、聴かせてくださいね。
*mail : ai.maru●tutanota.com (●を@に変えてください)
*messenger : Aiko Hommaru (https://www.facebook.com/aimaru1)
そして、ここまでたくさんの人に助けていただいて歩みを進めてきた私から、
読んでくださったあなたへ、特大の感謝の気持ちを込めて。
年が改まったら、あなたの大切な物語を紐解くセッションを、
無料でプレゼントします。
追ってご案内しますので、どうぞ、楽しみにしていてくださいね。
新しい年
あなたという唯一無二の存在の、人生の謎をともに紐解き、
一緒に、大きな愛に変容させていける日を、こころから楽しみにしています。
2024年の暮れに
あらん限りの愛を込めて
愛子
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