「足るを知る」で悟りを開いた男!②ブッダ史上最弱のバカ弟子・チューラパンタカとは?
前回のつづきやで!
前編の内容をまとめると、
・人生の不幸のはじまりは「私は足りない……」と思い込むところから!
・「足りない」からやる『足し算』ではなく、「あ、足りてるじゃん!」に気づく『引き算』がカギ!
・そのカギを握るのが、ラッパー・釈迦の最弱のバカ弟子「チューラパンタカ」のさとりにあった!
やな!
それじゃあ、さっそく続きにいくで!
〜掃除をはじめて数年後〜
チューラさんの胸中に、ある疑問が思い浮かんだ!
「ちりってなんやろ? あかってなんやろ?」
「自分はいままで、外側にある『ちり』と『あか』を掃除しつづけてきた」
「せやけど、その『ちり』と『あか』は、外側だけじゃなくて、自分自身の内側にもあるんやないやろか?」
「だったら、内側にある『ちり』と『あか』って、一体なんやろう?」
そう思ったんや!
なかなか鋭い洞察やん!?
そうなんや。
「ちり」と「あか」は外側にもあるけど、もしかしたら自分の内側にもあるのかもしれない。
だったら、その内側の「ちり」と「あか」も掃除したほうがいいんじゃないか?
そう思ったわけやな!
けど、チューラさんはバカやったから、それ以上は頭が回らへん。
それでまた、元どおり掃除をつづけたんや。
「ちり払い あか除く ちり払い あか除く ちり払い あか除く……」
〜さらに数ヶ月後〜
「ちり払い あか除く ちり払い あか除く ちり払い あか除く……」
同じリリックを繰り返すチューラさん。
そして、ついにあることに気がつくんや!
「あ!『ちり』ってのは、自分自身だ!」
「そして『あか』とは、自分と他人を切り分けている自分の心だ!」
と!!
掃除をつづけたチューラさんは気づいたんや。
自分の中の「ちり」と「あか」に。
「ちり」とは、「自分はバカだ」「だから自分なんて意味ない」「生きていてもしょうがない」と言っている自分自身なのだ。
そして「あか」とは、「それにくらべて兄ちゃんはいいなあ」「うらやましいなあ」「あんな風になれたらなあ」という、兄と比較して惨めになっている自分自身なのだ。
そう、チューラさんはずっと勘違いしていたんや!
「バカな自分には価値がない」と。
つまり、
「バカな自分は、圧倒的に足りない存在なのだ」と。
そして、自分よりも賢い兄と比べて、そのたびに落ち込んだ。
決して兄のように賢くはなれない自分自身の現実に絶望した。
兄のようになれない自分は、「足りない存在」であると思い込み、そんな自分には「価値がない」とあきらめていたんや。
しかし、それこそが「ちり」であり、「あか」やった!
そして、その「ちり」と「あか」を取り払ってみると、現実にはなにひとつ「足りないものなどなかった!」ということが、ありありと見えたんや!
どういうことかというと、要するにチューラさんはずっと「バカな自分はダメだ(足りない存在だ)」と思ってたわけやんな?
でも、よ〜く冷静になって現実をみてみると、どうやろか?
チューラさんがバカなことは事実や。それは変わらへん。
でも、
「バカだったからこそ、マハー兄ちゃんに呼ばれて、ラッパー・釈迦の弟子になれた」
「そして、バカだったからこそ、リリックが覚えられず、門のところで泣いていた」
「門のところで泣いていたからこそ、ラッパー・釈迦から仕事とリリックをもらえた」
「自分がバカであることを知っていたから、他のことは全くやらずに、ただ掃き掃除と同じリリックを繰り返しつづけた」
「それしかやらなかったから、『ちり払い あか除く』のリリックの真意に気づくことができた」
そして、
ついにさとった!
つまり、バカだからさとれた!バカでよかった!バカだから、この現実は自分にプレゼントされてたんや!
なんも足りないものはなかった!!
これが「さとり」やねん!!
「さとり」っちゅーんは、超人になるとか、なんかすごい能力が得られるってことやないねん。
ただ、「ありのままの現実」「ありのままの自分」を、「ただありのままに見れるようになること」やねん!
いうなれば、自分と現実を「科学的にみれるようになること」やねん!
チューラさんは、その境地に至ったわけや!
今までのチューラさんには、「現実の半分」しか、見えてなかったんや。
それは、「自分がバカであること」「リリックが覚えられないこと」「そのせいで兄から見捨てられたこと」「たいした仕事ができないこと」などの、負の側面や!
でもな、実際の現実には、つねに負の側面を補う「光の側面」があんねん!
その「光と影の両面」を捉えられるようになることが、「さとり=差をとる」ってことやねん!
チューラさんなら、
影「自分がバカであること」
→光「周りの人が助けてくれる」
影「リリックが覚えられないこと」
→光「1つのフレーズにずっと集中できた」
影「兄から見捨てられたこと」
→光「ラッパー・釈迦に会えた」
影「たいした仕事ができないこと」
→光「掃き掃除だけをずっと続けられた」
というふうに、つねに影の部分を補っている「光の側面」があんねん!
人生で大切なのは、この影を補っている光の側面を、ありのまま見れるようになることやねん!
これで、なんで「自分は足りない……」と思い込むことで、人生が不幸になるのかも分かるはずや。
「自分は足りない……」ってのは、「影の側面」にすぎないねん!
でも、影があるってことは、「光があたってる側」が必ずあるんや!
影を見たらなら、光も見んと、バランス悪いやん?
元気なくなるのも当然や。
だってそうやろ?
それが自然の摂理なんやから。
「自分は足りない……」って思ってる人は、人生の「影の側面」だけを見て、「わたしの人生は暗い……光がない……おわった……」って言ってるようなもんやねん!
そんなわけあらへんがな!!!
光があれば、影ができる!
あたりまえの話や!!
影しかない、なんてありえへんねん!!!
「いや〜、でも、夜になったら光はないんじゃないですか〜?夜には影しかないじゃないですか〜。わたしの人生は、いま、夜なんですよ〜」
そう思う人もいるかもしれん。
けどな、
ブラジルの人聞こえますかー!!!
おまえが夜ってことは、おまえの裏側の地球にいる人は、昼やで!!!
日本が夜なら、ブラジルの人はめっちゃ昼やで!!!
どっちかが夜なら、その反対は昼になっとる!
地球全体が夜になることは、ないんや!
そんなことは、地球が始まって以来、46億年、1秒たりとも起こってない!
光の側面と影の側面は、いっつもワンセットや!
「ずっと夜の星」に、おまえは住んでへん!
そんでもって、地球はずっと回っとる!
これも止まったことがない!
だから、いま夜のおまえ、次はすぐに朝になるで〜!
お日様サンサンになるで!
それでも、足元みれば影はあるやろな。
でも、真上にはずっと太陽がある!
それだけの話や!
「影」があれば「光」がある。
「影」と「光」はつねに補い合っている。
それなのに、「私は足りない……」と思い込んでしまうのは、「現実の光の側面」が見えていないから。
つまり、「現実には影しかない」とカン違いしているから。
そんなのは迷信やで!
「私は足りない……」
=「私の現実には影しかない」
=「だからあれこれゲットしなくちゃ!成長しなくちゃ!」
そう思い込んだ瞬間から、「もしもゲットできなかったらどうしよう!」の恐怖も一緒についてくる。
「もしかしたら、ずっと足りない存在のまま終わるんじゃないか?」って。
それこそが、迷信やねん。
大切なのは、この『足し算』の思考を終わらせることやねん。
『足し算』をはじめる前に、この迷信をなくす『引き算』へ向かうことや!
その迷信が、「ちり」であり「あか」やったんや!
チューラさんは、それを「掃除=引き算」することに成功したんや。
「バカだからこそ、いまの自分があるんだ!」
そう思えるようになった。
「足りないと思っていた自分は、ずっと足りていたんだ」
「現実は、ずっと『足りてる状態でまわっていた』んだ」
そのことに気づいたんや!
そこに、ある人が通りかかった……
ラッパー・釈迦「お!自分、さとれてるやん!!!」
これが有名なシャカの弟子、チューラパンタカおパイセンの話やで!
この、現実の「影」と「光」の関係のことは、
「相補性」
っていうらしいで!
「そうほせい」って読むんや。
響きはむずかしく聞こえるけど、要するに「補い合うこと」って意味や!
現実はつねに「相補性」でできている
=現実はつねに「補い合っている」ってことや。
自分の「足りない」ように見えるところは、いつも「足りなくない」状態へと調整されているって意味やな。
でも、人間の脳にはかならず「死角=スコトーマ」がある。
だから、光の部分を見落として、影の部分だけを見て、落ち込んだりすんねん。
逆もあるわな。
光の部分=自分にとっての利益だけを見ていると、影の部分=犠牲になってくれた誰かが見えなくなる、ってことが、つねに起こりうる。
そうすると、人間は傲慢になたり、ワガママになったり、感謝を忘れたりするやろ。
それもバランスが悪いねん。
影だけを見て落ち込むのも、光だけを見て舞い上がるのも、どっちも偏ったものの見方=偏見や。
せやけど、偏見を0にすることはでけへん。
せやから「相補性」を意識することが大事なんやな!
そのたびにバランスを整えていくねん!
「足りないことが、足りていること」
「ないことが、あること」
それに気づくことこそ叡智やと、わしは師匠からおそわった。
詳しくはここから読んでみてや〜。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?