この世でのことは全て過ぎゆく。 どんなに栄華を極めようが、権力を手にしようが、金持ちになろうがいつかは滅び消えてゆく。 季節はめぐり時代はかわり世代交代しながら変化していく。 でもだからこそ、尊くそこに美もある。 栄枯盛衰。もののあわれ。 日本人は、その儚くて哀しい世だからこその美しさを見出してきたのだろう。 秋になると、こういうことを又よく感じる。 それから、また言ってしまうが、母を亡くしてからそれも一際感じ入る。 かけがえの無いない人を亡くしていく。 そしてい
私の人生に地唄舞を舞うという縁があった。その事について考えてみた。 例えば20歳になるまで着物を着るという機会があったのは、七五三だとかお正月にちょっととか、その程度だった。 床の間のある、和室がある部屋に住んだりはしていたものの、舞踊を観たり歌舞伎や能を観る機会などは無かった。 思春期くらいから女優になりたいという願望を持ち上京したのだが、どういうことか日光江戸村に行くと決めた。そこで初めて着物を毎日着る生活になり、日本舞踊に出会ったのだった。 せっかく東京に出
今年は占いにハマる。もともと占い好きではある。10代の時my birthdayという占い専門の雑誌をよく読んだ。 その時得た情報が基本になってはいるだろう。ユングという人のことを知り、潜在意識という概念を知ったのもその雑誌からだった。けっこう衝撃的なものを感じて興味深く読んだ覚えがあって、その時書いてあった絵も思い出す。 意識全体を氷山に喩えて、顕在意識は表に出ているほんの一部で水面化にはもっと巨大な潜在意識が隠れているという図。 自分にすら分からない自分というものが
去年の今日、東京から長野の母の病室に行った。今思えば母らしい母とちゃんと会話をしたのは、それが最後だった。 痩せ細って、呼吸器具やら何やら身体中管をつけられていたが、頭はしっかりしていた。弟に年賀状を持ってきてと頼んだらしく、それを選り分けて、自分の訃報を知らせて欲しいのは、この人達ね、と言っていた。 「しばらくは寂しいかもしれないけど、お父さんの時のこと思い出して、何とか過ごしていきなさい」とむしろ、自分が死に逝くことに対する私の気持ちを気遣うのだ。 俳句を折り
野口晴哉の「整体入門」であったか、「風邪の効用」であったか。 とにかく、野口整体というものを知ったのは、どちらかの本を読んだのがきっかけだった。 出会ったことでその後の生き方に影響を与えてきたものは、いくつかあったが、野口整体はその一つであることは確かだ。 身体や健康というものに対する捉え方について考える機会は、何の問題もないうちは、そう無いのかもしれない。 そんななか、気づきを与えてもらい、身体とは、生命とはと問えるようになれたことは、やはりラッキーなことだと思う。
本を読むのは、私の日常に組み込まれたことだ。常に手元には何かしら本が無いと落ち着かない。 けれど、振り返ってみると、小説より自己啓発的なもの、HOWTO本が多いかもしれない。結局、実質的なもののヒントを直に求めてしまうらしい。 それって、占いの数秘で言うと私が8だからかな、と思い当たった。 今年は、ことさら数秘術というものにはまった。いろいろな人の数秘も見て、それが又とてもなるほど!と思うのだ。 なのに、最初自分の8は納得いかなかった。8と言えばお金💰みたいなのにつ
何年も前になるが、blogを毎日書いていた時期がある。少しづつ書かなくなって、遂に年に5回書くか書かないか、になってしまった。 なのにnoteを始める。つづくのか? 書くことは常にしている。日記は習慣になっていて、それ無しに生きるなんて考えられない。しかしそれは、人様に向かって書く意志はまるでない。書いておきたい、書いて自分の内面を整理しておきたいのだろう。 それとこれとは、多分違う。 違うけど、共通する事はあるだろう。今、生きて感じることを書いておきたい。どんな時間も時