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内田百閒『第一阿房列車』読書感想文

弟子の“ヒマラヤ山系”を共づれとして『なんにも用事がないけれど』借金をして一等車に乗り旅に出たりするまさしく珍道中

#読書感想文

ご機嫌なお姿

とにかく面白い

不謹慎だったり、おふざけが過ぎたり、すごく失礼な事を思ったり言ったりする

かと思うと、突然『いや、あんたがそれ言うん?!』な正論を言ったり、冷静に、ごく常識人として振る舞ったりもする

時は戦後、たまにそういったご時世のことも語られるけれど、とにかく自由でマイペース

そんな中にも百閒先生独自のルールやこだわり(こんな言葉では言い表せない独特の細々とした色々)がある

なんにも用事がないけれど、借金をして汽車の一等車に乗って旅に出る

これだけ聞けば正気の沙汰とも思えないし、お金がないのに道楽者気取りのように聞こえるけれど、読んでいるうちにそんなでもないかなと思ってしまう

納得出来る理由もあれば首をかしげるものもあるけれど、私自身が倫理観とか常識的な考え方なんかが欠けているところや足りないところが多いからか、そういうものかなと読めてしまう

私は20代後半に、誕生日が同じと知って読み始めただけではあるけれど、度々手に取って読んでしまうほどに虜になった

小説『冥途』『阿呆の鳥飼』も、随筆『百鬼園随筆』も、行動・言動・発言・思考が『狂ってんな!』と思う部分と、繊細さやこだわり、人情味や愛情に溢れた面が見えたりする部分とのアンバランスゆえのバランスが堪らない

敬愛する師匠の夏目漱石の随筆『硝子戸の中』は、そう思って読んでいるせいもあるからかも知れないけれど、世の中や人の眺め方や受け取り方から同じ香りが漂う気がする

私は、夏目漱石も大好きなので余計寄せて考えてしまうのかもしれないけれど

色々な事は考えず、一般論とか常識とか『なぜ?』『どうして?』はとりあえず置いておかないと、読めないし、面白くない

しかし用事がないと云う、そのいい境涯は片道しか味わえない。
なぜと云うに、行くときは用事はないけれど、向うへ著いたら、著きっ放しと云うわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。

内田百閒『第一阿房列車』

どんと構えて、もともとこういう大物タイプならまだしも、若い頃の失敗談のようなものや日常のちょっとした面倒で厄介な性質なんかも書いてあり、ならどうしてこんな選択をする思考になるのかが理解不能

と言いたいところだけれど、ものすごくわかる

やるやらないは別として、すごくわかるから面白い

そして、この小説の面白さは仲良し(弟子的位置ではあるけれどそのイチャイチャぶりはもう仲良しとか言い様がない)の“ヒマラヤ山系”君とのやり取りに寄るところが大きい

年若い国有鉄道の職員で、切符の手配や段取り(彼のも先生のも含めて)も都合が良いし、同行願う諸々の理由も書いてあるけれど、とにかく連れて行く

ボロボロの靴やカバン、髭や髪などの整っていない事をひどい言葉で書いたり、時にはドブネズミなんて言ったりもする

受け答えや反応についても『ひでえな』といった事を書いているのに、道中は二人で工夫をし快適に呑んだり、行った先でも客人を交えてお酒を楽しみ、景色の感想や思い出を語り合ったりする相手として、必ず同行させる

お酒の相手はともかくとして、何を聞いても『はあ』としか言わないとわかっていながら

目次
特別阿房列車  
東京 大阪

区間阿房列車  
国府津 御殿場線 沼津 由比 興津 静岡

鹿児島阿房列車 前章
尾道 呉線 広島 博多

鹿児島阿房列車 後章
鹿児島 肥薩線 八代

東北本線阿房列車
福島 盛岡 浅虫

奥羽本線阿房列車 前章 
青森 秋田

奥羽本線阿房列車 後章
横手 横黒線 山形 仙山線 松島

内田百閒『第一阿房列車』

ご覧の通りの列車の旅をするのだけれど、観光地や名所へは行かない 

こちらも確固としているのかいないのかわからない意志・意思があり時々その事について書いてある

行った先々の景色、季節の移り変わる様子、名所巡りが細やかに書かれた旅行記でもないし、出されれば喜んで食べるが美味しい食べ物を求めて足を伸ばすとか、楽しむ場面が沢山出て来る訳でもない

けれど、そういった事は書いたものがあるのでそれを読めば良かろう

車窓や、列車好きならではの事細かな様子は書かれているし、要所要所でその当時の各地の駅の様子や周辺のこと、お宿のことも書いてあり、その自由さに魅了される

詳しく書かれたものを読み、行った気になって楽しんだり、ガイドブックがわりの一冊になり得るものもあり、それはそれで素晴らしいとは思う


この本ですごく好きな箇所のうち、とりわけ好きなのが

“鹿児島阿房列車 前章 ―古里の夏霞”

という章

岡山の百閒川を横切るとき“昔から自分の愛読者である山系”君にゆかりの百間土手を横切るときちょっと教えたいと、眠そうな(そうではないらしいけれど)彼に声をかけるところ

百間川には水が流れていない。
川底は肥沃な田地であって両側の土手に仕切られた儘、蜿蜿何里の間を同じ百間の川幅で、児島湾の入口の九蟠に達している。
中学生の時分、煦煦たる春光を浴びて鉄橋に近い百間土手の若草の上に腹這いになり、持って来た詩集を読んだと云うなら平仄が合うけれど、私は朱色の表紙の国文典を一生懸命に読んだ。
今すぐその土手に掛かる。

内田百閒『第一阿房列車』

この引用部分のノスタルジックな話は直接語らないまま、土手に掛かるときヒマラヤ山系君に声をかけるのだ

ヒマラヤ山系君は曖昧な返事で、相も変わらず『はあ』しか言わないのだけれど、何か、すごく良い

この二人の、求めすぎないけれどお互い良い距離感を保つ絶妙な呼吸や空気感、全てが何か、すごく良いのだ

少し前に『第二阿房列車』も読み切ったところだけれど、ここのところまた『第一阿房列車』も引っ張り出して読み直し改めて面白いと思っているので、書いておく

書きながら思い出す

京都市の今宮通りという通り(地下鉄北大路駅の北側の通り)は地元の方から六間(ろっけん)と呼ばれている

道が六間の幅(10・9メートル)なので“ろっけん”

――私に製パン技術や製菓技術があるならば、この道沿いでパン屋さんかお菓子屋さんをやり、何の変哲も無いロールケーキやなんかを『ろっけんろうる』『ロッケンロール』なんて言って売り出すわよ

お寿司屋さんも良いかしら

もうあるのだったらごめんなさい――

冗談はさておき、百間川と言うのはこの道の15~6倍の幅があると言うことか

想像し、楽しむために、また見に行こう

あ、百間川ではなくて北大路駅の北側の今宮通りをです

岡山や尾道も、また行きたいけれど





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