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第2問。

数学夏祭り第2問

図形の問題だ。

(ちなみに動画では、「問題の意味はわかった!」とか言っている、「内分」と「外分」を間違えている。外分なんて言葉、何年も使ってない)


とりあえず図形は書いたが、なんかもうこの時点で「うわーっ、ムリー!」と思ってしまう。

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この「ムリー!」は学生時代、特に数学ではつきあう必要のある感覚で、扱いを慎重にする必要がある。

ムリ!の例をあげる。


高尾山を前に高校生が「あ、ムリムリムリ。あたしそういうのムリだから」

不可能なわけではない。歩いて進むことはできる。やりたくないとか、途中で根性が尽きそうということだ。


素人が朝倉未来と対戦することになった。「え、ムリでしょ・・」

これも、やれなくはない。だがガチでやるのは無謀だろう。


課題に挑みたい場合は

1 「ムリー!」と諦めない

2 「ムリー!」と割り切る

これ、両方大事であるのだ。


1について。

なんとなく問題に圧倒されて「ムリ!」となってしまう場合、答えがあるとすぐに見てしまって、それで判った気になってしまったりする。

以後、この繰り返し。こういう人はいつまでたっても難しい問題が解けるようにはならない。もしかしたら苦手にしている人生の問題も解けないかもしれない。


昔私はこれでも、『大学への数学』の学力コンテストに毎月応募していた。難問を前に「ああ、今月は解答はムリかもしれない」と、毎回思ったものだ。「今月こそは絶望だ」と思った。

だが、なんだかんだ大きくは外さず期限内に解答し、ミスによる多少の減点を食らう程度で添削結果の封筒をコンプリート、通称『12枚のお守り』を手に入れた。


数学の難問は、言ってみれば怪物のようなものだ。食らいつくことが大事なのだ。解決の糸口をどこかに見つけ少しずつときほぐしていけたり、とにかくやってみると見えてくるものがあったり。


そもそも怪物の正体が見えていないことが多い。大まかにでも方針が見える問題はミスのないように突き進むだけで良いが、攻略法も見えないものを相手にしては頓死する。自分の持っている武器(数学の公式や解法など)を見直す作業と、問題自体の捉え方を探る作業をする。

その果てに


「あれ?この怪物を倒すって、要するに強烈な一打を加えるための力を貯めまで、どう耐えきるかっていう勝負じゃない?」


とか


「妻の機嫌の悪いときのあしらいかたってドッチボールと同じで、逃げるべき剛球とキャッチすべきゆるい玉とを見分けて対処すれば、なんとか生き残れるんじゃない?」


といった視点とか見通しとか悟りを得られるのである。



ところがこの次の勉強をする上での落とし穴、「食らいつきすぎてしまう」という問題があるのである。

そこで

2 「ムリー!」と割り切る

がある。


今回の問題については、そもそも外心とはなにかも覚えていなかった。

「外心?え?三角の外に中心があるの?じゃあ3つくらい必要なんじゃない?」

とかめちゃくちゃなことを思っておった。これじゃあ解けるわけがないよね。


問題解決には、そもそもそれを解く能力、技術、道具といった、実際に解く以前のお膳立てが必要だ。さらに解くにあたっては、体力・持久力、モチベーション・全体の見通しと力配分・計算力とそれ以上にミスに気づく力やミスしない工夫、といったものが必要になる。

『心技体』とはよく武道では言われるが、数学やあらゆる問題解決も、同じことが言える。


簡単に解ける問題ばかりをやって、できない自分を見るのを避けても成長はないが、難しすぎる問題に挑むのも危険だ。

まず、時間を浪費する。パズルを解くことが好きだというならそれでもいい。数学科の者なら、難問にいくらでもかけるだろう。

だが数学の能力を上げるつもりなら、それではいけないわけではないが、効率は悪すぎる。


次の欠点は、難しい問題だと、解けなくても自分に言いわけができることだ。早々に行き詰まれば、実は努力も少ない。


例えば私は昨日、腕立て伏せをした。アプリを使っているのだが、71回を、それも寝る前だったから一度にやりきらなければならない。これは難題だ。普段は1日分を3回に分けてやっている。

いつもなら一度に23回か24回はやる。だから最低でも24回はできる、少なくともそれ以上ではあろう、と予測された。

ところが結果は、20回ほどで力尽きたのだ!

なのに頭の中では

「71回はさすがにムリだったか。しかたないよな」

と思っているのである。「20回しかできなかった」ではなく。


他人ではあるが、こんな例も出しておこう。

寄付を募って無酸素でエベレスト登頂に挑みつづけ、亡くなった人がいた。彼は素人であったので、本当に難易度が高い山は、もっとずっと低いものであったはずだ。だがプライドが「エベレスト登頂に失敗」という結果しか許さなかったのだろう。奇跡の登頂成功を期待した人もいるかもしれないが、プロ登山家に言わせると、絶対に無理なレベルであったという。


自分の今の能力を低く見積もる必要はもちろんないが、限界はきっちり見極めたほうがいい。数学で必要な道具はほぼタダで手に入る(理解できなくてはならないので、能力か良い教師・良い動画に恵まれる必要はある)。道具を手に入いれるだけではだめで、手に馴染むまで使う必要がある。語学を覚えるように、数学語を使い、応用する。そこに成長がある。


「ムリ」についての2つの落とし穴について述べた。最後に、これらが融合する落とし穴を語って終わろう。それは

高尾山のように見えるエベレストがある

ということだ。

数学界の難問と言えばリーマン予想というのがあるが、それに挑むにはゼータ関数とはなにかを理解する必要があるので、「よし今から解いてみせよう」と思う中学生はいないだろう(「将来解けるようになりたい」ならもちろんいるだろう)。

だが、そんな「見るからにエベレスト」な問題とは違う問題がある。入口が緩いのである。

「あれ?この山って、お年寄りがハイキングするにもちょうどいいんじゃない?」

くらいに思ってしまう。尾根はなんとなく手に届くところにありそうである。

ところがそれが途中から絶壁に変わるのだ。しかも頂上までの道のりといったらハンパなく長い。もうアマチュアからプロまで何人もが命を落としている恐怖の山なのである。

数学で命を落とすことはないって?いや、本当に落としている。一生をたった一問に捧げ、解けぬまま死んでいるからである。

「すべての地図は四色で塗れる」ということを証明する四色問題、意味なら中学生でも分かるフェルマーの定理。これらがその手の問題であった。私もまた「よし、俺こそが」と思ったものである。

人を悪魔の道に誘う売人のようなこの両問は、一方はコンピューターにより、一方は高名な数学者によって解決された。それでも有名未解決問題はまだまだあるし、これからも作られるだろう。

世の中の問題も同様である。問題の難しさと己の能力の程度を見極め、必要な準備・体力を身に着けることが重要だ。


ということで、私には「問題が解けない!」という動画を作るくらいが今のところ適切なのである。それだって祭りの楽しみかたのひとつじゃないか。


#数学夏祭り






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