福祉と援助の備忘録(30) 『看護理論』
(Tome館長の写真・イラストにはよくお世話になっているが、まさかこのテーマでも写真があるとは)
私は病院で事例検討の準備のための勉強会を担当している。看護師さんが対象なので看護師さんの使う言葉でケースを語る必要があろう、と考えた。いやいっそ担当を看護長とかに任せたほうがよいのではないかと思うのだが、「だれも喋りたがらなくて…」ということで回ってきたらしい。喋るのが好きな人が、にわかに「看護理論」なるものを学んでいる次第である。
「看護理論」とは、「看護実践」とセットになっているものらしい。
「看護実践」は「看護師さんのやっていること」とだれもがなんなくイメージできる。いっぽう「看護理論」については一般にあまりなじみがなく、知っている人でも「看護師独特の、なんかわけのわからん考えかた」ぐらいに思っているかもしれない。ある文化の思想を、よそ者は遠目に見る。
だがじつは存外に役立つものかもしれない。
でも、看護師でない者にそう簡単にわかるものなのか。知ったようなことを言ったら痛い目にあうんじゃないかねえ・・
そこで前回の勉強会では、とりあえず看護理論について看護師さんたちに話をふってみた。
「じゃあ看護理論家山手線ゲームをしましょうか。じゃあ僕から。ヘンダーソン! パン、パン」
シーンとしてしまった。
え? ひとつも出て来ないの? ナイチンゲールさえ出てこなかった。看護師さんってそういうことばっかり研修をして、研究もしているもんだと思っていたのだが。
「アギュララ」とか言われたらこっちもビビるるけれど、トラベルビー は? ペプロウは? どこのブックオフに行っても『オレム 看護論』とか売ってるのはみんな読んだからなんじゃないの?
そっちに話を寄せようと思って話したんだけどなんで俺のほうが詳しいの?
・・失敗だ。あげてもらった理論についてなんか喋ってもらおうと思ったんだけど、目論見は大きくはずれてしまった。少なくとも今いる施設では、特定の看護理論も看護診断も銘打っては使われていないし、そういうことは強く意識しなくても仕事にはまったくさしつかえないようだ。
あれ? でも自分が私的に関わってきた看護師たちは、理論の話ばかりしていたぞ? ああ、そういえば研究者ばかりだったか。看護理論とは机上の空論なのか。うーむ・・・
ならば「看護師が仕事をする上で、特定の看護理論を使う必要はない」と仮定してみよう。そもそも看護理論って多すぎる。だからだれかの名を冠した理論の話はしないというだけで、それは理論がないということではないのかもしれない。名もなき理論、精神科医の「支持的精神療法」みたいなものがあるのかもしれない。
ここでふと浮かんでしまったのが「『看護理論』『看護実践」とか言う前に、そもそも『看護師』ってなんだ?」という問いである。「看護」という言葉は、なんか人に寄り添って世話をするってことだろうとはわかる。でも「診療補助」もある。「オオクニヌシノミコトのしたことが最初の看護です」なんて言われても煙に巻かれる。
そういや学生の頃学んだが、看護という仕事のそもそもを問うのって社会学の領域じゃないか? あー、思い出してきた。イヴァン・イリイチのシャドウワークとかあったわ。看護は医療の中のシャドウワークか。だから看護師は大変だって話があったか。
じゃあ看護理論から看護師に接近しようという試みは「主婦を理解するために、主婦理論を勉強します。なんかいい本ないですか?」と言っているようなものであったか。テニスの好きな子に近づこうとして、テニスの歴史を勉強していくってくらいにピントがずれていたか。
・・うーん、でも看護理論、学べば学ぶほど面白いんだけれど。よくできているんだけれど。
ナイチンゲールは看護理論を、「実践に支えられている限り有効だが実践を伴わなければ看護師に破滅をもたらす」と言った。
看護理論を学べば、看護の国の日常看護語会話ができてコミュニケーションが可能になって理解しあえると思ったのだが。なんたる無意味! 現場の看護は、そんなに理論理論していないんだ。
理論は語られずとも看護はそこあるのであった。
Ver 1.0 2024/4/10
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