「チュニジアより愛をこめて」 第15話
その後、私はナブールまで足を伸ばした。そこは何あろう、あの彼の出身地だった。
今この街のどこかに彼はいる。この街のどこかに昔からある彼の実家に……。私は少し緊張していた。歩いていて彼に出くわしたらどうしよう。そんなことを思いながら、スースの市場で買った大きめの麦わら帽子を目深に被って、顔を隠すようにして歩いた。
ナブールは、こぢんまりした地方都市で、色とりどりの、私にとっては玩具箱のような印象の街だった。というのも、ここはオレンジの産地として有名で、更に陶器の街という魅力的な特性も持っていた。そういうわけで、中央広場の真ん中には、陶器でできたオレンジの巨大なオブジェが聳え立っている。それは最初、何だかハリボテのように思えた。けれどそのゴテゴテした、有無を言わさず賑やかで明るい装飾を見ている内に、何だか常に笑いかけられているようで、いつの間にかすっかり気に入ってしまった。私はオブジェの写真を沢山撮った。
この街は海にも面していて、小さいながらに海水浴のできるビーチもあった。もし彼と一緒になっていたら、今頃ここに暮らしていたのかもしれないと思うと、現実から遊離するような、不思議な気持ちになった。
――小さな町中を歩いて様々なところを巡っていると、段々と、あらゆるところに彼の残像が見えるような気がしてきた。彼に出くわすことを恐れていたはずなのに、いつしか無意識に、私は彼の姿を探していた。この街にもある小ぶりなスークの店先に、曲がり角を曲がった先の狭い路地にあるブーゲンビリアの垂れ下がった白壁の家の前に、彼に良く似た若い男の姿を見たような気がした。けれどそれは全て、あの頃の彼に似たところのあるチュニジアの若者だった。
私はまだ彼のことを忘れ去れない自分がいることに気づいた。
喉を潤したくて、とあるカフェに入った。あまり人気のない店で、人々は午睡にでも入っているのだろうか、その時の客は私しかいなかった。
カウンターの奥に、若い男性が腰をかがめて作業していた。彼は私に気づくと、物珍しそうな目で見て、背中を真っ直ぐに伸ばしながら立ち上がった。また〝チュニジアン・ルック〟?
凝視してくる青年に、私は気まずいような気分になって、思わず引き返しそうになった。けれど、ちょうどその時彼が声をかけてきた。
「お一人ですか? どうぞ」
愛想のいい笑顔になって、カウンター席を手で指した彼は、いかにもチュニジア人といった風貌をしていた。ナブール出身のあの彼が、ちょっとチュニジア人らしくない外見だったのに比べて(彼は色白で、イタリア人のような風貌をしていた)、この若者はチュニジア人の典型的な見た目を伝えることができそうな容姿を備えていた。浅黒い色の肌に、大きな卵のような、バランスのいい丸い縦長の顔。ちょっとエジプトの壁画を思わせる、横に広くて大きな目の真ん中に光る黒い瞳。多くのチュニジア人男性に見られる、極短のパンチパーマのような巻き毛を耳の後ろぐらいまで短く刈り上げた特徴的な髪型をしていた。それは何だか、けし坊主を思い起こさせた。
彼の名は、ラヴィアといった。今の若者達の流行の名前なのだろうか、ハムザさん達とは明らかに別の世代の名前だった。彼はチュニジア人の若者にしては珍しく、物静かで、その佇まいは少し陰を含んでいるように見えた。けれど言いようによっては躾の良い家庭で育てられたような品の良さがあるとも言えた。ぶしつけな質問はせず、にこやかに感じ良くカウンターの上にメニューを差し出し、うちはコーヒーがお勧めだと言った。
彼の自慢のコーヒーを入れてもらっている間、私は店の中を見回した。海からそれほど遠くない通りに面して大きなウィンドウを設けていて、通りを歩く人からすぐ目につくようになっていた。けれどカウンターは縦に長い店の奥まったところにあるので、少し薄暗く、座っていて落ち着いた。これも演出なのだろう、天井からは様々な色のガラスを組み合わせた繊細な装飾のランプが幾つも下がっていて、それぞれの優しい灯りをカウンターの上に落としていた。
悪くない店に入ったな、と思っていると、薫り高いコーヒーがそっと差し出された。ラヴィアは中肉中背で、年齢というと、二十代の半ばか後半、といったところだった。
「日本人でしょう?」
彼は私を見て言った。見た目ですぐにわかるという。
「ええ。私も多分、これからはチュニジア人をすぐに見分けられるようになると思います」
私が言うと、ええ、と意外そうに声を上げて彼は笑った。
「どういう意味でしょう?」
「あなたが、いかにもチュニジア人って様子をしてるから」
彼は一瞬、嬉しそうに微笑んだ。彼が母国と民族を誇りにしているのがわかった。
「父と母と僕は、そっくりなんです」
「お父様とお母様も? それは変わってるわね」
私が面食らって言うと、自慢するようにこちらを見つめて、
「僕の父と母は、いとこ同士だから」
と言った。
なるほど、いとこ婚は日本でも法律で認められた婚姻形態の一つだ。けれど血が濃くなるというので、あまり大っぴらには歓迎されない風潮がある。そのことを話すと、彼は肩をすくめて、
「日本とチュニジアは全く違いますね。この国ではいとこ同士で結婚するのは、ごくごく普通のことですよ」
と言った。
いとこに限らず、多くの婚姻は親戚同士で組まれるのだという。勿論現代では、男女の出会いの場が昔に比べて格段に増えているし、外国人と結婚する人も多くなっている。けれどチュニスなどの都会ならいざ知らず、田舎の方ではまだまだいとこ婚の方が推奨されているくらいだ、とラヴィアは言った。
「でもその方が幸せだと思います。僕の叔母は……、父の妹に当たる人だけど、恋愛をして、県外の親類でない家に嫁いだもので、そこの一族に歓迎されませんでした。今でも時々戻って来ては愚痴を言います。苦労してる。気の毒ですよ」
帰りがけに、ラヴィアはちょっと待って、と言って、店の奥にとって返すと、美しい民族衣装を手にして戻って来た。それは、ジェッバと呼ばれる古くからの伝統的な衣服で、チュニジアの海を思わせる青い肌触りのいい生地でできていた。丈の長いチュニックのような造りで、裾と袖口を金色の刺繍で止めてあり、V字にすっきりと開いた胸元にも金色と黄色の繊細な刺繍が施されている。
「今日の出会いの記念に。あなたにあげます。日本に持って帰って下さい」
白目の綺麗な、透き通った眼差しで彼は言った。
――翌朝、ホテルで目覚めた私は、ラヴィアのくれたジェッバを身につけた。それは軽く肌に馴染んで、柔らかかった。私はその姿のまま外に出た。
小規模なスークの石門をくぐり、商店が軒を連ねる繁華街を歩いた。私は衣料品を売る店に立ち寄り、地元の女性が被っているようなヒジャブを一枚買った。綺麗な深いブルー、チュニジアの青色をしたヒジャブだった。
この街では、比較的若い年代の女性はヒジャブを被っていないようだった。ファッションも人それぞれで、コンサバティブな考え方の女性はヒジャブを被っていたが、Tシャツにジーンズ姿で髪の毛を晒している女性も多かった。
そんな中で、東洋人の顔をした私がヒジャブを被りジェッバを着て歩いているのは、いかにも奇妙な感じに映っただろう。けれど自分の内側では、私はチュニジア人になったような気分でいた。耳まで塞ぐ布は、歩く度に外界の音を少し違った響きで伝えた。ジェッバのゆったりした着心地が、心を開放的にさせてくれるようだった。
そして、いつしか私は、この街のどこかにいるはずの彼の姿を探し求めていた。繁華街をゆっくりと歩き、車が行き交う大通りを歩いた。
人々は、怪訝そうな、又は好奇心にかられたような目で遠慮のない視線を送ってきたが、そのどれも彼の目ではなかった。
私は彼を探して、一日中ナブールの街を歩いた。私はここにいる。見つけてよ。そんな言葉を小さな声で呟きながら。
――彼の姿はどこにもなかった。