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「パリに暮らして」 第14話
――「流石に冷えてきたね」
柊二さんが言った。
葡萄畑の斜面を吹き上がってくる風は、今や耐えられないほど冷たくなっていた。抱き合っていてもガクガク震え始めた体をいったん離し、私達は連れ立って部屋の中へ入った。ベッド脇のサイドテーブルの上にある置き時計は、午前二時を指していた。
私達は、ショールをベッドの上にかけて、掛け布団の中に潜り込んだ。軽い、上質な羽毛布団が有り難かった。それはぴったりと重なり合った私と柊二さんの体を優しく包み込み、二人の体温を保って、芯まで冷え切った体を徐々に温めてくれた。
私達は、意識を失うように眠りに落ちた。
翌朝、遅くなってから私達は目覚めた。サイドテーブルの時計は十時半を指していた。
「起きれそう、柊二さん?」
背中を向けた格好でモゾモゾと動いている柊二さんは、
「ん、ああ……」
と気のない返事をした。その声は、おそろしくしゃがれていた。
私達は、申し合わせたように風邪をひいた。柊二さんは喉をやられ、私は何も考えられなくなるほどの頭痛と、ひっきりなしに襲ってくる悪寒に苛まれた。それでも遅い朝食に下りて行くと、レストランでは快く対応してくれた。
柊二さんは熱いカフェ・オ・レと一緒にクロワッサンを食べ、私はスペシャル・メニューのポタージュスープを飲んだ。フェンネルの根をつぶしてブイヨンと生クリームを混ぜた、美味しいポタージュだった。それは薬草のように体に効いて、私はいっとき頭痛と悪寒を忘れることができた。
チェックアウトをしに受付に行った時、宿の主が居合わせて言った。
「昨日のご夫妻がよろしくとおっしゃってましたよ。夕べは楽しかったって」
夫妻は少し前に出発したそうだ。上機嫌だったらしい。
「いい人達だったね」
私は言った。満足に声が出せない柊二さんは、代わりに私の首を撫でながら微笑んで頷いた。
帰りは大変だった。ほうほうの体で柊二さんは運転し、ボルドー駅の近くでレンタカーを返すと、私達はやっとの思いで駅まで辿り着き、TGVに乗った。
途中薬局に寄って買った薬を飲むと、私はすぐに眠くなった。いかなる例にも漏れず、外国の薬は強い。おかげでTGVがモンパルナスの駅に着くまでの二時間半、私は一瞬も起きていることができなかった。首にマフラーをしっかりと巻き、道中十個もの喉飴を舐めて養生した柊二さんがパリに着いたと起こしてくれた時も、私はまだ朦朧としていた。
二人ともまともに歩ける状態ではなかったので、モンパルナス駅からタクシーで柊二さんのアパルトマンに帰った。着いた早々、取るものも取りあえず私はベッドに倒れ込んだ。柊二さんもそれに続いた。
ボルドーの夜気は相当厳しくしつこかったようだ。私達は二人とも高熱を出した。その日は一日中、夜になっても熱は下がらず、私達はうんうん唸りながらベッドの中でのたうち回った。時折、動ける方が台所に行って、冷蔵庫から水やジュースを取って来た。這うようにしてトイレに行く以外は、私達は本当に一歩もベッドから出られなかった。
――次の朝、ようやく空が明るみ出した頃になって、私はふと目を開けることができた。体がずいぶん軽くなっているように感じられた。
寝室を出て居間の方に行った。パリの夜明けの空気は冷んやりしていたが、熱っぽさの残る病み上がりの体には程よく心地良かった。
私は台所に行って、冷蔵庫から有り合わせの野菜を出して皮を剥き、鍋に入れて水から煮始めた。人参とジャガイモのスープを作ろうと思った。野菜が柔らかくなるまで茹でている間、バスルームに行ってシャワーを浴びた。熱の源をこそぎ落とすかのように、私は丁寧に体を洗った。
シャワーから出ると、柊二さんが起きて来た。おはよう、と私は言った。やあ、と言った柊二さんの声はまだかすれていた。ははっ、と、私達は二人で笑った。
柊二さんがシャワーに入っている間に、私は柔らかく煮上がったジャガイモと人参をマッシャーでつぶしていった。荒くつぶしておいてから、チキンブイヨンを注いで弱火にかけた。そして温めながら、今度は電動のハンディミキサーを使って、鍋の中身が飛び散らないように慎重に野菜を細かくしていった。すっかりきめ細やかなスープ状になると、味を見ながら塩と胡椒で仕上げの味つけをした。
柊二さんがシャワーから出てくると、私達は台所のテーブルに座って、できたての暖かいスープを飲んだ。丸一昼夜何も食べていなかった体は、まるで砂が水を吸い込むように、ぐんぐんスープを吸収していった。
ふと、向かい合わせに座っている柊二さんと目が合った。私達は、何とはなしに笑い合った。それは何か、お尻の方からむずがゆくなって、お腹の底を蹴って駆け上がってくるような笑いだった。ふふ、と声が漏れ、柊二さんの喉がだいぶ回復してきているのがわかった。
私はテーブルに頬杖をついて、柊二さんを眺めた。今は何だろう、わけもないけれど、とても幸せな感じがした。二人してボルドーの高熱から無事に生還を果たした戦友のような意識からだろうか、それともボルドーのワイナリーで互いの個人的な秘密を明かし合ったせいで、今までよりいっそう柊二さんを身近に感じるようになったということだろうか。
私達は、見つめ合ったまま、さっき起こった笑いの余韻のままに、微笑みを分かち合っていた。頬杖をついたまま見つめる私の目のなかで、柊二さんの姿は不思議にどんどん柔らかくデフォルメされていくようだった。その内、ついと柊二さんの手が伸びてきて、テーブルの上に無造作に置いた私のもう片方の手に重なった。
「ソファに行って、陽に当たろうよ」
柊二さんは言うと、立ち上がって、私の手を握ったまま、居間の方誘った。体の芯にまだ熱が残っているように感じられ、まだ少しふらふらした歩きだったが、お互いの掌の熱さを、お互いに伝え合っているような親密さを感じた。
私達は、居間の真ん中に置かれているどっしりとしたソファに身を沈めた。秋晴れの朝の|清々しい光が、背後の窓から射し込んでいた。
柊二さんは、まだ私の手を握ったままだった。まるで幼子が、熱が下がったあとでも母親の存在を確かめていたくて手を握り続けているような感じで、歩いていた時よりも力が入っていた。私はそんな柊二さんを愛おしく感じて、より近くに感じる為に、その肩に頭をもたせかけた。
私達はそのまましばらく何も言わず、じっとしていた。アパートの中は物音ひとつせず、沈黙の気配だけが静かにたゆとうていた。遠くで、パリの街が発する大都会の喧噪がうねりのように聞こえる気がした。
不意に、私の体に静かな異変が起こった。今隣にいる、確かに存在している男の生身を異常なほど欲する、今まで生きてきて体験したことのない奇妙な欲求だった。それは、どこかわからない私の体の芯の、いまだ探索されたことのない領域から突然突き出てきて、私を驚かせた。
目がぱっちりと開き、同時に体中の毛穴が開いたような気がした。でも柊二さんは、まだ私の異変には気づいていなかった。目を半眼に開いて、居間から台所の方へ気怠そうな視線を投げ、シンクの上の小窓から見える木々の梢の緑をぼんやりと見ている。
私はできるだけゆっくりと、柊二さんを驚かせないように、それでもギリギリの焦燥感を覚えながら、体を移動させていった。
柊二さんは敏感に、私の僅かな動きに気づいて、握っていた手を離し、それを私の背中に回した。体の芯に残っている熱が、今私に力を与えているかのように、体中の組織に、器官に広がっていって、腕を、脚を、自分でも驚くほど素直に、欲求のままに動かすのだった。
私は柊二さんの膝の上に跨がった。そこからは柊二さんの顔を正面から見下ろすことができた。私の目は、ただ真っ直ぐに、彼の瞳の奥を覗き込んだ。
その時私は、情熱的な目をしていたに違いない。柊二さんはすぐに反応を示した。私は屈んでいって、彼のコットン・セーターの裾をたくし上げた。柊二さんの腹部と胸が露わになる。私はその胸に顔を押しつけ、匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
柊二さんの体の、香水と体臭が混じり合った匂いが、私は好きだった。シャワーを浴びたばかりで、いつもよりわかりにくくなっているけれど、それでも柊二さんだけの、あの独特な肌の匂いを放っていた。
私はこの匂いを、最初から気に入っていたのかもしれない。こんなに身も心も遠慮なく欲していい、あまつさえ相手も同じだけ自分を欲しているという感覚は、生まれて初めてだった。まるで、身体の一部を分け合って生まれてきたかのような、濃厚な親密さが、私達の間には生まれつつあった。
私はある旋律に身を任せるかのように、柊二さんの体を求め、まさぐった。柊二さんも今では完全に、同じ旋律に乗って、やはり私の体を宥めるように、優しくゆっくり撫でていた。
ひと呼吸ごとに、アパルトマンの中の空気が濃厚になっていくのがわかった。私達の吐息と肌のこすれ合う音、あとは微かな衣擦れの音以外、その部屋には存在しなかった。
柊二さんはソファに座ったまま、私を膝に乗せたまま、唇を求め、激しく吸った。背筋を駆け巡る興奮に、今度も私はまた気が狂いそうな焦燥を覚えた。着衣というものをこんなにももどかしく、呪わしくさえ思ったことは、これまでに一度もなかった。
目を閉じて、無我夢中の陶酔のなかで、柊二さんの上に座ったまま、私は柊二さんを受け入れた。柔らかな律動が始まって、優しく、気遠く、永遠へと続くかのようなあの時を目指して、私を運び去っていくのだった。私は全身が汗ばむのを感じた。うっすらと意識が戻って力なく眼を開きながら柊二さんの顔を見ると、その顔もまた、私と同じ陶酔の輪の中にいるのだった。私はこんなにも色気を纏った男の顔を見たことがなかった。そしてそれが、ますます私の欲情を煽り立てた。柊二さんは私の太股の付け根を掴んで自在に操ったが、私の体は彼の要求するどんな動きにも柔軟に応えるのだった。
一気に坂道を駆け上っていくように、目には見えないけれど確実なある頂点まで達しそうになっていた時、まさにその時だった。
――一匹の猫が、アパルトマンの窓枠に飛び乗った。猫は、どこから現れたのか、まるで今の今までこの瞬間を待っていたかのように、私の視界に飛び込んできた。散歩の途中なのだろう、三階の部屋の窓枠に、いかにも身軽に、そのしなやかな体をひょいと持ち上げ、物見高そうな表情で部屋の中を覗き込んだ。
猫はちょうど私の視線の先にいた。ソファに座っている柊二さんには見えないけれど、柊二さんに対面して座っている私は、猫とまともに向かい合う形になった。
青く晴れた空を背景にして、猫はその艶やかに透き通った甘露飴のような眼をじっと私に合わせてきた。大きな体をした立派なシャルトリュー種で、暗灰色の毛並みが陽を受けて青っぽく輝いて、とても美しかった。
何も語らない、観察者のような眼でその時猫は、何を思っていたのだろう。私達の性愛の、誰も気に留めることのない、このパリの小さなアパルトマンでの出来事の、たったひとりの証人に、この猫がなってくれたような気がした。
その間も、私達のしめやかな動きは続いていて、しかも、その最終局面を迎えようとしていた。柊二さんも汗ばんできて、その色気に彩られた喉もとから、言葉にならない声が絞り出された。
――最後の瞬間を迎えた時、その刹那、猫がこう言った。
アタシの記憶はそんなに長く残らないか
ら、安心していてもいい
でも、全く人間は何で年がら年じゅう、
こんなことをやってなきゃ
ならないんだろうね?
でもいいかい、ただ、
これだけは覚えておくんだ
アタシの眼に映ったってことは、
この瞬間は、パリの記憶に残る
パリの記憶に残るってことはね、
つまり、ここに、この街の歴史に、
永遠に固定されてしまう
ということなんだよ
――とても不思議だった。全くの、その短い刹那の間に、猫から私に向かって情報が飛び込んできたという感じだった。それは、ある意識の礫を猫が放り投げて、それを私が受け取り、あとでゆっくりと手紙を開くように、わかってきたことのような気もされた。そしてそれだけに、猫が残したその印象は、深く私に沁みるのだった。
柊二さんの上から降りて、再び窓の方を見ると、もう猫はいなかった。
私はたった今の出来事を、柊二さんに言いあぐねていた。