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「パリに暮らして」 第9話

 ワイナリーツアーには、柊二さんと私の他に、フランス人の年配の夫婦が参加していた。夫は総白髪で、ふさふさした白い眉毛の下に隠れたような、縁無しの眼鏡をかけていた。妻は彼より少し若そうに見えたが、美しい金色の髪を上品にセットして、滑らかな艶を放つライトブラウンの皮のコートを着て、首に赤いスカーフを巻いていた。

 シャトーのあるじが私たちを醸造所の中へ案内した。十七世紀に建てられた修道院であったその頃から、ここでは既に修道士達によってワインが作られていたという。現在使われている醸造所は、当時のままほとんど手を加えていない、と主は説明した。
「醸造技術は進歩したので、ブドウから果汁を搾って樽や瓶に詰めるところまでは、横の工場施設で大がかりな機械を入れて、オートメーションでやっているんですけれどね、そっから先の寝かせる工程だけは、手を入れるわけにはいきません」
 薄暗い穴蔵の入口から奥へ、手慣れた様子で順繰りに灯りを点けながら主は言った。実際、樽や瓶を寝かせる為の棚をより頑丈なものに取り替えたぐらいで、電灯を設置した他は、この穴蔵は十七世紀に作られた時のそのままの状態だということだった。電気のない時代、修道士たちが燭台を片手に棚と棚の間のこの細い通路を行き来していたのだろう。じっとしていると、彼らのひそやかな足音や息遣いが聞こえてくるような気がした。

 主は私たちを醸造所の奥の方まで連れて行った。先に進むにつれ、通路は少しずつ狭くなっていった。
「穴掘り人夫が、ここら辺で疲れを見せたんでしょうなあ」
 年配の夫婦の夫の方が、そう言って笑った。明るい性格の人のようだった。妻も、私たちも笑った。ワイナリーの主は笑顔になってこう言った、
「確かに、お客様のおっしゃる通りかもしれません、実はこの辺から岩盤が急に硬くなっているんですよ。記録にあるんですが、この修道院では穴掘り人夫は雇わずに、若い修道士に醸造所の穴を掘らせていたようなんですね。若者達ですから、ついサボり癖が出たんでしょうなあ」
「あるいは、掘りながら眠っちまったとかね」
 夫が言った。彼のそのおどけた声に奥さんがぷっと吹き出し、穴蔵に私たちの笑い声が響いた。
「昔の修道士たちの、そんな人間臭いところを想像できるとはね。いや楽しい」
 流暢りゅうちょうなフランス語で、柊二さんが言った。穴蔵の中の空気が少しなごんだ。
 
 
 いい雰囲気になってきたところで、ワイナリーの主が明るい声で言った。
「一番奥にあるこの棚には、うちのワイナリーで最も古いワインが貯蔵されています。さて、ここでクイズです。この最も歴史あるワイン、一体何年前のものだと思いますか?」
 主は茶目っ気たっぷりに、シンキングタイムだと言って、はやし立てるような歌を歌いながら、小刻みなステップを踏み始めた。うーん、と、我々は首をひねって考え込んだ。
「さあ、どうでしょう? 正解した方には、とっておきのプレゼントをご用意させていただいてますよ」
 踊り続けながら主は言った。
「先に答えて正解した方の勝ちです、さあさ、勇気を出して言ってみましょう」
 主の底抜けに明るい声が、狭い穴蔵のなかにこだました。
 私たちの前の棚に、こちら側にコルクの栓を向けて伏臥おうがしているいくつかの瓶は、ほこりちりに覆われて、ただ、とても古いものであることだけはわかった。けれど、何十年前のものなのか、あるいは何百年も前の代物だったとしても、私たちには判別できるはずもなかった。
 それでも主の賑やかな囃し声にあおられて、しまいには降参するように柊二さんが言った。
「よし、僕はこう言おう。このワインは、せいぜい五十年前のものだね。それでも十分すごいと思うけれど」
 そして、照れ臭そうに笑った。ワイナリーの主は、目を見開き、口を広げておどけた顔をしながらよりいっそう激しく歌と踊りを続けるのだった。それを見て、根負けしたように、老夫婦の夫の方がこう言った。
「それでは私はこう言おう、このワインは、修道院ができたときに初めて作られたものだ。それ以来、封を切られずにずっとここにある。つまり四百年ものだね」
 途端にワイナリーの主の歌が止んだ。休むことなく動かされていた手の動きも、足のステップも止まった。呆気にとられたように、その顔には、虚を突かれたような空白が浮かんでいた。
「正解です」
「えっ」
 老夫婦の夫は驚いた。
「まさか。冗談のつもりで言ったのに」
「ところが、正解なんです。ムッシュウ、あなたの言う通り、ここにあるワインは、以前ここに修道院が建ったばかりの時に、その年の初摘みのブドウを使って初めてそこで作られたものだそうです。書庫があって全ての記録が残されていましてね、歴史的価値があるので当ワイナリーでは大切に保管しているのですが。その記録によると、このワインが仕込まれたのは、一六七四年。つまり、正確には三四一年の時を経ていることになります」
 得意気な顔で、主はひと息に説明した。どうやらこのことがこのワイナリーツアーの一番の見せ場らしかった。彼は更に続けた。
「私は毎回ツアーに来られるお客様に同じクイズをお出しするのですが、本当に当てられたのは今日が初めてです。いや、素晴らしい。ではお約束した通り、今夜お夕食の時に、とっておきのプレゼントを差し上げますので、どうぞお楽しみに」

 醸造所を見て回った後、ツアーの終わりに、私たち全員にワインが振る舞われた。貯蔵庫であるあの穴蔵を出たところにピクニックテーブルが置かれてあり、赤と白の格子柄のテーブルクロスの上にグラスが並べられ、チーズとパンやクラッカー、それに少しのフルーツが用意されていた。
「さあさあ、どうぞ。椅子におかけ下さい」
 穴蔵の中から何本ものボトルを運んで来ながら、主が言った。白、赤、それにロゼワインがそれぞれ二種類ずつあった。
「ここでは、ブドウの品種が多いのが自慢なんですよ。古来種と新種を掛け合わせたり、色々実験的なこともやっています」
 私たちは、それぞれ好みの順番に、グラスに少しずつ全てのワインを飲んだ。私は最初に二種類の白を飲んで、次により色の薄い方のロゼを一種類、それからワイナリーの主が先に試した方がいいと勧めてくれた赤をひと口飲んだ。その後、山羊のチーズをパンにつけて食べ、それからより濃い色のロゼを味見して、最後に最もコクのあるタンニンの効いた赤を飲んだ。
 ワインはどれも素晴らしかった。爽やかでキリッと冷えた辛口の白からフルーティーな薫りの立つ白へ、、それからロゼへと段階を踏んで深くしていったおかげで、ボルドーの醍醐味である深くて濃く、渋みの立ったたくましい赤ワインを十分堪能することができた。ワインと供に味わう幾種類ものチーズも、全てこの近郊で作られたもので、フレッシュな味わいと生産者の丁寧な手仕事が生み出した格別な風味と塩味とが、ワインと一緒に口に含んだ時に、得も言われぬ美味しさを広げるのだった。夕食がお腹に入るのだろうかという心配のことなどすっかり忘れ去って、我々は舌鼓したつづみを打ち続けた。 
 


 「……に誘われたんだけど、どうする? 行くかい?」
 柊二さんがこう言った時、私は部屋のベッドで横になり、ウトウトしていた。ワインの酔いが後から押し寄せてきて、うっとりと夢うつつの状態だった。
「えっ? 誰に誘われたって?」
 私は目を閉じたまま言った。
「さっきワイナリーツアーで会ったご夫婦だよ。できれば夕食を一緒にして、クイズの賞品を分かち合いたいって」
「まあ、そうなの」
 私は答えた。正直、今はまだ夕食のことなど考えたくもなかった。美味しさにまかせて後先考えずに口に放り込んだチーズがちょうど今、胃の中でもったりと手足を広げて居座りを始めたところだったから。でも、折角親切に言ってくれたのだ、それには応えないと、と思った。それに、柊二さんと二人で長い時間顔を合わせないで済むというのも好都合に思えた。ここでもまだ私は柊二さんと一対一で向き合うことを避けようとしていた。
「そうね、いいわ。夕食は何時からなの?」
「七時からだと言うんだが……。八時にしてもらおうと思ってる。君はまだまだ起き上がれそうにないし、実を言うと僕もちょっとね。ツアーの時に調子に乗って飲み過ぎてしまったんだな」
「それ、いい考えだと思う」
 私は言った。
 柊二さんは老夫婦の部屋へ行き、話をして、それから部屋に戻って来てフロントに電話をかけた。
「万事上手くいったよ。ご夫婦は全く僕たちと同じ状態。何なら十時からにでもしてもらいたいぐらいだが、それでは遅過ぎるよねと言って笑ってた。レストランの方は、問題なかった。毎回僕たちのようなリクエストをするお客は多いんだそうだよ」
「ありがとう、柊二さん」
 私は寝返りを打ってうつぶせになりながら礼を言った。
「かまわないよ。それでは、僕はちょっとシャワーを浴びてくる。それでお腹が空いてくれるといいな」
「ゆっくり浴びてね」
 浴室へ入っていく柊二さんを、私は見送った。

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