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アニメ映画『犬王』感想 時代に遺らなかった魂の声

  予想以上に尖ったアニメ作品でした。映画『犬王』感想です。
 

 将軍足利義満(声:柄本佑)が世を治める室町時代初期。京の都、猿楽の一座である比叡座に1人の子が生まれる。その子どもは、あまりの異形の姿から親を含めた周囲から虐げられ、醜い顔を隠す瓢箪の面を着けて、比叡座の猿楽の稽古を遠くに眺める日々を過ごしていた。
 一方、壇ノ浦の漁師の息子・友魚ともな(声:森山未來)は、都から来た侍に命じられて、平家と共に沈んだ神器を引き揚げたところ、神器の呪いによって父の命と、自分の眼の光を喪う。恨みを晴らすべく、上京した友魚は、琵琶法師の一座・覚一座に入り、琵琶の才を見出され、名を「友一ともいち」と改める。
 ある夜、面を取って人々を脅かしていた異形の少年は、友一と出会う。友一が弾く琵琶に合わせて、異形の少年の舞いは不思議な輝きを増していく。名を与えられなかった少年は、自らを「犬王」(声:アヴちゃん<女王蜂>)と名乗り、友一は更に名を「友有ともあり」と改め、2人を中心にした舞台を創り上げる。2人の独創的な猿楽は、新たな「平家物語」として評判となっていく…という物語。 

 古川日出男の小説『平家物語 犬王の巻』を原作として、『デビルマンCRY BABY』『ピンポン』『映像研には手を出すな!』などで知られる湯浅政明監督により劇場アニメ化された作品。
 キャラクターデザインは漫画家松本大洋さん、脚本は『アンナチュラル』『MIU404』『罪の声』で知られる野木亜紀子さん、音楽は『あまちゃん』『いだてん』などを担当した大友良英さんという、クリエイター・アベンジャーズといった面々になっております。
 
 湯浅監督の今までの作品は、現実世界を舞台にしていても、ファンタジックな演出を現実場面と織り交ぜて使うという特徴を持っていたと思います。そういうファンタジックな演出は、内面の心理描写や比喩表現なので、普通は現実の場面と切り離して使うものですが、湯浅監督は現実と比喩の区別を曖昧にしている特色があると感じていました。
 
 まず今作では冒頭で描かれている市井の人々の生活は、物凄く高いレベルのリアリティ描写となっていて、その部分に驚かされました。相当、時代考証をきちんとやっていたんじゃないかと思うんですよね。そこらの時代劇よりもよっぽどしっかりとした描写だったと思います。高畑勲監督『かぐや姫の物語』を彷彿とさせる素晴らしい映像表現です。
 
 そして、そのリアル描写を演出しておきながら、ガン無視するかの如く、湯浅監督独特の「比喩表現」の演出が爆発しているのも、本作の大きな特徴です。
 能楽のかつての呼び名だった「猿楽」ですが、今作で犬王と友有が繰り広げている舞台表現は、完全にロックミュージックを意識した表現となっています。この部分は時代考証もクソもなく、能楽の舞台表現ですらないロックムービーに仕立て上げてしまっているんですね。
 ここでポカンとなって乗れない人が出ても無理ないことかもしれませんが、これが湯浅監督独特の比喩なんですよね。つまりは犬王と友有の表現手法が、ロックスターの登場と同じように、既存にない衝撃を当時の人々に与えていたということなんだと思います。
 
 琵琶から奏でられる音色は、ジミ・ヘンドリックスのようなギター、友有の纏う遊女の着物姿はデヴィッド・ボウイ、観客の手拍子と共に大地を揺らすリズムはクイーン、そして犬王の独特のステップはマイケル・ジャクソンという具合に、冒頭の繊細な生活描写からはかなり高低差のある力技な演出が繰り広げられています。このダイナミズムが湯浅アニメの真骨頂ですが、過去作品でも一番の極端な表現になっていると思います。
 ただ、時代考証無視の力技といっても、火が灯す光を使ったスポットライトや、影絵のスクリーンなど、当時の技術でも可能な舞台装置(有るかどうかは別としても)と思わせるように落とし込んでいるところが巧みな部分ですね。
 
 数々のロックスターをオマージュ的に仕立て上げたロックムービーではあるんですが、最大のオマージュはやはり手塚治虫の漫画作品『どろろ』だと思います。
 犬王が一舞台を終えて喝采を浴びる度に、身体の異形が消えて、普通の身体を部分的に取り戻していくんですけど、これも『どろろ』の主人公・百鬼丸と近い設定ですね。
 でも、ただのパクリやオマージュというだけでなく、犬王が舞台で表現をする時に、人として欠落しているというコンプレックスが消えていくという、「比喩表現」と考えれば、物凄く説得力を増す描写になっているんですよね。数々のロックスターが、音楽表現をすることで自身の欠落部分を埋めようとしていた姿と重ねているんだと思います。
 
 友有(友魚・友一)にしても、全盲という部分を埋めるために表現の道を歩んでいると思えます。この2人が組むというのは、それこそ数々のバンドのフロントマンの関係性に近いものがあります。犬王の身体が変化していくのと、友有が名前を変えていくという点も親和性を感じさせますね。
 
 友有の森山未來さんの演技や煽り文句としての歌声も素晴らしいのですが、犬王のアヴちゃんの声の説得力が凄まじいですね。演技の才もあるというよりは、やはりフロントマンとしての才能がズバ抜けているんだと思います。犬王が持つカリスマ性は、演技だけで出せるものではなかったので、絶妙なキャスティングだったと思います。

 個人的には、この2人の関係性をもう少し掘り下げて描いても良かったかなとも感じました。舞台を描くのに時間を割いて、2人の関係性は行間を読ませる部分に止めていたように感じられました。もちろん、それでも充分に伝わるものではあったんですけど、ラストの2人が、別々の結末を迎えるという部分があっさりとしているように思えてしまいました。
 
 原作未読なので、どこまで脚本で手入れしているのか判別つきませんが、権力へのアンチという構造は、やはり野木亜紀子さんの脚本であることを強く感じさせます。表現を権力側が規制するという展開は、この時代だけでなく、いつの時代もあったことだし、現代でも起こり得ることとして描かれていると思います。
 素顔を取り戻した犬王が、将軍義満に顔を向けている場面は、結局本当の顔ではないんですよね。ここでは素顔という「能面」を着けているんだと思います。犬王にとっての素顔は、エピローグにも登場する友一と出会った時の瓢箪の面を着けた顔なのかもしれません。
 時代に遺らなかった人々の声というテーマで、『平家物語』で散っていった魂を、犬王と友有たちに重ねているのも、鎮魂の物語となっていますね。
 
 クライマックスの舞台が始まる前に、犬王は「ここが頂点」と感じているのに対して、友有は「ここからが始まり」と感じているというすれ違い、これがいかにもバンドの「音楽性の違い」ぽくて、好きな会話なんですよね。この作品は時代劇でありながら、どこまでいってもロックムービーだったと思います。

 先行して放映されていた、TVアニメ『平家物語』、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、そして現在連載中であるゆうきまさみ『新九郎、奔る!』を読めば、鎌倉~室町時代が完結するので、是非堪能しましょう。


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