『SDBs』~ 第1章 赤き沈黙(2)
(※目安 約4,200字)
第1章 赤き沈黙(2)
キーンコーンカーンコーン——
4時間目の終業チャイムが鳴った後の教室は、一日で最も騒がしい瞬間だと緋色は思う。
一番廊下側、最前列。教室の前扉すぐそばの席に座っていると、それがとりわけ強く感じられる。
「腹減ったー!」
「今日、学食の日替わり、チキン竜田だって!」
「お腹空いた……」
「今日も空腹で死にそうかよ!」
「早く購買行こっ! フルーツサンド売り切れちゃう!」
「トイレ行きたいから、あたしの分もお願い」
クラスの大多数の生徒が思い思いに、緋色の目の前を騒々しく通り過ぎていく。
やっぱりこの席は損だ。『赤嶺』という苗字のおかげで緋色の席は毎度この場所から始まる。自己紹介はいつも一番最初。授業中の音読も最初に当てられることが多い。出席番号が1番だというだけで、教師から雑用を頼まれることだって少なくない。何度「高橋」や「中村」を羨ましいと思ったことか。
早く席替えしないかな、なんてことを考えながら、机の左側に掛けている鞄から弁当箱を取り出そうとした時だ。
ちょうど後ろから歩いてきた男子生徒の足が、緋色の左手に勢いよくぶつかった。
ゴトッ——
しん、と一瞬教室が静まり返ったような気がした。
緋色の手から滑り落ちた弁当箱は、そばにいた女子生徒がすぐに拾って手渡してくれたが、ぶつかった当の本人は低めの声で「わりぃ」と一言ぶっきらぼうに言ったあと、そのまま教室を出て行ってしまった。
「なにあれ!」
「あの人いつも機嫌悪そうだよね」
「私も睨まれたことあるよー」
一部始終を見ていたクラスの女子生徒たちが口々に言う。
実際のところ、緋色も彼にはあまり良い印象を持っていなかった。入学初日、初めて言葉を交わした時の第一印象が最悪だったからだ。
——1年A組、と。
自分の教室に初めて足を踏み入れた日、どうせ高校でも最初はあの席だろうと思いながらも、緋色は黒板に貼り出されている座席表を確認した。
——ほら、やっぱりな。
自分の席を確認した後、後ろはなんて言う奴なのかと名前を見てみた。
『青海 蒼助』
——ん? あおうみ、そうすけ? あお……『あか』の俺より前じゃないのか?
もしこれが学校側のミスなら、ひょっとして初めて出席番号1番から解放されるかもしれない。ひとたびそう考え始めた緋色は、それが『あお』ではない可能性など考える余地もないほど、瞬く間に浮き立ってしまった。
振り返ると、廊下側、前から2番目に『青海 蒼助』はすでに着席していた。ソフトモヒカン風に短くカットされた髪はさっぱりとした印象で、焼けた肌がいかにもスポーツマンな雰囲気を醸し出していた。
『ねえ、アオウミくん、だよね?』
『あ?』
机に肘をついた姿勢のままで、切れ長の目がこちらを捉える。
『俺、赤嶺緋色。俺たちの席順、赤より青の方が前なのに、間違えて逆になってると思わない?』
『……赤嶺?』
『うん!』
今までの経験上、座席が前後の奴とはすぐに親しくなりその後も付き合いが長くなる。惜しみない笑顔で、なるべく気さくに話し掛けたつもりだった。しかし次の瞬間、聞こえてきた音に緋色は耳を疑った。
『チッ』
——えっと……舌、打ち……?
あまりの思いがけない反応に、緋色は笑顔のまま瞼以外をフリーズさせた。
『お・う・み。アオウミじゃねぇ、オウミだよ!』
面倒臭そうに教えてくれた声は、またか、とでも言うようだった。常日頃から間違えられていたのなら、嫌気が差すのもわかる。
申し訳ない、しかしそう思ったのは一瞬だった。
『つーか、出席番号とかも関わってくんのに、新入生の名前を間違って管理するわけねーだろ。どういう思考回路だよ』
——はぁ⁉︎ なにこいつ。感じ悪っ……!
さすがにカチンときた。
が、ここはこらえて、込み上げてくる怒りを右手でグッと握り潰す。
——もうお前は一生アオウミでいい、アオウミでいろ!
緋色は心の中でわけのわからない呪文を唱えて反撃をするにとどめた。
これが青海蒼助との最悪な出逢いだ。
今思い出しても腹が立つ。むしろアイツが「わりぃ」と一言詫びただけでも上出来じゃないかとさえ思えてくる。
「赤嶺くん、お弁当の中身は無事?」
先ほどまで青海について文句を言っていた女子たちに尋ねられ、緋色はハッと我に返った。
弁当箱の蓋を開けて中を確かめる。どうやら無事のようだ。緋色の好きな甘辛ダレの鶏の唐揚げ、鮮やかな黄色のだし巻き玉子、トマトとブロッコリーの副菜。普段料理をしない緋色でもわかる、バランスの良いおかずが彩り良く綺麗に詰められている。
わあ、と女子たちが歓声を上げていた。
「赤嶺くんのお弁当、いっつも美味しそうだよね」
「私もここ通り過ぎる時いつも思ってたー!」
「ねっ! 見た目も可愛いからさ、今日のお弁当はどんなのかなってちょっと楽しみになってたくらいにして!」
「わかる~!」
女子たちが声を揃えてキャイキャイと盛り上がる。
「いいな~。うちは『お母さんのビミョーな腕前の料理より学食の方が美味しいでしょ』とか言って、お弁当なんて作ってくれないよ」
「毎日こんなお弁当作ってくれるなんて、愛されてるって感じで羨ましいよね~!」
「でも実際、学食の方がいいんでしょ?」
「まあね!」
正直な回答に女子たちはげらげらと一斉に笑った。その声に紛れて「これはただの作業だよ」と呟いた緋色の声は彼女らには聞こえなかったようだ。
女子たちが学食へ向かった数分後、青海が購買で購入したパンやらおにぎりやらを大量に抱えて戻ってきた。その中には人気が高くすぐに売り切れてしまうというフルーツサンドもあった。
*
放課後の補習を終え、この日も緋色はスクールバス最終便の時刻まで時間を潰してから帰宅した。相も変わらず玄関には女性物の靴が一つ。
自分の部屋で着替えをしていると、扉をノックする音が聞こえた。
「緋色くん、おかえりなさい。今日の晩御飯ラーメンだから……着替えて手洗ったら、リビングに来てね……」
遠慮がちな声だが、これは明らかな懇願だ。避けては通れない。
今の今まで空っぽだったはずの胃が、なんだか急に重たくなるのを感じた。
言われた通り手洗いを済ませた後、仕方なくリビングに行くと、食事の支度はまだ途中のようだった。
リビングの先に、父が書斎として使用している6畳ほどの部屋がある。いつからか、父はたまに帰ってきてもこの部屋に籠りがちになった。
中に入るとそこには扉が開いたままのクローゼットがある。正確には、扉を開いてそのままスライドさせると奥に収めることができるフリッパードアのクローゼットで、扉は中に収納されている状態だ。このマンションに引っ越す際、仏壇の設置場所として父がこだわった点の一つだった。クローゼット上の壁には、これまた父がこだわり自身で取り付けた長押がある。
そこに、緋色が大好きな母の笑顔があった。
母が死んだのは、緋色が中学校に入学する直前のことだった。
小学校の卒業式を終え、短い春休みに入ったばかりのある日、外へ遊びに行っていた緋色が家に帰ると、出迎えてくれたのは母ではなく灯織だった。今キッチンでラーメンを作っている、あの人だ。
母の親友で、しょっちゅう家へ遊びに来ていたため緋色も何度も会ったことがあり、面識があった。
こんにちは、と言い終える前に、両腕をグッと掴まれた。
『緋色くん、綾子が…………お母さんが……!』
そのあとどうやって病院へ連れて行ってもらったかまではよく覚えていない。たまにこうして、あの人が力強く掴んだ両腕が酷く痛かったことと、真っ青になり目玉が落ちそうなほど目を見開いていたあの人の、恐怖に怯えたような必死の形相を思い出す。
そして病院での記憶は、強烈な一部分だけが、今も尚忘れられず感覚ごと脳裏に焼き付いている。
*
病院に辿り着くとスーツ姿の父がいて、母は突然倒れ、ドラマなんかで聞き覚えのある集中治療室にいると言われた。
父も灯織もただならぬ様子だったが、今朝もいつも通り元気な母の姿を見ていた緋色は正直あまり実感がなかった。ただ、母に会えないまま長い時間が経ち、なんとなく胸のあたりがソワソワして少し心細い気持ちがしていた。
翌日、集中治療室にいた母が普通の病室に移ったと聞き、緋色は母が回復したのだと思い疑わなかった。早く会いたくて仕方がなかった。
そんな緋色に、父は今まで見せたことのない怒ったような険しい顔で、確かめるように慎重に尋ねた。
『緋色。お母さんは今、病気と頑張って闘っていて体中ボロボロなんだ。顔も酷く傷付いていて、緋色の知ってるお母さんの顔とは違うかもしれない。お母さんは今も眠っているから緋色とは話せない。緋色は……怖い思いを、するかもしれない。それでもお母さんに会いたいかい?』
『うん! お母さんに会いたい!』
即答だった。
緋色のためを思って言ってくれたであろう数々のどんな注意点も『お母さんに会いたい』ただそれだけの気持ちに全て搔き消される。
——お母さんに会えるなら、なんにも怖くないよ!
『お母さんっ!』
一日ぶりに母に会える。嬉々として駆け寄った緋色の足が、ベッドの脇に辿り着く前にはたと止まる。
ベッドに横たわった母の体には、口、胸、腕、指——いたるところから何本もの管が出ていた。口から出ている太いホース、それを固定する幾つものテープ。顔はパンパンに腫れて、そこにいるのが母だと解っているのに、会いたかったのに、緋色の知らないその顔は、そこにいるのが母じゃなければいいなとさえ思わせる。
体が凍りついたように動かない。足も手も顔も。声さえ出せない。かろうじて口から漏れた息、それを取り戻すように慌ただしく吸い上げる。吐いて吸って、吐いて吸って。体が呼吸をしなければとそれを繰り返させる。
じわりと熱を帯びた目から涙が零れ落ちた。こんな母の姿を見るのが辛いからなのか、それとも悲しいからなのか、そのいずれかであればよかった。
これは、恐怖だ。怖い。だた、怖い。
大好きな母がどんな姿になり果てようとも、迷わず駆け寄って触れられなかった自分が、立ち止まったままそれ以上近付こうとしなかった自分が、物凄く冷たい人間のように思えた。
それが、緋色が見た最期の母の姿となった。
きっと緋色が後悔しないようにと、それ以降も父は何度も『お母さんに話し掛けなくていいのか』と言ったけれど、頑なに『いい』と答え続けた。
母に背を向け、しがみついた父のお腹に顔をうずめたまま、ピーーーーーーーーーーという嫌な音を聞いた。
※この物語はフィクションです。実在する人物、団体、取り組みの内容等とは関係ありません。