この箱いっぱいの愛を #創作大賞感想
出逢いと別れを繰り返す人生のなかで、大好きなまま疎遠になってしまった人が、私には両手に収まらないほどいる。
おそらく皆存命だ。何も特別な仲違いがあったわけでもない。ただ、お互いの生きる場所や、お互いを取り巻く環境や状況が変わっただけ。
学校卒業後めっきり会わなくなってしまった友人、転職後数年は交流があったけれど月日の経過とともに連絡を取らなくなってしまった元職場の同僚・後輩。
大好きだったのに解散してしまったバンドのギタリスト、もっと話したいことがあったのに突然SNSを辞められてしまった憧れの人。
一緒に過ごした時間が濃厚であればあるだけ、そりゃ寂しい気持ちも大きいけれど。会えなくても、姿を見かけなくても、この世界のどこかで、元気に幸せに生きていてくれたらいいなと思う。
それと同時に、会えなくなっても、一緒に過ごした日々の思い出や、私の為にくれたうれしい言葉や温かさが、いつだってちゃんと胸の中にあることを実感する。
「存在」って会えなくなったら無くなるものじゃない。
会えなくなっても、その存在がとてつもないパワーをくれたりするのだから。
コッシーさんと「ばあちゃん」にとって、そんなとてつもないパワーのきっかけになるものの一つが「金ちゃんヌードル」なんじゃないかなって、こちらを読んで思った。
※核心の内容に触れますので、未読の方はお読みいただいてから先へ進むことをお勧めします。
(まあ、私自身だいぶ遅ればせながらの拝読なので、ほとんどの方は既読と思いますが……!(*ノД`)アター)
途中、何度も何度も胸がギュッとなった。
ギュッ。
会いに行くたび、顔を見るたびに「よう来たねぇ」とくしゃくしゃの笑顔を見せてくれていたばあちゃんの、その顔がある日突然見られなくなってしまったこと。
単に「この日ばあちゃんが僕のことを思い出すことはなかった」と書くよりも、その日のコッシーさんの胸の苦しさが、その時の空気感が、輪郭をともなって伝わってくる。
ギュッ。
もう会いに行っても「コッシーが会いにきてくれた」と「よう来たねぇ」と喜んでくれるばあちゃんがいない。
大好きだった人が自分に向けてくれていた優しい顔が、ある日突然、赤の他人に向けるような顔になってしまう。どんなに苦しいことだろう。
ギューッ。
緊急搬送から亡くなるまで、って想像している以上にあっという間であっけない。それまでいくらでもあったはずの時間やチャンスを後悔する隙も与えられないまま、ある日突然会えない人になってしまう。
ギューーーッ。
どうしてたって、元気だった頃、しっかりしていた頃の記憶がよみがえってしまう感覚。大人になって頭では理解した気になっても、ふとした時に受け入れられない瞬間があったりする。
そうやって、読みながら、何度も何度もギュッとして、胸いっぱいに溜まっていた圧が溢れてしまったのが、このフレーズ。
もう。ずるい。鼻が痛い。
これを書くために文章を引用しに行って、今また泣いてる。
これはコッシーさん視点のエッセイだから、認知症が進みながらの施設生活のなかで、ばあちゃんがどんな思いを抱えていたか、どんな苦労があったか、それはわからない。
でも楽しいばかりじゃないのが人生だ。思うようにいかないときや、寂しくなる瞬間もあったかもしれない。
でもそんなときも、コッシーさんの存在や金ちゃんヌードルを買うことが、ばあちゃんにパワーをくれていたんじゃないかなとすごく思う。
コッシーさんが会いに行くことをやめてしまった後も、ばあちゃんの中にはいつもコッシーさんの存在があった。
こんな言い方は相応しくないかもしれないけれど、認知症だったからこそ、溜まっていくばかりの金ちゃんヌードルを見て、心に思うことは「なかなか会いに来てくれない寂しさや悲しさ」なんかではなかったと思う。そんなのは微塵もなくて。
ばあちゃんの心の中にあったのは、いつも「コッシーさんが会いに来てくれる日を楽しみにする気持ち」と「コッシーさんの喜ぶ顔」だったんじゃないかなって。
この先も、金ちゃんヌードルがコッシーさんに温かなパワーを与えつづけることを心から祈っている。
そして、末筆ながら徳島製粉株式会社さまの益々のご繁栄をお祈りするとともに、これからも変わらぬ金ちゃんヌードルを末永く賜りますよう心よりお願い申し上げます。
#最後どうした
#コッシーさんのエッセイ徳島製粉さんに届いてほしい
#徳島製粉株式会社さまに届け
#応援のベクトルが一人だけ違うんよ
【補足】
(2,690文字)
とてもとても素晴らしい感想記事を書かれていらっしゃる方がたくさんいるなかで、こんな拙文を出して逆に困らせるのでは……と。
お蔵入りにしようか本気で迷ったけれど、こんな応援でも雑草くらいの緑は添えられるかもしれない!と思い、1時間ほど悩んだ末にやっぱり投稿ボタンを押すことにしました。