【ネタバレ注意】東ゆうを許せなかったオタクが、『トラペジウム』と向き合った記録
僕は7月に書いた「4~6月に見た映画の感想をまとめる」というnoteで、映画『トラペジウム』を見たという話をした。
当該のnoteで、僕は鑑賞後の感想をこうまとめている。
このnoteでは、上記の宣言通りトラペジウムの2回目の鑑賞を行うことで、ようやくまとめることのできた感想を記していく。
◆僕とトラペジウム
実は僕は原作の文庫版が発売されたときに、原作者の高山一実女史や乃木坂46のことは全く知らなかったものの、なんとなく気になって文庫版を購入・読破している。
その時の感想がこれだ。
あ、あ、浅パチャ~~~!!
いや、「『女の子はみんなアイドルに憧れるもの』という歪みきった認識」や伊丹ガイドへの態度に対する感想はまあわかるけど「なぜアイドルではなく『グループ』を目指すのか」は普通わかるでしょ!!
ていうか浅パチャな感想は置いといて、「『高山一実』というネームバリューだけで売れたのだろうか」は感想じゃなく単なるヘイトだろ!!
とにかく、当時の僕はトラペジウムに、東ゆうという少女にいい印象がなかった。僕はこのとき感じた「トラペジウムは駄作」という印象を引きずったまま、4年越しのトラペジウムの映画化を知り、
「アレ、映画になるんだ。う~ん、怖いもの見たさで観に行ってみようかな!観ないで語るのは愚の骨頂だし、メディアミックスが原作を超えるパターンかもしれないし!」
というかなり不純な動機で映画を観に行った。
その結果は先述のnoteに記した通り。確かなのは上記の浅パチャ理解が払拭されたという一点だけで、「トラペジウムは駄作」という心に根付いた固定観念と、映画館での鑑賞体験がもたらした感情の衝突は、心に巨大な困惑を生み出すばかりだった。
鑑賞後、僕は同じように映画を見た人々の感想を探しに、インターネットの海に漕ぎ出した。そこに広がっていた風景は、自分の困惑をさらに加速させた。
もちろん、4年前、自分が原作を読んだときと同じような「1時間半、アイドルに狂ったサイコパス女の姿を見せられる怪作」といったネガティブ寄りな感想を持っている人もいたし、映画公開後すぐはそうした感想が主にバズっていた。だが、上映からしばらくするとネットの潮目は変わった。
公開後の評価とは真逆に、トラペジウムに好意的な感想がバズり始めたのだ。
「元アイドルだからこそ描けた、アイドルへの憧れと挫折、そして再起を描いてみせた青春映画の傑作」
「トラペジウムは令和の『コードギアス』」
「自分の中で、早くも今年ナンバーワンのアニメ映画が決まった」
「こんな素敵な映画ないよ!!」
そんな好意的な感想がSNSでは爆発的に増えていき、SNSは次第に「トラペジウム・フィーバー」とでも形容できる様相を見せていった。
この祭りは一向に沈静化することなくオタクの間に広がっていき、SNS上では
というループが形成されていった。
日を経るごとに指数関数的に増えていく、自分がかつて持っていた評価とは真逆のトラペジウムを称える声にまみれた僕の心境は、ボートを用意されたヒューイ博士のそれに近かった。
そうした声を聞く中で、僕の中には強い欲求が生まれた。
「このまま、トラペジウムという映画を『わからなかった』の一言で終わらせたくない」
「トラペジウムに狂った人たちの見ている景色が見たい。彼らの叫ぶ感動を少しでも理解したい」
この欲求が頭の片隅からどうしても離れなかった僕は、千葉県柏市の映画館「キネマ旬報シアター」でのトラペジウム再上映に、もう一度トラペジウムと相対しそれを咀嚼すべく足を運んだ。
二度の鑑賞の結果どうなったかというと、4年前のネガティブな固定観念は完全に払拭されてトラペジウムを素直に「面白い」と感じることができ、少しはSNS上にあふれるトラペジウムを称える人々の気持ちも理解できるようになった。
しかし、今日も元気に狂っているトラペジウム中毒者ほどハマることはできず、この作品に対して納得できない部分も見えてきた。
ここからは、2度の鑑賞を経てようやくまとまったトラペジウムに対する感想を書いていく。
◆東ゆうを許せるか
本作の主人公である少女、東ゆうに対する認識は、この映画の評価に直結している。トラペジウム肯定派は概ねゆうに脳を焼かれて最高にハイになっているし、トラペジウム否定派の意見は、大体は要約すると「ゆうのことが理解できない」「ゆうを好きになれない」というものである。
僕も原作読破~1度目の鑑賞までは否定派の言うようにゆうが理解できなかったのだが、2度目の鑑賞を経てちょっとゆうの気持ちがわかるようになり、同時にこの映画を「青春映画」として咀嚼できるようになった。
まず、この物語の根幹である「西・南・北に位置する高校から美少女を集め、4人で地元で地道に活動し『見つけてもらって』アイドルになる」という回りくどい計画について。
4年前、僕はこのゆうの計画を「『棚ぼた狙いのワナビー』にしか見えない」「そんなことより、オーディションに応募し続けたほうが速い」と考えてしまい、全く理解できなかった。
だが、2回目の鑑賞で、僕はある事実を発見した。
ゆうは、蘭子、くるみ、美嘉の3人のアイドル候補を集める過程で、彼女らと出会い友誼を結んだ際には喜んでいる…のだが、家に帰るとその喜びとは裏腹に「何やってんだか…」と自分の行動を疑問視している(原作からこれに該当するシーンは見つけられなかった)。
これはうまくいかない自分のガバチャー計画への自虐、という意味も込もっているのだろうが、僕はこのセリフが「最短かつ王道のアイドルへの道(自分を磨いてオーディションに挑む)から外れた、迂遠な手段を取る自身への懐疑・自虐」にも聞こえた。
また、活動が功を奏し古賀萌香がプロデュースするバラエティ番組を通してアイドルデビューすることが決まった際にも、もちろん喜んではいたが、その後真司とアイドルデビューについて話した際には「実感がない」「ここまで来てしまった」と、どこか喜びを素直に享受できないでいる様子がうかがえる。
このくだりは原作にもほぼ同じものがあるが、自分の記憶が正しければ、映画はもっと困惑の色が強かったように思う。
この困惑についても、自分はどこか「正当な手段ではなく、意地悪な言い方をすれば『ズル技』でアイドルという夢に到達『できてしまった』困惑が喜びと並立している」と思えた。
映画版のこれらの描写から「正当な手段でアイドルデビューできなかったことへの『悔い』『懐疑』『自虐』」を感じ取った僕の中では、ゆうに対する認識が軟化した。
冷酷なことを言えばゆうは「アイドルへの想いは強いが、正当な手段でアイドルデビューすることは諦めている」「努力は惜しまないが、努力の方向は正道から大きく外れた『棚ぼた』狙いのズル技」であり、原作を読んだ時点での僕はそのキャラ性が全く好きになれなかった。
これは僕が愛する、9人の少女が舞台の「トップスタァ」を目指しぶつかり合うメディアミックス作品『少女☆歌劇レヴュースタァライト』において、「己のすべてを燃やしながら、たった1つのトップスタァの座を、自身が持つ舞台人としての理想を目指す」9人の少女の姿に惹かれていたこともあり、当初は「いや、そんなクソデカ回り道するよりオーディション受け続けたほうがよかったんじゃねえの?」「他人(蘭子、くるみ、美嘉、ババハウスや翁琉城の人々)を利用して・乗っかって手に入れた夢に価値はあるの?」と思ってしまったからだ。
原作・映画に共通して、ゆうがなぜオーディションに落ち続けたか、どれくらいオーディションを受けたのかが語られないことも、それを助長していた(これは原作・映画に共通してよくないところだな、と思う)。
だが、映画版の上記した演出を通してこれら、ゆうのそうした弱さ・後ろめたさとも解釈できる言動・仕草を見て、僕はゆうに対する印象が変わったし、嫌悪はかなり薄れた。
また、自分の置かれた立場もゆうに対する印象を変えた。
僕は現在、転職活動をしている。これに関しては別の機会にnoteに書こうと思っているが、この転職活動がかなり難航しており、僕は心が参っている。
「誠に残念ながら貴意に添えない結果となりました。」
「貴殿の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます。」
そうしたテンプレート的な文面、いわゆる「お祈り」を見続けたことによる心の苦しさを抱えたまま僕は2度目のトラペジウムを見たのだが、その状態でゆうが立ち去る真司の背に向けて一人「(オーディションに)全部落ちたなんて、かっこ悪くて言えないや」と呟くシーンで、僕は1度目の鑑賞にはなかった強い気付きを覚えた。
ゆうも僕と同じ、無数の「お祈り」を見続けたのだろう、と。
それを受け止め、彼女がたどり着いた生存戦略があの回りくどい「見つけてもらう」という作戦だったのではないか、と。
この気づきも、彼女に対する印象を変えた。
トラペジウムといえば外すことのできない問題のシーン「そんなのおかしいよ!」「こんな素敵な職業ないよ!」も、二回目の鑑賞では、思い描いていた理想の破綻を知りながらも走りを止めることのできない自身に言い聞かせる言葉でもあったのだなと明確に気づくことができたのも、2回目の鑑賞をしてよかったことの1つだ。
「スーパー性格ひんまがり主人公が、取り返しのつかない失敗に伴う教訓を得て真に『己が目指していた理想とは何か』に気づき、生まれ変わる」…って筋書き、既視感を覚えていたけどアレだな。谷口悟朗の『revisions』だコレ。
また、先人たちが口を揃えて言う「東西南北の4人が電車に乗るシーンが効果的な演出になっている」という点に気づけた時は気持ちよかった。
ゆうは電車の中では必ずイヤフォンをしていたり、蘭子、くるみ、美嘉とは別の方向を向いていたりして、他の3人と意思が揃っていない、あるいは他の3人と真正面から向き合っていないと取れる演出が常になされていて、遠からず東西南北の破滅を暗示するこの演出は素晴らしかった。
◆未だにモヤモヤするラスト
ただ、未だに受け入れられない部分もある。
問題は東西南北の解散後、自身の身勝手さを悔いるゆうの下に蘭子、くるみ、美嘉が集い、「アイドル活動は破綻したかもしれない。だが、そこで得られた友情はかけがえのないものだった(※超要約)」と告白し、ゆうを許すシーン。
ゆうが許されるのは全然いい。むしろ友情の美しさに心打たれる。
受け入れられないのは、ゆうが許された途端に反省を引っ込めて「恋愛ってそんな大事?」だとか「(蘭子が世界を飛び回る仕事を選んだことについて)本気?」と聞くなど、軽薄にしか見えない態度だ。
限界に陥ったくるみの姿を見ているこちらとしては「いや3人は君を許してくれたかもしれないけど、そこはもっと罪悪感持たないとダメなところじゃないの?」と思ってしまい、このシーンは2度目の鑑賞においても感動に対するノイズになった。
◆総評
2度の鑑賞により、4年前のネガティブで浅パチャな感想は完全に払拭され、僕はトラペジウムをようやく「アイドルに憧れる少女の青春・挫折・再起を描いたストーリー」として好意的に見られるようになった。
「トラペジウムという映画を『わからなかった』の一言で終わらせたくない」という欲求は解消できたし、コンテンツを咀嚼するうえで「コンテンツの欠点よりも長所を見つけたい」というスタンスを目指している自分としては、この願望をなあなあで済ませずにちゃんと2度目の鑑賞を行って心から良かったと感じている。
ただ、もうひとつの「トラペジウムに狂った人たちの見ている景色が見たい。彼らの叫ぶ感動を少しでも理解したい」という願望は、残念ながら果たすことができなかった。
確かにトラペジウムを好意的に見られるようにはなったが、一部のトラペジウム肯定派が言うような「最高の作品!」という感想にまで至ることはできなかった。
熱心なファンと同じ景色を見ることが叶わなかったのは本当に残念だが、「一度は否定した作品の評価が、自分の中で覆る」という貴重な体験ができた。
いやー、映画上映時に「でも原作つまんなかったしな…」と切り捨てなくてよかった。「怖いもの見たさ」という不純な動機であっても、観に行ってよかった。そうでなければこの体験はできなかった。