振り返れ!2024年! ~映画編~
先に投稿した、2024年の活動を振り返るnoteで、24年の僕は前職の契約期間満了に伴う再就職活動に奔走していたという話をしたのだが、そんな懐の寒い状況でも、僕はなんとか金を捻出して映画をコンスタントに見に行っていた。
これは「映画と映画館が好きだから」という理由ももちろんあるのだが、貧乏を理由に家に閉じこもり、外出することを止めてしまうと、どんどん自分が錆びて人間としてダメになってしまうのではないか、という不安が今年は常にあったからだ。
今回のnoteでは、自分の苦境を支えてくれた2024年の映画たちについて総括していく。
◆鑑賞本数とランキング
今年視聴できた映画の本数は、僕が鑑賞した映画の記録に使っている、映画のデータベース兼鑑賞した映画について記録を残せるSNS「KINENOTE」によれば34本。
『ガンダムSEED FREEDOM』『ウマ娘新時代の扉』など複数回鑑賞した映画もあるため、実態としては約30本、今年は映画を見たことになる。
自分は物事に順位をつけることが苦手なのだが、一応今年見た映画をランク付けしてみようと思い、ソートアプリに突っ込んで順位付けをしてみたら、このようになった。
ランク下層の映画は残念ながら「つまらなかった」と言わざるを得ない作品ではあるが、見所がなかったわけではなく、「クソ映画が!金返せ!」と怒りを抱くような映画は一本もない。喜びの種類や規模は違えど、どの映画も楽しむことができた。
後述する、印象に残った映画についてクローズアップするパートでは24年ワースト映画として『マダム・ウェブ』『カミノフデ』『ゼーガペインSTA』を挙げていて、その3作はまあまあつまらなかったのだが、その3本に関しても楽しめた部分はちゃんとあった。
ここからは、30本の中から、特に印象に残った映画について触れていく。
◆24年ベスト映画
◇機動戦士ガンダムSEED FREEDOM
「ありがとう。20年ガノタを縛ってきた呪いを解いてくれて。」
感想記事でも書いたのだが、SEED FREEDOMに対する想いはこの一文に尽きる。
20年間、ガノタは『SEED Destiny』という作品に呪われてきた。「駄作」と評されがちなガンダムは数あれど、ガノタが『Destiny』に抱く感情の大きさはこれ以前の駄作認定ガンダムとは一線を画する。
ガノタにとって『Destiny』は単なる駄作ではない。賛否はあれど1年間視聴者を楽しませてきた前作『SEED』を完膚なきまでに破壊したという一点で、『Destiny』はガノタから愛憎入り交じるクソデカ感情を向けられ、ネタにされてきた。
「あのSEEDの続編が、こんな愚作になるなんて」
「傷つきながらも、信念のもとに命を賭して戦ったキラの、シンの戦いの結末が、こんなくだらないものであるはずがない」
そんな複雑な感情を20年燻らせてきたガノタたちを救ってくれたのが『SEED FREEDOM』だ。やれ「呪い」だの「救った」だの大げさな言葉を使っているが、『SEED』と『SEED Destiny』をリアルタイムに視聴し、当時のガノタたちの荒れ模様を知るオタクとしては、決して誇張ではないつもりだ。
制作者の傀儡ではなく一人の人間に戻り、悩み苦しみながらも「愛」を胸に戦い抜いたキラ。そんなキラを親友として支え、戦場では背中を守ったアスラン。キラという仲間でありメンターでもある存在に出会い、今度こそ迷いなく戦うことのできたシン。
そして、3人とその仲間たちが天上から運命を押し付けるアコードたちと戦い「自由」を勝ち取る姿が放つ輝きは、20年我々が望んできたものそのもの、いやそれ以上のものだった。
コズミック・イラ世界だけでなく、やれ「シンがキラのフリーダムを討つ34話が『Destiny』の最終回。後は蛇足」「『ガンダムSEED』の続編は『スーパーロボット大戦L』」だのと、『Destiny』をどうにか記憶から亡きものにしようとしてきた我々にもFREEDOMを与えてくれた本作こそ、24年のトップバッターにして24年の劇場の王者にふさわしい映画だったと言える。
…と、思ってたんすよ。
◇ラストマイル
『逃げ恥』『アンナチュラル』『MIU404』『犬王』『カラオケ行こ!』と名作を生み出し続ける野木亜紀子にまたしてもやられた。
我々が当たり前のように利用する配送・サブスクサービスが、我々の視界に映らない末端の人々の犠牲のもとに成り立っていることを、我々の欲望に磨り潰される「末端の人々」を描くことで告発しヘビーな問題提起をしつつも、我々の罪を一方的に糾弾するような説教臭さや「犠牲のもとに成り立つこの社会はクソ」という諦観・冷笑で終わることなく、ちゃんと「デリファスの配達物に仕込まれた12個の爆弾」「爆弾を仕掛けたのは果たして誰なのか」という謎を巡るエンターテイメント性も持ち、クライマックスには「まだまだこの国だって捨てたものじゃない」というメッセージを観客に伝えるかのような希望の光を一筋残す。この構成の奇跡的なバランス感と、それがもたらす感動は本作でしか味わえない。
この映画が出てくるまでは、本気で「今年は『SEED FREEDOM』以上の映画は出てこないだろう」と思っていたが、こんなものを見せられては降参するしかない。
現代社会の抱える病理と、それを取り除くかもしれない人の持つ可能性、人の心の光。その両方を鮮やかに見せてくれた大・大・大傑作。
◆もっと評価されるべきで賞
今年「これが誰にも知られずに終わるのは悲しい」と思った映画はこの2作。
◇BLOODY ESCAPE 地獄の逃走劇
メディアミックス企画『エスタブライフ』を地上波アニメ『グレイトエスケープ』と共に盛り上げるはずだったが、先行したアニメは評価される以前にあまり見てもらえず爆死、その煽りを食らってか、続けて展開予定だったスマートフォンゲーム『ユニティメモリーズ』は一切の告知を停止しフェードアウト、宣伝に頼れるのは最近『ONE PIECE FILM RED』という大傑作を作り上げた監督・谷口悟朗氏のネームバリューだけ…という始まる前から死兆星がゲーミング七色発光していた悲劇の一作。
僕は先行していた『グレイトエスケープ』が全然肌に合わなかった上、近場に上映館がなかったので正直見るか迷っていたのだが、タイミングよく新宿の方に出向く用事があり、迷いつつも「谷口さんならなんとかしてくれる…」という希望を胸に予約した。
『エスタブライフ』系列作品は「逃げることは悪じゃない」という通底するテーマを掲げており(系列、と言ってもメディアミックスは本作を最後に停止ししていて、結局世に出たのは本作を含む2作だけなのだが)、主要人物たちが「過去の因縁」「理不尽な村(クラスタ)の因習」など自分を理不尽に押さえつけ害そうとするあらゆるしがらみを脱するために、立ちふさがる敵をバッタバッタぶっ倒していく、タイトル通りの「地獄の逃走劇」は、ネジの緩んだよくあるラノベ的アニメでしかなかった『グレイトエスケープ』に比べて遥かにシリーズ全体で掲げるテーマを表現しており、シンプルにカタルシスもある。思わず心の中で「これこれ!こういうのが見たかったのよ!!」と僕は快哉を叫んだ。
「ヤクザvs吸血鬼vs改造人間の三つ巴バトル」という内容を宣伝しておきながら、ヤクザ勢力が中盤で壊滅し結局は主人公であるキサラギと、キサラギたちを追う吸血鬼の軍団「不滅騎士団」の対決に遷移してしまうのは若干不満ではあるが、それを差し引いても、キサラギたち逃亡者と、それを追う不滅騎士団が雌雄を決するクライマックスにはカタルシスがあるし、登場人物がそうしたような「逃げる勇気」を教えてくれる。
何よりアクションが良い。
『グレイトエスケープ』は令和アニメとしてはかなりアクションがダルかったのだが、本作はそこから一転かなりアクションに力が入っており、特にキサラギの自在に変化する左腕と、義足を使ったアクションは非常に見応えがあった。
ホント、これが爆死はもったいない。読者のみなさんもこんな駄文を読むのは今すぐやめて、年始の休みにはサブスクサービスで本作を見て欲しい。
◇コヴェナント 約束の救出
本作は生まれる前から負け戦が決まりつつあった『BLOODY ESCAPE』と比べればマシな立場ではあったのだが、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』『マダム・ウェブ』などの同月の話題作に押されてあまり名を上げることのできなかった印象がある。
見た目の派手さだけでなく、動静のメリハリで緊張感を与えてくる戦闘シーンは一級品と言っていい。序盤のタリバーン基地での戦いとジョンとアーメッドの決死の逃走、そこからの中盤最大の見せ場である、負傷したジョンを運びながら米軍基地への約100kmの道のりを踏破するアーメッドの決死行を見ている時には、無意識に緊張で両手に力が入ってしまった。
ストーリーは「戦場での男の友情もの」なのだが、彼らの関係は劇中では「呪い」と表現され、単なる友情ではなく互いの心を締め付ける鎖としても描かれる。
アーメッドがジョンを助けたのは義侠心もあるだろうが、ジョンを救わなければ帰還したとてアメリカ軍には信用してもらえず(身内にタリバーンを抱えるアフガン人が、タリバーンと敵対するアメリカ人に信用されるわけがない)、食い扶持を失い家族を養えなくなるからだ。この対等でない二人の力関係は「呪い」と言えるし、ジョン側もアーメッドのおかげで助かったのに、アメリカに帰還したあとは彼の窮状を知っても助けに行くことはできず、恩人を見殺しにしている事実に苦しむことになる。これも呪いだ。
障害を乗り越えて再び戦場に戻ったジョンが決死の戦いを経てアーメッドを救うことで、二人が呪いから解き放たれるクライマックスには、心の底から安堵した。
ホント、これが爆死はもったいない。読者のみなさんもこんな駄文を読むのは今すぐやめて、年始の休みにはサブスクサービスで本作を見て欲しい(2回目)。
◆帰ってきた俺達のギアス:コードギアス奪還のロゼ
感想noteに書いたとおり言いたいことは色々あるのだが、原点である『反逆』をオマージュして我々の機嫌を取りつつ、『反逆』の骨子である「視聴者を裏切る面白さ」を受け継ぎ、最終的に『反逆』のなぞりに終わらない物語を見せてくれた本作は、『ロススト』にかろうじて支えられていたシリーズの復活の狼煙にふさわしい。
多感な時期に『反逆のルルーシュ』に情緒をメチャクチャにされ、それ以来『ギアス』が自分を形作るピースの一つになった自分としては、ここからのギアスのさらなる「復活」を大いに期待したい。
◆結局それって冷笑じゃん?:デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション
5月に感想を書いた後もデデデデについては色々考えていたのだが、やっぱり、本作が描いた「人間は基本的に無力であり、どんなにあがいても、世界の流れに干渉することはできない。それを知らずに世界を変えようと試みる者は狂ってしまう。だから、せめて身近にいる誰かを愛そう。それがこの世界の唯一の『絶対』」という結論は、要約すると美しく見えるかもしれないけど冷笑だと思うんですよ。
言いたいことはわかる。世界は技術が進んでも一向に良くならないし、デデデデが茶化したように、政治家にも活動家にも残念なことに「なんだこいつ」と思わざるを得ないバカはいる。社会に希望が持てず、諦観に走る気持ちはすごいよく分かるし、かく言う自分も社会に対する諦観は常にある。
でも、おんたん一人が個人的な信念として「世界に干渉することはしない、ただ、世界が滅ぶその時に門出とともにある人間でいたい」と思うならまだしも、デデデデって作品全体で「思想」を持ったり、その思想をもとに社会にコミットすることそのものをバカにしてる・冷笑してるようにしか見えなくて、最後まで「自分(おんたん)がそう思うのは勝手だけど、世界を変えようと志を持つ人まで冷笑することはないでしょうよ」という疑問が抜けなかった。
劇中における思想家(世界線移動前の門出や門出の母、小比類巻とか)の描き方も極端なきらいがあり、「過激な思想家になるか、すべてを諦めた諦観の人になるか」という2択は極論ではないかと思う。日常を送りながら、できる範囲で社会を変えようと活動することだってできるはずだ。
おんたんに「世界を滅ぼしても門出を救うか、門出を犠牲に世界を救うのか」という選択を迫る、所謂「セカイ系」の文脈をなぞりながらも、「世界線移動には記憶喪失が伴い、おんたんは本来の世界線の記憶を失った」という設定のせいで、おんたんが「世界の滅亡を前に(そもそも記憶がないので)良心の呵責もなく、何もしてないくせに大葉の献身で世界の滅亡は回避され、門出も大葉も失わず日常に戻っていく」というラストも「都合が良すぎる」と思ってしまい、ノリきれなかった。
◆今年一番「惑った」映画:トラペジウム
個別の感想noteでも述べたのだが、初見の自分の感想と世間(正確にはツイッタランド内)の絶賛の乖離が本当に凄まじく、「この映画は何なんだ…!?」「僕の咀嚼力が足りないのか!?僕が間違っているのか…!?」と僕を困惑の中に叩き込み、惑わせた映画。
4年前、原作となる小説を読んだ時点では最悪に近かった評価が、映画鑑賞(1回目)で瓦解し始め、最終的に、トラペジウムに狂った先人の言葉を補助線にした2回目の鑑賞を経て最初の評価が覆る…という、「自分の中で作品の評価が逆転する」稀有な体験ができたので、「たとえ『怖いもの見たさ』という不純な動機でも、観ようと思ってよかった」「うやむやにせずにこの映画にちゃんと向き合ってよかった」と思っている。
トラペジウムに狂った先人たちと同じ景色を共有できなかった点は残念。
『レヴュースタァライト』以降、僕を踊らせてくれる作品との出会いがあまりないので、僕もいっしょに発狂したかった。ああ、発狂してえなあ。
◆心に沁みたあたたかい映画:きみの色
『きみの色』が公開されていた時期、僕は寛解した鬱が再発していて精神的にかなり落ち込んでいたのだが、そんな時に観た本作の感想は「心に沁みた」の一言が相応しい。
本作は3人の少年少女が仲間と出会い、音楽という趣味を通じて、それぞれの悩みを各人なりに乗り越えていくさまが描かれているのだが、その過程における普通のエンタメならお約束的に発生する刺激物が取り除かれていて、3人は別に「大会」「優勝」的な何かを目指すわけではない。
「それって退屈なんじゃないの?」と思うかもしれない(実際そういう感想もあった)が、サイエンスSARUの手掛けるあまりに美しいアニメーションが退屈を感じさせないし、何より等身大の悩みを持つ3人が悩みながら生きる姿には「頑張れ!」と応援したくなる「隙」があり、感情移入してしまう。
忘れられないのが奉仕活動を終えてルイの元に久々に戻れたトツ子ときみが手を繋いで喜ぶシーン。心の底から楽しげな3人の様子を見て、僕は別に泣かせるシーンでもなんでもないのにぐっと来てしまった。
トツ子ちゃん、個人的には『怪異と乙女と神隠し』の菫子さんと並ぶ、今年アニメのベストヒロインと言えるぐらい好きです。
◆分断の果てにある地獄:シビル・ウォー アメリカ最後の日
シビル・ウォーは基本的には「政治的なスタンスの分断・対立」の話なのだが、僕はこの映画が示したのは、政治に限らず、現代に蔓延する様々な分断の行き着く先にある地獄だと思っている。
現代のインターネットは分断と対立を可視化させたにとどまらず、分断された人々のバトルフィールドと化してしまった。今この瞬間にも、インターネットでは「男性と女性」「生成AIの是非」「反ワクチン・陰謀論」「美醜」「金持ちと貧乏人」「きのこたけのこ」「おねショタにおいてショタが巨根であることは許されるのか」など、様々な題材で対立する人々が、今日も元気に言葉を振りかざして殴り合っている。
それどころか一部の人は好んで対立を生み出し、相手をやっつけて快楽を得ようとしている。でなきゃ「三色チーズ牛丼」だとか「子供部屋おじさん」といった蔑称が生まれて平然と使われたりしない。これからの人生でインターネット以外に接点が生まれないだろう他人が!チーズ牛丼好きだろうと実家に住んでようと!!どうでも!!!いいだろ!!!!
平然と略奪者を痛めつけて晒し者にしているガソリンスタンドの店員や、本作の象徴である赤サングラスの兵士には、「俺の掲げる主張は正義だ!ほら!インターネットの人たちもそう言っている!その正義を疑うお前は悪だ!悪には何をしたっていい!!」と言わんばかりに、違う主張を持つ人々を口汚く罵り、レッテルを貼って冷笑する彼らの姿が重なって見えた。
討ち取られた大統領の死体を囲んで、西軍の兵士たちがまるで「狩りででっかい獲物を仕留めたぞ!」と言わんばかりにニコニコ笑っているラストシーンも、アレックス・ガーランド監督に「綺麗事で理論武装してるけどさ、お前たちは結局、誰かをやっつけて気持ちよくなりたいだけなんだろ?」と言われたようで、寒気が走った。
◆色褪せぬあの夏:ジュブナイル
24年ぶりの本作のリバイバル上映の一報を聞いた時には、喜びもあったが実は不安でもあった。
山崎監督は直近の『ゴジラ-1.0』でだいぶ汚名返上した感はあるものの、しくじる時は派手にしくじることから、オタク界隈では「駄作請負人」的な扱いを受けることの多い人だ。自分の中にもそういう認識がないとは言えず、24年ぶりのテトラたちとの再会には「ひょっとして、24年前の楽しかった記憶はいわゆる『思い出補正』なのでは?今見ればジュブナイルもつまらないのでは?」という不安があった。
だが、いざ24年ぶりに4人とテトラに再会すると、そんな不安はすぐに吹っ飛んでしまった。
客観的に見ると粗やツッコミどころはあるし、手放しに「名作」と言うことはできない。でも、そんな理屈をぶっ飛ばして観客の、というか僕の心を掴むパワーが本作にはある。
4人とテトラの冒険には、少年の頃一度は空想した「夢」と、もうかすれた思い出になってしまった「原初の青春」が詰まっており、別に泣かせる場面でもないのに、彼らが生を謳歌する姿を見ていると涙がこぼれてしまった。
残念なことに我々の周りにはテトラも、神崎も、ボイド人もいなかったが、ガキらしくやんちゃに生きる彼らの振る舞いはかつて子どもだった僕らには馴染み深く、ノスタルジーに満ちている。特に祐介たちがスクラップ置き場からテトラのボディ用のパーツをくすねて管理人に追われる場面は、僕も幼少期に、管理人が姿を見せないのをいいことに、同じ団地に住む仲間たちと近所のスクラップ置き場を勝手に「秘密基地」と称して溜まり場にしていたことから、自分の過去と懐かしき青春を重ねて感動していた(トーゼン大目玉を食らいました。関係者の皆様とそれに対応してくれたお母さん・お父さん、あのときは本当に迷惑をかけました。ごめんなさい)。
「世界がどんなに褪せて行っても とめどなく流れる光は決して消せない」。
本作のメインテーマ「JUVENILEのテーマ〜瞳の中のRAINBOW〜」の歌詞の一節だが、この一節はこの映画を簡潔に評するフレーズに相応しいだろう。僕も3X歳になり、ままならぬ現実を知り、かつてのように世界のすべてを無邪気に楽しむことはできなくなった。しかし、この映画は、我々がかつて、世界を全身で謳歌していた「輝くJUVENILE」のことと、その尊さ、美しさを思い出させてくれる。
4人とテトラの夏休みは、24年経っても色褪せないどころか、かつてリアタイで見たあの時よりも美しく、輝いて見えた。
◆24年ワースト映画
残念ながらあまり楽しめず、ランク下位に置かざるを得なかった映画たち。
◇カミノフデ 〜怪獣たちのいる島〜
以前感想noteに書いた「特撮100点、ストーリー30点」「LV100の特撮オタクが作った自主制作映画」という二言で簡潔に表せる映画。
特撮造形のレジェンド、村瀬継蔵氏が手がけるオールドファッションな特撮そのものは素晴らしいし愛も伝わるんだけども、それ以外が本作がインディーズ映画という点を加味してもあまりにお粗末でチープ。
特に主人公の片割れを務める「城戸」役の楢原嵩琉くんの、拙い演技とキモオタ演技が合体事故を起こした、嫌な意味でキモさが真に迫った演技は忘れようにも忘れられない。
今思うと、一般通過樋口真嗣とか、釈由美子マンホールとかのネタを使う姿勢も「身内ノリ」的な悪ノリを感じさせて、自主制作映画スメルを増幅してしまっていたなあ。
◇マダム・ウェブ
「金返せ!」的な怒りはないんだけども、全方位満遍なくつまらなかったと言うか…。
さきほど『きみの色』の感想で「キャラクターに応援したくなる愛嬌・隙があるから、起伏がなくとも退屈ではない」という話をしたが、マダム・ウェブはその真逆で、キャラクターが全員好きになれないので、起伏があっても退屈。
「未来を変えてみせる!」と決意した割に3人の少女を半端に助けて「私はもう知らない。後は警察の出番」と事態を投げ出してしまうキャシーも、同情すべき点もあるものの「身勝手な行動を取って事態を悪化させる」アホぶりしか印象に残らないジュリア・マティ・アーニャも全く好きになれず、終盤に4人が一致団結して派手なアクションが始まるまで、かなり退屈だった。
「脚本の都合でさしたる理由もなくモーテルに戻るキャシー」「おそらくアメリカ中に顔が割れている状況で、3人の少女をベンに預けて自身のルーツであるペルーに飛ぶキャシー」「非常に薄いせいでいまいち機能していない『キャシーが母を恨んでいた』という伏線」などの派手なツッコミどころや、「後にスパイダーウーマンとなる」とされる3人の少女がほとんど事態の打破に寄与しないなどの不満点もあり、残念ながらこの映画は2024年の映画の中でもワーストクラスと言わざるを得ない。
◇ゼーガペインSTA
「『ADP』のキョウを復活させて、シズノ先輩を救うと同時に、『過去作主人公と現主人公の共演』というオタク大好物シチュエーションを実現させる」という荒業にはアイデア賞を送りたいし、TV版のファンとして燃え上がったシーンもあるものの、それ以外が雑。
特に旅行初心者のパッキングのような詰め込み気味な構成には、常に「もっとゆっくり物語を見せてよ」という不満がつきまとった。
これはTV版の敵集団「ガルズオルム」にもあった問題なのだが、今回の敵であるオルタモーダ六人衆は掘り下げが薄味で、やっつけてもカタルシスがないし、「同情の余地がある悲しき悪」として見ようにもキャラが薄くて感情移入できないのも見ていて退屈だった。彼らはリーダーのハルを除くと矢継ぎ早に出てきて「俺の名は◎◎!俺の能力は××だ!死ね!光なき者!」と言って襲いかかってくるだけの存在で、倒されても「我々は死ぬことを恐れない…」とか言って無感情で爆散していってしまうので、本当に「中ボスが死んだか」という程度しか感情が動かない。
パチスロ初出らしい真の黒幕「ナフシャ」もぽっと出感が凄まじく、過去と現在のキョウの共闘には燃えたもののカタルシスは薄味。
映像面も、今年に、ゼーガと同じく満を持して復活した『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』『コードギアス奪還のロゼ』『モノノ怪 唐傘』などが豪華絢爛な映像でこちらを魅了してくれたのに対し、本作は常に「悪くはない」レベルで派手さに欠け、加えてパチスロからの映像流用もあって、あまり印象に残らない。
ゼーガペインというシリーズに対する思い出補正をもってしても、無条件に褒めることはできなかった映画。
茶化しとかじゃなくて割と本気でゼーガ有識者の方に教えてほしいんですけど…結局ツクルナってなんだったんですかね?
◆おわりに
しばらくは収入を断たれた生活が続くことが予想される2025年だが、それでも今年と同じように、なんとか金を捻出して映画を見る生活は続けようと思っている。
気になる映画は2025年にもたくさんある。1月からして『カルキ 2898-ad』『機動戦士ガンダムジークアクスBegining』『アプレンティス』『メイクアガール』と、四本も見たい映画がある。
もちろん、25年も見た映画に関してはどんどん感想を残していくので、来年もよければnoteのフォローと、記事へのスキ&拡散をよろしく頼みます!!