落語家 立川いらく を偲び亀戸餃子を献じた話 - 彼の『 芝浜 (AI版) 』を評す
もう随分と前のことになる。私は世田谷方面から羽田に向けてあるタクシーに乗ったのだが、その運転手の男性と落語の話になった。
20代であろうか。体が大きく運転席が窮屈に見え、黒縁の太い眼鏡に、長めの髪の毛がチリチリと四方八方に広がっている。
環八を快走しながら少し話をすると彼は北海道から上京し、漫才師を目指しながらタクシーで生計をたてているらしい。彼は芸の道を進みながらも、落語はほとんど聴いたことが無いという。年末だったということもあり、私は彼に『芝浜』を聴いた方がいいと伝えた。
実は私はその当時『芝浜』しか知らなかったので適当に話したのだが、彼は私が車を降り際、その大きな身体で必死にメモをとっていた。彼はどうしているだろうか。名前を聞いてもよかったがあえて聞いていない。いつか液晶画面越しに再開をしたいものだ。
その後私もそれなりに、いや聞きかじり程度に噺もいくらかわかるようになったが、それでもやはり『芝浜』は素晴らしいと思う。
特に私は『立川いらく』の『芝浜』が忘れられない。それは私自身が彼と交流があったという理由もあるが、彼のそれがあまりにも最低だったために忘れられないのだ。
恐らく『立川いらく』その人を知らない方も多いだろう。まずは彼について語らなければならない。また落語に明るい諸先輩方はこの小僧つまらない話をするもんだと大目に見て頂き、せめて最後まで読んで頂けると大変有り難い。
『立川いらく』は独りよがりな落語家だ。私も今までに彼が一番好きだという方には出会ったことは無い。
『立川いらく』彼はもともと『立川いらん』という名であった。それは国名のイランとは全く関係が無く、付き人時代の様々な失敗により彼の師匠から「お前は駄目な奴。いらん奴。お前は『いらん』で十分」と言われていたためだ。
こんな話がある。
付き人時代、彼の師に関西での落語会があった。師匠は彼に、高座当日の東京から新大阪までの新幹線チケットの手配を頼んだ。
彼は早速『みどりの窓口』へ行く。列に並ぶと妙にかすれた声の駅員が「次の方どうぞ」と案内し彼のチケット購入の番になる。ただ彼は個人旅行経験も少なく、新幹線にほぼ乗る機会がなかったため『のぞみ』『ひかり』『こだま』の違いがわからない。そこでなぜか『のぞみ』よりも時間のかかる『ひかり』の席を買ってしまうが、そのまま師匠も気が付かず二人で『ひかり』に乗車し、関西での落語会に少しばかり遅刻したという話だ。
この理由はその当日の彼の師の落語のまくらとなり、合わせて少しの遅刻の言い訳にもなった。録音集より1990年代初頭の大阪のものを聴くと、テープ音源独特のザラザラしたノイズとともに、その特徴的に高くしゃがれた声を、マイクは捕らえている。
「…皆さん今日は遅刻やらかしちまって…すいません。俺の弟子でね、いらんってやつがいるんですが…そいつがまぁ与太郎で。今日ここに来るまでの新幹線の券、あれを『のぞみ』じゃなくて『ひかり』で買っちまいやがって…。…(中略 : 『ひかり』が『のぞみ』より遅いことの説明が入る)…で、俺はお前なんで『ひかり』なんて取ったんだって聞いたの。するとあの野郎「世の中で光の速さを超えるものは無いと思ったのでつい…」とか何とかぬかしやがる。俺も頭にきちゃってさ。バカ野郎ちゃんと調べとけ『のぞみ』が『ひかり』より早いんだよって言ったら、あの与太郎「ああそうすると『のぞみ』以外の時間の進み方が遅くなっちゃう」……」
私は後年、その時の与太郎、つまりいらくと新小岩の居酒屋『魚参』で瓶ビールをつつき合いながら、この真意を確かめた。すると新幹線の間違いは本当、そしてこの件で師から叱られ平謝りした後「『ひかり』より早いって相対性理論かよ…」とつぶやいていたのを師に聞かれていたらしい。ちなみに彼は物理化学系の専攻だったようだ。
ともあれこうした付き人生活が続いていたわけだから、彼は愛想を尽かされる可能性もあった。ただ稀有なことに謝罪の才能があったようで、失敗の度その謝罪を通じ、師はそこに光るものを見い出し、あえて残したと聞いたことがある。むしろ失敗が無ければ残れなかったかもしれない。確かに彼は情感を込めた人情噺を聴かせることはあった。ただ大体は彼のつまらない改変により台無しになるのだが。
さてその『立川いらん』がなぜ『立川いらく』になったか。
ある朝、彼の師が飲み過ぎ食べ過ぎで辛そうにしている日があった。そこで師匠は「おい…いらん。何か薬持ってないか?」と聞くと、彼は少し考えたあと「はい。もってます」と言って胃腸薬を一袋、すっと出す。
彼の師は余程辛かったのかそれを受け取ると、非常に感激した様子で「お前はえれぇ!いつも胃腸薬持ってるなんてなかなかできねぇ!」と言い、少し考えると「今日からおめぇは『胃らく』な」となった。そのため彼の名は国名のイラクとは何も関係が無い。
さて、なぜ彼がいつも胃腸薬を持ち歩いていたのか。それは師匠からくるストレス…ではなく師の飼う猫にあった。
師匠の修行は厳しい。真打昇進までに10年以上かかる兄弟子も何人もいた。そして事実彼もすでに数年間『立川いらく』として二ツ目で足踏みしていた。
そこで彼はある日賭けにでる。「師匠。もし私が師匠の猫を落語で感動させたら真打にさせてもらえませんでしょうか」と訊ねたのだ。すると師は「おめぇ何言ってんだ?」と言いつつも「あぁいいよ。猫様感動させることができるんなら人様だって感動させられんだろう。ほらやってみな。今ここで」と返す。そこで彼は「では一席やらせて頂きます」と言って、師と傍らに眠る猫に対し『猫の皿』をはじめた。猫はちらりと彼を見る。白と黒の少し耳の大きい猫だ。
噺は淡々と進んでいく。当然練習は怠らないためすでにいらくの噺は完成度の高いものになっている。噺の終わり、つまり、下げ(さげ)の一言「猫が売れる」とやったその瞬間。すっと猫が立ち上がりいらくの胸にニャーニャーとまとわりついた。それを見た師匠は驚いて「おい…いらく…おめぇさん…今日から真打な」。
私は猫が好きで、私なら、いや皆さんにも絶対に真似をして欲しくないが、いらくは胃腸薬で猫を手なずけていた。何年も真打になれない彼は考えに考えた末、なぜか師匠の猫に落語を聞かせて感動させるという考えにたどり着く。本人によると師を観察するなかで、これであれば認めてくれるだろうと思い至ったらしい。彼の下らなさがたまたま功を奏した稀有な例であろう。
はじめは普段通り猫へ落語を聴かせていたのだが、当然何も起こらない。そうしたなか、ある日たまたま猫が師匠の靴下の匂いを嗅いでゴロゴロと上機嫌にしているのを見、その時は「そういうこともあるもんか」と思っていただけだったが、また別の日に師匠の革靴の匂いでゴロゴロしている姿を見かけた。もしかすると猫はエグい匂いが好きなのかもしれないと思うとなぜか彼は漢方薬の匂いを思いつく。すぐさま犬猫用胃腸薬を買いに行き、その匂いを嗅がせたところ、師の猫は飛びつくように反応した。そこからは『猫の皿』の下げの一言が終わると必ず胸に抱き寄せ胃腸薬の匂いを嗅がせるようにする。師の猫はこれがたまたま好きだったようでそのうち「猫が売れる」の一言で、自然に寄ってくるようになったそうだ。
すると実は師匠に飲ませた胃腸薬。あれは犬猫用ということになる。
なお胃腸薬で猫に効果がなければ、次はすっぽんの粉末を使おうと考えていたらしい。理由は彼が亀戸出身だから亀にちなんで、というただそれだけだ。ちなみに私も彼と錦糸町ウインズ裏の亀戸餃子の店へ何度か行った。亀戸餃子は野菜が多くうまい。本店に一緒に行ったことが無かったのが残念だ。なお噺を『猫の皿』にしたのも猫が相手であんまり長くないからというそれだけだったようだ。
私はいらくとジャズが縁で知り合った。彼は趣味でテナーサックスを吹いていて、ある誰でも参加可能なセッションで一緒になった。最初はもちろん落語家とは知らずに一緒に演奏していたのだが、演奏後の飲み会で「わたしゃ噺家でね」となる。彼は「音は消えちゃうから。だから落語もジャズも面白いんだよね」とやけに使い古された名言めいたことをつぶやいていて、私は「つまらないな」と思ったことを覚えている。ただ彼の声は濁りの無く澄んだ、よく通る低音で、その張り感というか、そうしたところが彼の吹くテナーサックスと共通しており、その自由なソロは上手くはないがなかなか面白かった。
さて『芝浜』と彼の『芝浜 AI版』についてお話したい。私流のあらすじは以下になるが、まだ『芝浜』を聞いたことがない方でも、今後『芝浜』を聴いて魅力を失うことはない。そのためできれば読んで頂きたい。また落語好きの諸先輩方には大変恐縮ではあるが、未聴の方への配慮のため無粋なことをしていると大目に見て頂き読み進めて頂けると嬉しい。あらすじは今後の話に関係してくるのだ。
ある魚屋の夫婦がいた。夫は酒好き従って散財し貧乏暮らしをしている。ある日、今日食べるものにも困った妻が、夫を強引に仕事に出すが、朝が早すぎたため魚市場が開いていない。そこで夫は市場の近く、芝の浜へ赴き煙草を一服し、海水で顔を洗っていると、なんと大金の入った財布を見つける。夫は仕事どころではなくなり帰宅後、妻にそのお金を渡し、今日は宴会と言って友人達と呑んで騒いで酔った勢い寝てしまう。そして翌朝、妻に大金の話をするが妻はそんなものは知らないおまいさん夢でも見たんだろううちは今まで通り貧乏よとの一点張り。宴会の支払いも残した夫はこの件で深く反省し一念発起。酒を断ち一生懸命働きようやく生活は楽になった。三年目の正月、夫は「そういや昔あんな金を拾った夢があったな」と言うと妻は「実はあのお金おまいさんが拾ってきた翌日騙されてとられちまったんだよ」と一言。夫は久々に妻に勧められた酒を一口「酔狂な 夢でも見てぇ」という五、七調の一言で下げだ。これは、金を拾ったあとの宴会で酔ったまま夢を見ているような気分だ、という意味と掛けている。
いらくは晩年、とはいっても比較的最近の話ではあるが、妻がお金を騙し取られた部分、それを「実はあのお金、AIで投資したら溶かしちまってね…おまいさんごめんなさい」としつつ、下げは通常通りに一言「酔狂な 夢でも見てぇ」とした。これは彼が言うには『芝浜 AI版』だそうだ。私は彼の友人だが、その場で聴いておりこれは今までの噺を台無しにする間違いなく最低最悪な改変だと思った。第一、彼は師が謝罪からその才能を見出したように人情噺はなかなか聴かせる。だからこそ、この下らない改変が悪目立ちしたのだ。後に彼はAI(人工知能)のことはほぼ何も知らず「ハーレイ ジョエル オズモンド君の映画だろ?」と言っていた。何がしたかったのか。
そしてそれは当然のように観客にも大不評で、下げの一言の後、彼が頭を下げると間髪入れず「お前の高座は一生行きたくない!」とか「胃腸薬にあたって死ね!」など飛び交い高座は荒れに荒れた。
私は彼のこうした、確かに面白くはないが悪意もない悪ふざけはむしろ好きだが、これは間違いなく立川いらく史上最低の高座だったろう。ぜひ多くの方にこの最低さを聴いて頂きたいのだが、残念ながら録音が無くもはや聴くことができない。色々な意味で音は消えてしまうからこそ尊いのだ。
この高座に関係があったのかどうかかわからないが、いらくは数カ月後体調を崩す。
異変は中学校の体育館で行われる芸術鑑賞会「落語体験」での『寿限無』だった。ご存知の方も多いだろうが『寿限無』はとても名前の長い少年がおり、その名前を何度も噺の中で繰り返すところが聴かせどころというものだが、彼はこうした学校での『寿限無』の際、つらつらと続く名前の最後「長久命の長助」の部分を必ず「長久命の『いかりや長介』」と改変し、その後ドリフターズの名前を全員続けるという、大学の落語研究会のような改変を常にしていたのだが、たまたまその日、江戸川区の某中学校での会に同席した彼の妻がいつもはドリフ全員を忘れずに言うところ、『仲本工事』を忘れていたことを不審に思う。
心配した妻が彼を健康診断に連れて行くと幸いなことに頭の方は問題がなかったのだが、残念なことに胃に影が見つかった。それからはあっという間だった。
私もせめて一口だけでも食べて元気になればと最初の頃は亀戸餃子を手に何度か見舞いに行ったが、行くたびに痩せていく彼の姿を見るとなんとも言えない気持ちになり、晩年は止めた。
彼は亡くなる数日前、妻に思い出したように次のように語ったらしい。
「『芝浜』さ。あれ本当なら拾った金を夢にしてくれた女房に感謝すべきだろ。あれで旦那は一生懸命働いたんだから。でも何ていうか俺達の…この世界の『芝浜』って金にほんの少しでも未練が残ってるみたいだろ?『酔狂な 夢でも見てぇ』なんてさ。あの金まだあれば良かったなって未練がましい感じするよな。だから俺がAIで金を溶かしてってやったのはそれへの対抗心だったの。もう一度どっかで本物の『芝浜』がやりてぇなぁ。あぁ腹の調子が悪りぃ。胃腸薬ある?犬猫用のでもいいんだけど」これが最期の一言だったということだ。
私は彼の深川の自宅、祖父母の家のような空気が漂うその家で、仏壇に亀戸餃子を供えつつ、彼の妻からそんな話を聞いていると、彼女は老人特有のしゃがれた声でこう続ける。
「あの人いくらかお金遺したのよ。数千万円。でもね、それ全部エーアイ投資?に預けちゃったの。増えても増えなくてもいいから、それがあの人への弔いになるかなと思ってさぁ。別にもうそこまでお金なんかいらないしねぇ。毎朝美味しい果物食べられりゃそれでいいから」と言う。
そして彼女は仏壇に向き直る。遺影のいらくと目が合う。語感に潤みを含むも、その枯れた声で「まぁあんたもう一度…」とつぶやくとお茶を一口やって一言。
「夢でも見さして」
(おわり)