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また読書に追われる日々へ

本を借りられなくなる図書館からの積ん読が一段落ついて、またいつも借りている図書館からの本を借り始めた。

そうすると、自然に本を読むようになった。どうしても読んだ指標として数に目が行ってしまうが、3月は現時点で約30冊読んだ。速読っぽいものもあるので内容を覚えているか?と言われれば何とも言えない。個人的な言い訳としては、小説・ラノベは何回読んでもいいと思っているので内容は忘れても構わない。内容を踏まえた上で見えてくるものもあると思うが。

ここで考えたいのは、今月読んだ本はほぼ図書館から借りた本です。自分で買った本に手が出ないのはなぜだろうか。Kindle unlimitedにも契約しているがそちらも読んでいない(Kindleは移動中に読めばいいと思っていたが、図書館から借りていないのであればそちらを読んでもいいはずではないか)。

本を所有しているという安心感が図書館から借りた本よりも手を出しにくくしているのではないか?と思う。

昨日読み終えた『生きがいについて』の解説では以下のことが書かれている。

そこで考えなければならないのは、人間はそういう「切迫感」に襲われなければ、精神的なものに価値を置く生き方ができないのかという問題だ。

『生きがいについて』 p349

この言葉が出てきた場面としては、難病にかかり社会的に疎外され、精神性を問われる場面である。似たような事例として、会社の倒産や配置換えも書かれている。

私の今の状況も精神的な生きがいを失っているというのも満更でもない(でなければこの本は手に取りにくいだろう)。

私は2年前から読書にどっぷりはまったと感じている。「もっと早くから読めば良かった」とも思った。けれども、もっと早くから読んで自分に響いたか?と言われれば何とも言えないので、然るべき時に読んだのだと解釈している。今はまさにそういう精神的な問題が全面に出ている時期で、それを補完してくれるのが読書なのだろう。

そういう意味では、引用した文章は非常にクリティカルに効いてくる。というか、答えを知りたくなる(答えは自分で見つけるしかないと薄々気付いていながらも)。

引用した文章のジレンマのヒントとして、ガンを患った小学校の校長先生のエピソードが書かれている。このエピソードの結論としては自分の人生経験を他人に率直に語りかけることだと解釈した。熱意のまま自分が思ったことに当たれと。

そういう点を考えると、私がnoteに書き綴っていることも似たようなことではないかと思う。自分がnoteを書く目的も自分のためがメインとは言え、誰かに見られるわけなのだから誰かに伝わる。人を介するという点で校長先生のエピソードと通ずることがあると思った。

ここまで書いて、最初の話に戻ると、本を図書館で借りるのは自分には切迫感を課して精神的な問題に目を向けさせる目的が無意識にあるのではないか?と思った。安心感は切迫感と対照的な言葉と言ってもいい。そういった面から安心感は精神的な問題から目を遠ざけるのではないか。

比較するのはどうかと思うが、命の危険が無くとも自分の精神面を考えさせるのに「期限が迫った読書をする」ということで叶えられるのであればそれはそれでプラスなのではないかと思う。

穿った見方をすれば、「締め切りの奴隷」という考えも出来る。そう思うと少し気持ちは盛り下がる。要は物事の捉え方なのではないか?と思う。モチベーション的なことを行動の動機に考えるのは難しい。体と心がちぐはぐな場面が多々出てくるだろう。

今日はこの辺で。

では。

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