「目的への抵抗」を読んで。目的と手段の関係
昨日、本屋に行ったときに発見しました。
『暇と退屈の倫理学』を書いた國分先生の本です。文學界でのオードリー若林さんとの対談も読んで、すっかりファンになりました。
これは買いだ!
と思って買いました。
全体的な感想としては、まあこんな所かという感じです。というのも、本書のはじめにこの本で書かれているのはまだ道半ばの話ということが書かれていたからです。そうは言っても私は一種の結論を求めていたからまあまあと感じたのだと思います。けれども、ポイントポイントで「そういう視点か!」とハッとさせられることも多かったです。
この本は2部構成になっています。前半は東大TVのオンラインで行われた講義を起こしたもの。後半は東大の年末講義として行われたものです。
前半の東大TVの講義は本でも書かれていたようにYouTubeで動画を発見しました。
3時間弱あるので、ゆっくり見ようと思います。
前半はアガンベンという哲学者を出して、コロナウイルス禍における異常性について3つの観点から説明していました。
どれも噛みきれていませんが、移動の抑制や三権分立の関係性に関してはもう一回読んで考えたいと感じました。
移動の抑制に関しては、ドイツのメルケル元首相の演説を引き合いに議論されていましたが、演説が絶賛される理由については本書を読んで初めて共感できました。
以下に本書で書かれていたことを載せておきます。
三権分立の方はいまいちピンと来ていません。いろいろなことが閣議決定されることに疑問を思わないことが変だ、と言っていますがピンとこないので私が分かっていないのでしょう。けれども、技術の進歩が早くて法律ができる前に行政が施策を打っていかなければいけない今の状況は行政の力が強くなっている。という話は以前もどこかで聞いた覚えがあったのでそこを支点に考えるとこれはもう少し勉強しなければと思いました。
本書の後半は読んでいて、私が望んでいた内容だと直感的に理解しましたが、今このnoteを書いていると、前半も確かに本書タイトルの内容を捉えていると分かりました。
ハンナ・アレントを引用して、
目的は手段を正当化するためにある
と言っています。これが前半部分とどう結び付くのかというと、
コロナウイルスを押さえ込むため(目的)なら、移動という人類が獲得したこと(手段)さえも手放していいと理解しました。
今を生きる私たちにとっては外に出て活動することは至って特段変なことではないです。けれども、戦時中は外に出ることさえも許されなかったことであるいみ自由に外に出るというのは人類が獲得したこととも言えます。それを簡単に手放せる目的はすごいなと。勝手にしてしまう魔力のような物を感じました。
目的は手段を正当化するということを自分の身の回りのことで考えてみると、2つ思い付いたことがあります。
1つはnoteへの毎日投稿です。
noteには1年間毎日投稿するとバッチが貰えます。どうしてもこれを達成したいと思っていますが、気づけば途絶えています。けれども、諦め切れないです。これは私の収集癖だと思いますし、noteがユーザー離れをさせない施策の1つだとも思えます。
この目的達成のために最初に抵抗感があった、つぶやき機能も使うようになりました。とりあえず投稿すればいいと。自分の書きたいことを書くことからバッチをゲットするために書いていることへ、ちょっとずつずれているとも言えます。主題がバッチ獲得になり、その中でも自分が書きたいことを書くみたいなことになっているのかなと。承認欲求とか、習慣を作るためにnoteを書き続けると何回か書いた気がしますが、それよりも書き続ける魔力的なものは目的の方が強いような感じがしています。
2つ目に漢字検定を受けることです。
つい先日、漢字検定を受けることに決めました。これも目的の設定です。
検定を受けること自体と合格するという2つの目的の設定です。受けること自体は期日までお金を払うということだけなのでお金さえ手元にあれば目的達成は可能です。試験合格は元から合格基準の能力があれば特段何もしなくてもいいですが、無いなら勉強する必要があります。当たり前のことです。
上のnoteでは自ら達成感を味わうために漢検を受けると言っているので、自ら目的を立てています。この目的を達成するための手段として勉強をする必要があります。この手段としての勉強を機会に色々やってみようと思ってます。
根本的に漢字検定は暗記物の検定だと思っています。過去の受験経験から「この漢字の部首を書きなさい」という問題があります。けれども、「何でここが部首なのか?」とよく分からないことがあるのでこの際に部首について色々調べてnoteに投稿してみようと思ってます。
これは案の1つですが、他にも四字熟語がすごく苦手で、これも何かできたらなと思ってます。調べて自分なりに解釈し、何かしらに落とし込むことで確実に覚えやすくなると思っているので目的を達成する手段で遊べたらと思っています。
本書でも私が思っている漢字検定に対する態度に似たようなことが書かれていました。学校の文化祭で何かをするという目的が決まった中で色々アイデアを出しあったり、実際に目的に沿って行動していくんだけれども、話し合い自体が面白かったり、作業自体が楽しかったりすると。こういう感覚はアレントが言っている自由な行為とそんなに違わないのではないか?と言っています。