ASD傾向の双子が偏差値30代から国立医学部へ進学した3つの習慣
賢い子どもを育てるシリーズ 第4弾
私の双子の息子たちは、現在、東京都内の国立大学医学部の5年生です。
「小さい頃から優秀だったんでしょう?」と聞かれることがあるのですが、いえいえ。
彼らの発達はとにかくゆっくりで、育児には多くの試行錯誤と苦労がありました。
感覚過敏、発話の遅さ、癇癪、偏食、こだわり、痙攣など様々な難しさがあったので、今思えば、自閉スペクトラム症(ASD)のグレーゾーンにいたのではないかと感じています。
子育てで大切にしてきた3つの習慣
私が息子たちの育児で大切にしてきたのは、次の3つです。
この習慣も、当時の私にとっては苦肉の策で生まれたもので、この3つを守らなければ生きていけない状況だったため生まれた習慣でした。
習慣1:たくさん遊ぶ
双子が小さい頃は、朝起きるとすぐにコンビカーで公園へ向かい、朝食を取り、保育園の時間まで遊ぶのが日課でした。お迎え後も再び公園や電車を見に行き、夕食も公園で済ませることが多く、泥だらけで帰宅してシャワーを浴び、そのまま寝かしつける毎日。
ほぼワンオペの中、家にいると大泣きする双子と、深夜帰宅でうるさくて眠れないと言う夫との生活では、外で過ごすしか方法がありませんでした。
家庭での落ち着いた時間も彼らには必要だったのかもしれませんが、この外遊び中心生活は、私自身の精神的な安定や虐待を防ぐための手段でもありました。
外で過ごすことで、家の片付けが減り、子供たちはよく遊んで機嫌が良く、夜もぐっすり眠ってくれるので、私も心の余裕を持つことができました。これは当時の私にとって最善の方法だったのです。
このような幼少期を過ごした双子は、小学校以降も外遊びが基本となり、サッカーや水泳を楽しみ、友達と活発に過ごしました。
サッカーは「世界共通言語」
アメリカに引っ越した当初、息子たちは英語が全くできませんでした。
私は当時、英語教師だったので、渡米前に少し英語を教えようとしましたが、息子たちは全く興味を示さず、覚えたのは「SOCCER」だけ。無理に教えると英語嫌いになると思い、早々に諦めました。結局、アルファベットも知らないまま、現地校の5年生としてスタートを切った息子たち。
初日、帰宅すると「すごく楽しかった!」と笑顔で話してくれました。休み時間にはサッカーをしてすぐに友達ができたのだそう。
男子にとってのサッカーは偉大ですね!!
その後、彼らはクラブチームに入り、毎日の練習や毎週末の遠征試合に真剣に取り組んでいました。しかし、日本に帰国直前、息子の一人が試合中に膝の十字靭帯を負傷し手術が必要に。その後1年間のリハビリが課されました。
その時、「今まで十分に遊んできたから、これからは勉強に集中するよ」と、彼ら自身が決意しました。
習慣2:しっかり睡眠をとる
どんなに勉強が大変な時でも「しっかり眠ること」を何よりも大切にしてきました。たとえ大学受験の追い込みの時でも、夜9時半には寝て朝6時半には起きる生活リズムを守り続けていました。なぜなら息子たちは睡眠不足になるとすぐに体調を崩すから。成人した今でも、睡眠不足が続くと熱を出します。
習慣3:毎日の家庭学習
家庭学習を始めたきっかけは、小学校1年生の成績表でした。
あまりの成績の悪さに、夫婦で危機感を感じ「しっかり家でサポートしよう」と決めました。そこで始まったのが「パパのノート」です。
「パパのノート」でコツコツ家庭学習
「パパのノート」は、夫が学校の授業で息子が間違えた箇所をまとめ、それを中心に復習するというシンプルな学習法です。
家庭学習で守った3つのルール
パパのノートでの家庭学習には、夫婦で決めた3つのルールがありました。
1. 学校よりも先取りしない
当時、公立中学で教員をしていた私は、先取り学習が必ずしも学力向上に効果的ではないことを実感していました。塾で先取りをしている生徒は、学校の授業を退屈に感じてしまい、積極的に取り組めなくなることが多いのです。まだ十分に理解していない部分でも「もう分かっている」と錯覚し、結果として基礎が固まらないまま進んでしまうのです。
息子たちには、学校の授業で新しいことを学ぶ楽しさを感じてほしかったので、家庭での学習は「学校の復習」だけに絞りました。
2. 30分以内で終わらせる
子どもに負担をかけすぎると、勉強が嫌いになってしまいます。特に息子たちは遊びやスポーツで忙しいので、無理のない範囲で毎日続けられるようにしました。
3. お正月でも旅行中でも必ず毎日やる
旅行中でもお正月でも、毎日必ず「パパのノート」をやる習慣を守りました。一日10分から30分程度なので、子供達から不満が出ることはありませんでした。
継続のコツは父と子の絆
夫は多忙で深夜に帰宅しても、必ず息子たちの「パパのノート」をチェックし、次の日の問題を作り続けていました。私も最初は関与していましたが、いつの間にか家庭学習の管理は100%夫が担当するようになりました。
夫にとって、このノートは子供の勉強のツールだけではなく、息子たちとの大切なコミュニケーション手段だったのだと思います。子供たちの成長を見守り、サポートする過程を楽しんでいたのでしょう。そしてその父親の思いが息子たちにも伝っていたから、サボらずに毎日続けられたのだと思います。
日本に帰国して唖然!偏差値30代からのスタート
アメリカの現地校で小学校高学年から中学卒業まで過ごした息子たちでしたが、「パパのノートで勉強してきたから大丈夫だろう」と楽観的に考えていました。
しかし、中学3年の2学期に日本へ帰国し、受けた帰国子女向けの模試で目を疑う結果に。
得意だったはずの数学ですら偏差値50程度、国語に至っては偏差値30代という壊滅的な結果でした。
まだ夫はアメリカにいたため、「パパのノート」での勉強も続けられず、さすがにこれではまずいと感じ、週に1日だけ塾に通わせることにしました。
塾に通わず医学部へ
息子たちが進学した高校は特に進学校ではなかったので、数学の強化を考え塾に通わせましたが、数ヶ月後、息子たちは「塾を辞めたい」と言い出しました。
その理由は、「非効率」「睡眠不足になる」というものでした。
塾では、すでに理解している部分にも時間が取られ、逆にもっと時間をかけたい苦手な部分もサラッと流されてしまうことがあり、自分たちの学習スタイルには合わないと言うのです。
息子たちはこれまで「パパのノート」で、間違えた箇所や理解不足の部分に重点を置き、復習を中心に短時間で効率よく学ぶ習慣が身についていたため、塾のやり方は彼らには合わなかったようです。
「パパのノート」を卒業した後、彼らは「自分たちのノート」を始めました。A3サイズの大盤のノートを業者買いして、こんな感じで勉強していたようです。
遊びが活きた大学受験
彼らは、「小さい頃に夢中で遊んだ感覚と、受験勉強は同じだよ」と話していました。高校時代には数学と物理に魅了され、「数学はビデオゲームの10倍楽しい」と言っていました。うまく出来ないと悔しがっていましたが、出来た時の達成感はゲームとは比較にならないくらい気持ち良いんだそうです。
研究への情熱と好奇心
今では心優しい少し変わった青年に成長しましたが、研究に対する情熱は小さい頃から変わりません。体の中から「やりたい!」という気持ちが湧き上がってくるのだそう。この情熱もまた、子ども時代に夢中で遊んだ時の好奇心と同じだと言います。
「好きこそ物の上手なれ」とはよく言ったもので、大人になっても好きなことに情熱を持てるのは、小さい頃にどれだけ夢中で遊び、発散してきたかが基盤になっているのかもしれません。
ASDの特性と遊びの役割
親の目から見ると、彼らはどんな環境でも生きていける青年に成長しましたが、「好きなことにこだわる」性格には、ASDの特性も残っているようです。今後どのような道を歩むのかはわかりませんが、幼少期にたっぷり遊び、いろんな人たちと関わり、自分の気持ちに正直に情熱を追求できたことが、療育としても役立っていたのではないかと感じています。