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掌編小説「紙風船」

 目が覚めると、テーブルの上に紙風船が転がっていた。ほとんど形の崩れたそれをぼんやりと眺めて、私は昨夜も夫が呑みに行っていたことを知った。駅前にあるその居酒屋では、持ち帰りの包装に決まって紙風船を付けるのである。

 夫とは、何年もこれといった会話をしていない。直近で聞いた夫の声は、朝食をつくる私の横で煙草を吸っていたのを咎めた時の、「あぁ」というその一言である。別に何も不自由な事はない。それから三十分もすれば、次の朝まで顔を合わすことはほとんどないのだから。
 私は、あからさまな咳払いで応じ、三人分の朝食を運んだ。
 
 しかしこの日は珍しく、私が目覚めるより先に夫は家を出たようである。テーブルの上の紙風船を横目に、私は台所へと向かった。そこには、きっちりと包装された唐揚げが、無造作に置かれている。
 短く舌を鳴らしつつ、私はかつてあの居酒屋でのお気に入りであったその唐揚げを、冷蔵庫に押し込んだ。夜風にさらされてもなお熱った身体で、すっかり冷たくなったこの唐揚げをつつき合ったあの夜が、何十年も遠い昔の出来事のように思えた。

 いつもより多くなってしまった二人分の朝食を並べ終わり、私は手持ち無沙汰に、不恰好な紙風船を弄ぶ。紙風船に触れるのは、何年振りだろう。少しだけ、ほんのちょっとだけ、久しぶりにこれで遊んでみたいと思った。
 私は、そっと、その紙風船を膨らませた。

 ほんのりと煙草の匂いがしたそれを二、三度手のひらで弾ませてみて、ふっと笑みを浮かべてから、くしゃっと潰した。

「紙風船」(完)

 



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