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ポエティックなポスト

エッセイ教室に通い始めた話

昨年12月からエッセイ教室に通い始めた。場所は都内の某カルチャーセンター。

月に一度クラスが設けられており、お題に沿った各々のエッセイを発表し合う。15名程のクラスメイトの中、大半が70歳以上。私の祖母と同じくらいの妙齢の人も数人いて、教えてくれている先生は祖母よりも歳上。あとの数人は母と同じくらいで、30歳の私は最年少である。

そんなクラスメイトたちとコミュニケーションをとり、人間観察をするのは中々面白い。耳が少しばかり遠いおばあちゃんに、先生の言葉を耳元で通訳する女性の姿。

「このおばあちゃんは、どんな気持ちを込めてエッセイを書き、都会のこの地に足を運んでいるのだろう。」

そう考えると愛しく思えてしまう。カルチャーセンターには色んなクラスがあるのに、あえて、エッセイ教室を選ぶのには何か理由があるはず。過去との対峙だろうか。大昔の思い出の方が、読み手の感情を揺さぶりやすい。私にも様々な過去の思い出のストックがある。

そして、自分の何倍も生きている人のエッセイを読むのはとても感慨深いし、心に響かない訳がない。

様々な感情が、「戦前」「戦中」「戦後」の時代背景を基に描かれている。その時代を体験した者しか思い得ない感情が、そこには溢れているのだ。それ故、彼女たちのエッセイを読む度に、「なんて美しいんだろう。」と思ってしまう。実際にその時代を体験した当事者は、ネガティブな思い出も多いはず。だから、美しいと思うことに申し訳ない気持ちもある。

でもやっぱり、ただただ羨ましい。

彼女たちのように、人の感情や涙腺のキワまで寄り添った文章が書けたらなと願って止まない。

特に「恋愛」について語ると、出逢いから別れまでの彩りが千差万別で面白いなと思う。戦前・戦中・戦後だと携帯はないわけで、「手紙」というツールを通して彼女たちの文章力は開花していったんだと悟った。「女学校」「宿舎」「手紙」「疎開」「汽車」というような時代特有の言葉を耳にすると、彼女たちの頭に思い描かれている情景が、こちらにまで鮮明に伝わってくる。手紙に最大限の思いを載せて、どうかこの無量大数な気持ちが長く長く持ってほしいと、ノッポなポストに手を伸ばす女学生時代の彼女たちの姿が思い浮かぶ。

そんな彼女たちは、ポストに手紙を出しに行くのが日課だったはず。ポストを見ても何も思わない、今を生きる私たち。でも、当時を生きる彼女たちには、あらゆる場所に鎮座していたポストに思い入れがあったはず。

そこには儚い思い出がありつつも、桜色で明るくて優しい感情が籠っているような気がする。鮮やかな部分と、今にも消えそうで淡い色合いの思い出が交錯しているように。そんな消えそうな思い出にも、上手くカラーリングしてエッセイにする彼女たちの文章力には感嘆である。

SNSが発達しすぎた今、私たちは彼女たちのような美しい知性と感情を手にすることはもうできないのかもしれない。そう思うと、なんだか悲しくなる。

たくさんの重い想いを咀嚼して寸胴になってしまったポストは、今何を感じているだろう。いつしか誰も手紙を書かなくなって、存在自体が儚く消えてしまう時が来るのかもしれない。

P.S.
ここで、先日のクラスで発表した私のエッセイを紹介したいと思う。過去にnoteで更新した記事を推敲した。

テーマ『イルミネーション』

錆びれた情愛の灯火 

 私が愛した歌舞伎町はもうそこにはなかった。クリスマスが近い町は活気と電飾で照らされ、三々五々と人々が行き交う。少し歩けば必ず誰かと肩がぶつかり、目的地に辿り着くのも一苦労だ。様々な法改正が成された今、幾分平和な町になったと思う。この日は、友達と行きつけの韓国料理店に行く予定だった。
 歌舞伎町を闊歩する人々は、通りを照らすこの電飾になんて見向きもしない。場所が変われば「イルミネーション」と化し、唯一無二のクリスマスムードとラブストーリーが交錯するのに。だけど、皆、他者とぶつからないように目的地に辿り着くのが精一杯なのである。でも、私はその灯火をただただ見つめて思い返す。
 私が歌舞伎町で彷徨い、嘆き、愛し、幸せの形を追求し続けた数年間。20代前半の頃、歌舞伎町は私の居場所だった。多い時は週6回もホストクラブに入り浸り、誰かのために、自分の全てを犠牲にする尊さと虚しさを同時に味わった。
 私の愛の灯火なんて、常に消えそうなくらいに脆く揺れていた。当時の歌舞伎町は今よりも無法地帯で、ホストクラブに訪れる女性たちはまるでホストのマリオネットのようだった。私も、そんな1人。お金も、時間も、青春も何もかも全て大好きだったホストに捧げた。数年間で様々なホストに出逢ったが、中には倫理的に良くないとされる人たちもいた。
 そのような人たちとの出逢いがある意味良いキッカケになり、ホストクラブという牢獄から抜け出せたような気がする。それ故、ホストクラブに行く道中の若い女の子を見ると、過去の自分と照らし合わせてしまう。この子たちは時代が変わった今、どんな面持ちでその場に赴いているのだろう。
 私の場合は、歪な世界である歌舞伎町で幸せを見つけられると信じて止まなかったのだと思う。なんて哀れなんだと思う反面、歌舞伎町で過ごした青春を愛おしく思うこともある。自分は一生歌舞伎町を愛し、歌舞伎町心中をすると思っていた。絶対に、こんな光と闇が入り混じった世界から抜け出せるなんて思ってもみなかった。でも、その闇がついに全ての光を侵食した時、私は現実を見れるようになった。錆びれた情愛の灯火が完全に消えた瞬間でもある。
 真っ暗闇にならないと気付けなかった現実がそこにはあった。俯瞰して抜け出せたのは何よりだが、いざ今の歌舞伎町を見渡すと何だか切ない気持ちにもなる。なぜなら、昔程の欲望に満ちた歌舞伎町はもう見ることができなくなったから。脆い愛の光が灯る地から、東京を代表する煌びやかな観光地になった。
 すれ違う破顔大笑の外国人観光客を見て、ふと思う。「少し前までの歌舞伎町がどんな街だったか知っているのかな。」と。そんな彼らの姿は、平和の象徴でもあるのかもしれない。
 青春を取り戻せるとしたら、また歌舞伎町に戻りたいか。NOとは言えない。完全に拒絶してしまうと、自分のフラジールな青春を全て否定することになってしまいそうだから。当時の私も自分の愛の灯火を守るのに精一杯で、この煌びやかな電飾になんて目もくれなかった。でもこうやって目に焼き付けることで、少しは過去の思い出を昇華させられると思う。