【小説】人を感動させる薬(3)

(前回)人を感動させる薬(2)

「はぁ。エル先生には困ったもんだ。」

エル氏の住むアパートを出たジェイ編集は深いため息をついた。

実のところ編集長からは次の三作目が二作目同様にまったく売れないようだったら、エル氏との契約を切ると言われている。

そうなれば、担当編集の責任でもあり、ジェイ編集の出世の道は危ういものになるだろう。

エル氏のわがままには困ったものだが、それでもジェイ編集はエル氏をあきらめたくなかった。

エル氏の自宅から会社に戻る途中、ジェイ編集は公園に立ち寄るとベンチに座り、一冊の本をカバンの中から取り出し、広げた。

それはエル氏のデビュー作の単行本だった。

そしてそれを読み始めた。

エル氏のデビュー作の大まかなあらすじは次のとおりである。


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主人公は戦力外通告を受け目標を失ったプロ野球選手である。

妻と一人の息子がいる。

球団を追われた主人公は自暴自棄になり始めるが、そうこうするうちに息子が白血病に侵されていることが発覚する。

不幸に追い打ちをかけるような絶望が主人公を打ちのめすが、病床にありながらも明るく振る舞おうとする息子の姿に心を打たれ、息子の治療費のため、そしてもう一度父親の雄姿をみてみたいという息子のために、主人公はプロ野球の舞台に再挑戦することを決意する。

必死の特訓の甲斐あって、プロテストに合格し、再び主人公はプロ野球の打席に立つ。

復帰した主人公はその年見事に活躍し、それによって息子の治療費も稼ぐことができ、息子の白血病も寛解する。

ラストでは息子が父親に、自分も父親のようなプロ野球選手になることが夢だと告げる。

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読者を感動させるためのセオリーにのっとった、ありきたりな物語だと思う。

物語の構成もプロットもきっと今までにパターンとして使い古されたものだと思う。

しかし、エル氏のデビュー作はジェイ編集がこれまで読んだどの小説よりも彼を深く感動させた。

ジェイ編集はその理由を、エル氏の文章力、とりわけ表現力や心理描写の巧みさによるものであると分析した。

エル氏には才能がある。

たとえありきたりなストーリーであっても感動作品を作るためのセオリーに乗せれば、彼の筆でストーリーの力を最大限まで引き上げることが出来るだろう。

いずれこの国を代表するエンターテイメント小説家に成長してもおかしくない。

そうジェイ編集は考えている。

エル氏という才能を発見したとき、ジェイ編集は彼をエンターテイメント小説家として今後育てていきたいと思った。

そしてまずは、入賞作をデビュー作として出版し、世の人に広く知らしめたいと思った。

しかし、ジェイ編集の思いとは裏腹に、出版社はエル氏のデビュー作の広告費と初版発行部数をジェイ編集が希望するほど多くしてくれなかった。

その理由は出版社が、エル氏と同じエンターテイメント小説大賞で見事大賞を勝ち取ったエイチ氏のデビュー作を大々的に売り出すため、そちらに大きく広告費や初版部数のリソースを割いたからだ。

どんな名作であっても、不十分な広告のために多くの人の目に触れることがなければそのまま埋もれてしまう。

結局、エル氏のデビュー作は当初ジェイ編集が期待したほど売れることはなかった。

ジェイ編集はせっかくのヒットのチャンスを逃す原因となった出版社の決定を、今でも悔しく思っている。

エル氏にエンターテイメント小説を書かせ、ちゃんと広告を打って売り出せば必ず売れるはず、という確信がジェイ編集の中にはある。

しかし、いざ編集者としてエル氏の担当になってみると、肝心のエル氏は純文学小説へのこだわりが異常に強い男だった。

ハッピーエンドで終わるようなエンターテイメント作品のことをご都合主義の嘘っぱち小説と呼んで毛嫌いしており、いくらジェイ編集が説得してもそういった小説を書こうとしない。

小説の内容も、表現や心理描写に凝るばかりで、ストーリー自体は実につまらない。

これでは出版社のエンターテイメント小説大賞の入賞作家として売り込もうとしても、彼の書く小説の内容はエンターテイメント作品とは程遠いし、いつまでたってもヒット作なんて出せないだろう。

一方、同じエンターテイメント小説大賞で大賞に輝いたエイチ氏はエル氏とは対照的に、デビュー作、二作目と順調に売り上げを伸ばしている。

このまま彼が安定してヒットを飛ばし続けていれば会社はエル氏のことを不要と判断し、エル氏は結果を出せないまま間違いなく出版社から契約を切られることだろう。

そんなことになればエル氏をデビューさせたジェイ編集も何かしらの責任を取らされ、出世は危ういものになる。

現に、二作続けて結果が出せていないジェイ編集に対して、最近の編集長からの風当たりは強くなってきている。

ジェイ編集がエル氏を出版社につなぎとめておくため、そして一度は失ったチャンスを取り戻すため、何か手はないかと頭を悩ませていたある日のことだった。

親戚のつてで叔父にあたるケイ博士の研究している『人を感動させる薬』の噂を耳にし、ジェイ編集はすぐさまケイ博士に電話をかけて交渉した。

そして、薬を世間の人々にバレないように実際に使ってみて、その効果をレポートとして報告することを条件に、いくらか譲ってもらえることになったのだ。

ジェイ編集は完成したエル氏の作品の原稿データが入ったUSBメモリと、『人を感動させる薬』を混ぜたインクの缶がたくさん入ったバッグをもって印刷会社を訪れた。

原稿データを提出したらその足で印刷工場に足を運び、印刷機の担当者に

「験を担いで神社で願をかけてもらったインクです。うちのエル先生の本を印刷するときは必ずこのインクを使うように。」と言い含めて『人を感動させる薬』を混ぜたインクの缶と、いくらかの現金をこっそり渡した。

印刷機の担当者は一瞬不思議そうな顔をしたが、思わぬ臨時収入に気を良くしたのか、インクについて深く尋ねることもなく快く応じてくれた。

その日から、印刷機はエル氏の新作の単行本を、小気味良いリズムで音を刻みながら次から次へと吐き出し始めた。

(つづく)

次回 人を感動させる薬(4)

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