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「心配」というエネルギー

とある有名人が長期の休養に入ると発表されたとき
痩せている顔を見て心配になった とか報道されることも多い。
また
子どもに何か出来事が起こったとき
あんな親だからかわいそうとか、このまま引きこもりになったらどうなる?
などなど、不安や心配を言葉にすることが多い気がする。
しかも
当事者じゃない人たちが、勝手にあーだこーだ討論することもある。

確かに、病気が発覚すると心配になるだろうし、
子どもが学校に行けないくなったとき、親としたら将来を心配する気持ちになるのは確かにあると思う。

私たちは、生活のあらゆる場面で、周りに起こった出来事に対して
心配だ とか かわいそう とか 不安だ いう言葉を発したり、
そういった気持ちになっていないだろうか。

私は思春期の頃、いろいろ辛い状況に身を置くことが多かった。
そんなとき「かわいそう」という目で見られることに抵抗を感じていた。
頑張れなくなる(力が出なくなる)気がしたから。
従兄弟が不登校になったとき、周りの大人が「親に甘やかされてきたから、いろいろ頑張れない人になったのだろう。かわいそうだ 被害者だ」と言っているのを聞くたびに、本当にそうなのだろうか?と思っていた。

心配な子(人)と思えば、心配な子(人)が出来上がる

そう心理職の方が言っているのを聞いたことがある

私たちは、それぞれが生きる力を持っていて、何があろうと決して、かわいそうで「心配」されなくてはいけない存在ではない。

心配のエネルギーは、目の前の人やその状況に関わる人から、力を奪う。
あたかも「気にしているのですよ」といい人のような言葉でも、力を奪っている。

それが理解できたとき、私は思春期の頃「かわいそう」と言われるのに抵抗を感じていたことに納得ができた。私は力を奪われたくなかったのだ。

目の前の人が「心配」に思えるのは、自分の中にその状況と同調する何かが存在するから「心配」になるのだ。

心配に思える人や状況が目の前に現れたら、まずは自分の心の中を覗いてみよう。

そして、目の前にいる人には、心配でなく、何があっても大丈夫という応援のエネルギーを送ろう。

・・・これは、私自身に向けての言葉です。


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