実践していないなら、コースを学んでいるとは言えません
実践なしでは、その学びは深化していかない
たとえコース(奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるつもりだとしても、その実践をしていないならば、それはコースを学んでいるとはけっして言えません。
なぜなら、コースは実践なしでは、その学びが深化していくことはないからです。
たしかに、コースを実践していこうと思いながらも、なかなかその実践ができないということはよくあることです。
もし実践の仕方がよくわからないというのであれば、コースの形而上学をしっかり学んでいくほかありません。
コース形而上学の理解を深めていくことによって、コースの思考体系を根付かせていくほかないということです。
(もちろん、コース形而上学の理解がないならば、コースの実践もあり得ないのは当然のことですが、)
コースの思考体系が根付いていくならば、少しずつでも、その実践ができるようになっていきます。
もしコースの形而上学を学んでいくことすらも難しいのであるのならば、自分は何のためにコースを学んでいるのかその目的を見失っているか、もしくはその目的を見誤っているかのどちらかだといえるでしょう。
そうだとしたなら、何のためのコース学習なのか?を今一度自分自身に問い直す必要があるといえましょう。
コースを実践するのか?しないのか?
コース学習者でありながらもその実践をしないということは、どういうことを意味するのか?
というなら、
「私はコースなど学びたくありません、私は目覚めたくなどありません、私は平安や幸せになりたくなどありません」
と宣言しているということです。
それがいけないということではなく、そのことを私たちは認識する必要があるということです。
そして、覚えておかなければならないのは、平安や幸せになりたくないのは、コース学習者であろうがなかろうが関係なく、この世界に居ると信じている私たちはみんながそうなのだということです。
そうでないならそもそもがこの世界になど居ないということです。
コースの観点から言うなら、この世界にいる私たちは誰もが自我になってしまっているといえるわけです。
ですから、たとえコース学習者であったとしても、(自覚しているしていないにせよ、)コースを学ばずにすむ理由やコースを実践しないですむ理由を探し続けているのだということを知っておくと良いでしょう。
そういうことを自覚/認識していくことによって、私たちはコースの学びと実践ができるようになっていきます。
いわゆる、自我との同一化から少しずつ離れることができるようになるということです。
そう、コースの学習者の私たちがしていくことは、自我を見て、その自我を咎めずに見る、自我を(聖霊と共に)直視することをしていくということです。
コース学習者の私たちは自我(の思考体系)から脱却していくことを目的としているということを忘れないようにしましょう。
実践の具体的な話に戻るならば、コース学習者の私たちがしていくのは、
自我の目的で見るか?
聖霊の目的で見るか?
という選択なのだということです。
言い換えるなら、
自我を教師とするか?
聖霊を教師とするか?
というふうにも言い換えたりもします。
そこには二つの選択肢しかありません。
それが、何を意味するのか?というなら、
このまま夢(悪夢)を見続けるのか?
それとももうそれをやめて天国へ帰りたいのか?
という選択なのだということです。
私たちはどちらか一方を必ず選択しているのだということを覚えていおきましょう。
ようするに、
恐れか?
平安か?
死か?
永遠の生命か?
苦痛か?
喜びか?
地獄か?
天国か?
その二つに一つという選択肢において、私たちは、毎瞬毎瞬、そのどちらか一方を必ず選択しているのです。
しかも、私たちは、毎瞬のように、前者(自我)のほうを選んでいます。
ですから、コースを実践しないということは、苦痛、苦しみ、地獄、死を選択をしているということが分かるはずです。
コースの学習者、コースの実践者であるならば、コースを学ばない、実践しないということは、つまりはそういうことなのだということをしっかりと認識していくべきだといえましょう。