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私は誰か? Who am I?


実践していくための基盤となるもの

私は誰か? Who am I?

インドの聖者ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」という問いで探究していく道が最も重要な方法であると説かれました。

私はすでに二十年以上も前に、その言葉に触れていたわけですが、正直に申しますと、その言葉はその当時の私にとってはまったくと言っていいほど意味をなさなかったと言うことができます。

つまり、「私は誰か?」と問いかける実践はまったく役に立たなかったということです。

というのも、当時の私は、「私は誰か?」と問い続けていくことのその真の意味をまったく分かっていなかったということです。

でも、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まってきたおかげもあって、この今となってようやくその実践がどれだけ重要であるかが分かるようになったといえましょう。

当時の自分を振り返るならば、「私は誰か?」といくら問い続けても意味を成さないのは当然だと分かります。

そこには実践をしていく上でのしっかりした非二元のメタフィジックス(形而上学)がなかったということです。

コースの実践でいうなら、コースの思考体系(コース形而上学)を理解することなしに、その実践はあり得ないということです。

形而上学があるとないとでは、たとえ似たような実践をしていたとしても、その内容はまったくちがった実践になってしまうということです。

例えば、赦しのやり方やテクニックを学んでいくら実践したとしても、そこにメタフィジックス(形而上学)がないならば、何のための赦しなのか?ということになってしまいかねないということです。

ようするに、実践を有益なものにしていくために、メタフィジックス(形而上学)は必要不可欠なのだということです。

そして、「私は誰か?」と問い続ける実践について言えば、

なぜ?何のために?どこから問えばいいのか?

ということがしっかり分かっているなら、その実践はとても有益なものになるといえましょう。

さらに、その重要性と有益性が分かっているならば、その実践はますます妥協のないものとなっていくでしょう。

実践していくための基盤となるもの、それが「形而上学」なのだということです。

つまり、コースを実践していくのであるならば、コースの思考体系(形而上学)が実践していく上での基盤となるということです。

メタフィジックス(形而上学)とは理論的基盤のことであり、それがないならば、いくら実践していったとしてもほとんど意味を成さないということです。

それは、コースのワークブックレッスンでも同様のことがいえます。

たしかに、ワークブックの序文には、「ただ実践しなさい」というようなことが述べられてはいますが、だからといって「テキストを理解しなくてもよい」とは述べられていません。

コースには、ワークブックのレッスンを訓練していくにはテキストの理論的基盤が必要であるとしっかり述べられています。


「テキスト」が指示している理論的基盤は、この「ワークブック」の演習に意義をもたせる枠組みとして必要なものである。(W-In.1:1)

奇跡講座/中央アート出版社


以上述べた通り、コースの学びと実践をしていくには、コースの形而上学を理解していくことがいかに重要であるかがお分かりでしょう。

言い換えるならば、コース形而上学が根付いているならば、ラマナマハルシが教えた「私は誰か? Who am I?」という問いかけをしていく実践も、とても有益な実践となると言うことができるということです。


学びの階梯

聖者(マスター)たちが語る言葉はとても深淵です。

というのも、そもそもそれは言葉を超えたものであるからです。

同じように、コースの教えもまた深淵だといえます。

そこには言葉を超えた深淵さがあるということです。

それは学べば学ぶほど、その理解がより深いところで理解されるようになっていくということです。

コースの学びのプロセスでいえば、実践していくことによってより深いレベルでの理解が起きていくといえます。

と同時に、いかにそれまで自分は理解していなかったか!が明らかになります。

コースの学びはそのように深化していくといえます。

なにせ実践していくことなしに、コースの学びは深まっていかない、その歩みは進んでいかないということです。

コースの学びは、理論的基盤であるコース形而上学についての学びと、その理解に基づいた実践(訓練)との両輪によって深化していくということです。

それは、今自分の居る立ち位置を把握して、そこから学んでいく、そして、実践していくということです。

コースの学びにおいて、それを「階梯」というふうに表現しています。

コースのメタフィジックス(形而上学)を理解し、その理論的基盤に基づいて実践していくならば、その「階梯」がはっきりと認識できるようになっていきます。

その学びの階梯を上っていっていることの基準となるものでもっとも分かりやすいのが、コースでいうところの「心」を自覚しているかどうか?だといえましょう。

つまり、「自分はこの肉体ではなく、心(の決断の主体)である」という自己認識の自覚が起きていくとき、その歩みはいよいよ実践的(本格的)な学びになるということです。

その自覚は、コースの思考体系、つまり、コースの教えの理論的基盤があってこそ、もたらされていくものです。

自分を何者だと思っているのか?
自分を誰だと思っているのか?

コースの学びの階梯を上っていく上では、真のアイデンティティーである「心」の自分を自覚/認識していくことが必須だということです。

自分とは誰なのか?

アイデンティティー、つまり、自己認識のちがいによって、まったくちがった実践になっていきますし、その目的もまったくちがうものになっていくといえます。

つまり、

自分を人間だと思って実践していくのか?
自分はこの世界の夢を作り出した者(心/夢を見ている者)であるとして実践していくのか?

そこには、大きな違いがあるということです。

ですから、

私は誰か? Who am I?

と問うていくことがどれだけ重要か!がお分かりかといえましょう。

そう、

私は誰か? Who am I?

と問うている自分とは何者なのか?

というなら、

その自分は、もちろん肉体ではありません。

ならば、その自分とはいったい何者なのでしょう。


私は肉体ではない。私は自由である。(W-pⅡ.In.3:3-4)

奇跡講座/中央アート出版社


その自分は、本来は自由で何の制限もない神のひとり子であるにもかかわらず、今や、まったく真反対の自分になりきっているわけです。

私は誰か? Who am I?

その自分を完全に思い出すことが、私たちが最終的に目指しているゴールであり、そして、それを「目覚め」と呼んでいるということです。

コースは、そのための道が示されている一元論のスピリチュアリティです。

しっかり(正しく)学ばれていくなら、その学びの階梯はますます明らかになっていくだけでなく、それは達成可能な道であるということをますます実感していくようになるでしょう。


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