ひたすら不幸に献身している自分を認識することが、幸せへの第一歩です
この世界とはどのような世界なのか?
私たちが知覚しているこの世界とはいったいどういう世界なのか?
コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、この世界について、「飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる乾いた埃まみれの世界(W-pⅡ.13.5:1)」というふうに表現しています。
その表現は、この世界にいる私たちにとって、まさに残酷すぎる言葉だと言わざるを得ません。
なぜ、コースのイエスはそのような言い方をするのでしょうか?
ちなみに、仏教においても同様に、釈迦はこの世界について「この世は一切皆苦である」というふうに説いています。
それがどういうことなのか?というなら、ようするに、コースのイエスや釈迦は、私たちがこの世界について何も分かっていないことを伝えてくれているだけでなく、この世界の夢から目覚めていくようにそのモチベーションを高めてくれていると言うことができます。
そう、コースのイエスや釈迦の観点からみるならば、この世界は天国の対極の世界であるわけで、それは地獄あるいは苦しみの世界でしかないわけです。
まさに、「飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる乾いた埃まみれの世界(W-pⅡ.13.5:1)」以外の何ものでもないわけです。
真理から見るならば、彼らの言葉はただの事実(真実/真理)を述べているにすぎないということです。
そうであるにもかかわらず、私たちはこの世界をそのように見ようとはまったく思っていません。
むしろ、私たちはこの世界がそういう世界だとは知りたくないのです。
それよりも、私たちは、この世界には楽しいことや素晴らしいこと、希望や光がある(はず)と思いたいのです。
実際のところ、私たちは、この世界のどこかに自分を満たしてくれるもの、幸せにしてくれるものがある(はず)というふうにこの世界を見ています。
たとえ真面目なコース学習者であってとしても、たとえコースの教えを理解しているつもりでいたとしても、やっぱり、コースが教える通りにはこの世界を見ていないのが正直なところです。
コースのイエスの言葉を本気で受け入れる気などないということがはっきりと自覚されるわけです。
仮にもし、コースのイエスの言葉を本当に受け入れているなら、この世界の夢からにすでに目覚めているはずです。笑
つまり、それが何を意味するのかというなら、この世界に居る自分たちは、天国(実相)を拒絶して、狂気の思考体系が作り出したこの世界の夢(幻想)をのほうを好み続けているということです。
コースの思考体系が自分自身に根付いていくとき、ますますそのことが自覚/認識されていくようになります。
それがいけないということではなく、私たちは、毎瞬毎瞬、イエス、聖霊を拒み続けていて、自我(の思考体系)を選び続けている、ということに気づいていくことが求められているということです。
そのことに気づいていくことが、私たちがコースの実践でしていくことであり、さらにいえば、自我にいつも気づいている状態になっていくだけでなく、その自我を咎めずに見ることが求められているということです。
それは、私たちは心を忘れた状態(マインドレスネス)から心を自覚した状態(マインドフルネス)へとなっていく訓練だということです。
そうなっていくとき、私たちは自分は誰で?自分は何をしているのか?をますます自覚するようになっていきます。
いわゆる、非二元でいうところの「悟り」の視点から見ている状態、つまり、「今」を生きる状態になっていくと言うことができます。
そのようにして、目覚めていくということです。
ただし、普段の私たちは当然のごとく「心を忘れた状態」になっています。
つまり、
この世界は実在していて、=この自分は肉体(個の自分)である、
というふうに、それがまるで当たり前であるかのように信じ込んだ状態になっているといえます。
それによって、自分はどれだけの代償(代価)を支払っているか!まったく分かってない状態になっているのです。
自我の思考体系を信じ、自我と同一化し続けていることにまったく無自覚なまま、幸せなどないこの世界の中で私たちは一生懸命に幸せを探しているわけです。
その無知さ、愚かさについて、コースのイエスは以下のように教えてくれています。
”ひたすら不幸に献身しているあなた”とは、まさに私たちのことです。
だからこそ、コースのイエスは、
(私たちの本性は完全無欠な神の子であるにもかかわらず、)「自分は人間である」と信じていることがどれだけ惨めで不幸かを認識しなさい!
と教えてくれているわけです。
私たちがそのことを認識しないかぎり、このコースの学びははじまらないとさえ云っています。
それに反抗するかのように、私たちはその真実を認識しないでいるために、この世界のさまざまな代替品でごまかそうとしているといえます。
ですから、まず、自分はいかに不幸に献身しているか!ということを自覚/認識していくことが求められているということです。
そう、それが、コースの学びにおける第一歩だということです。
自分はどれだけの代償を支払うはめになっているか!
その惨めさと不幸さを認識しなさい!と、コースのイエスが強調しているのはそういうことです。
そのことが、コース学習者の私たちにとって必須であることは言うまでもありません。
というのも、自分は不幸に献身しているということを認識していくとき、ようやく私たちは、もうこれを良しとはしない!もはやこれをOKとしない!となるからです。
それがコースを本気で学んでいこうとするモチベーションとなるだけでなく、そうなってこそ、ようやく私たちはイエス、聖霊の教師から学んでいくことができるようになるのだということをしっかりと自覚しておきましょう。
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