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スピリチュアルの探究に疲れ果てた者たちのためのスピリチュアリティ
コースは大衆向けではない
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学びが深まっていくにつれて、このコースという霊性の道は、一般向け、大衆向け、万人向けのスピリチュアリティではないということがますます実感させられます。
コースを学ぼうと思うのだけど、でも気が進まない、あるいは、いったんコースを手に取ったもののやっぱりやめた、あきらめた、興味が消え失せてコースから離れた、という方々を私はたくさん見てきました。
そして実際に、私自身もコースを学んでいる者として、コースが教えているその内容はとうてい万人に受け入れられるものではないと実感します。
なので、今は、私からコースを人に勧めるようなことは、ほぼしなくなったといえます。
いくらコースを勧めたとして、やはり、この霊性の道はごくわずかな者たちに向けられたものだと思うわけです。
私が思うに、コースという霊性の道を歩むような方々は必要なタイミングでコースに出会って、そして学びはじめるのだと思います。
私もそうだったように、です。
本気でコースを学んでいきたい、理解していきたい、そして、実践していきたいという真摯なコース学習者たちがおられるのはたしかです。
そんな真摯に本気でコースを学ぼうとする学習者は、もはや個人的な意志ではない何かに突き動かされているとしか言いようがありません。
コースを外れても、またコースに戻ってきた私
じつを申しますと、私は過去にコース学習をはじめたものの、コース学習をやめて、一旦、コースから離れたことがあります。
それは、コース学習がイヤになったとか、行き詰ったというわけではなく、まったく違う理由でコース学習の歩みをやめたということです。
当時の私は、コースを学んでいく中でいろいろなヴィジョン体験、覚醒体験をしていったことによって、自分はもうコースを理解したとばかりに勘違いして、「もうコースは自分には必要ない」と思ってしまったということです。
今からすれば、それがまったくの勘違いであることは明らかなわけですが、当時の私は、なにせ、コースを理解したつもりになって、いわゆる、もうコースは卒業したのだというふうに思い違いをしたわけです。
本当にコースが教えていることを理解するようになるならば、コースはそのような体験のレベルで終わるような浅はかな霊性の道ではないということが分かってくるものです。
でも当時の私は、コースが私たちの想像をはるかに超えた深淵な教えの道であるということをまったく分かってなかったということです。
このコースという霊性の道は、まさに人智を超えたところから書き取られたものだといえますし、そして実際に、その人智を超えていく霊性の道であるということを知っておくと良いでしょう。
そして、それはコースに限ったことではなく、一元論のスピリチュアリティとはそういうものであるということです。
今だからこそ、コースが教えている内容の深淵さが分かってきたといえましょうか、そこには多大なる学びと訓練を要するということが分かります。
そんな私は、コースの道から離れたものの、結果的にはまたコースの道に戻ってきて、そして今もこうしてコースを学んでいるわけです。
コースから離れる時には、まさか、また再びコースの学習に戻ってきて、コースの学びを再開することになるとはまったく思いもよらなかったことです。
そんな私自身が実感しているのは、そうなることもすでにシナリオとして決まっていたのだろうなということです。
それは、私だけにかぎったことではないと思います。
「生涯を賭けてでも神のもとに帰りたい、時間と空間の流浪の旅を終わりたい、終わりなき輪廻の旅をもう本当に終わりたい」と望んでいる者であるならば、真理を本気で求めている者であるならば、必ずや導かれてこの純粋なる非二元の道へと行き着くことになる(戻ってくることになる)といえましょう。
(私自身もそうだったように、)コースはそういう者たちにとって行き着く最終的な霊性の道(スピリチュアリティ)であると言うことができるでしょう。
ただいえるのは、コースだけが唯一の霊性の道ということでもないわけです。
そのようなスピリチュアリティはコースだけに限らず、もちろんコース以外の他にもあるわけです。
とはいえ、コースという霊性の道を見つけておきながら、その教えを理解せずして簡単にコースから離れていくのは、真理を探究する者とってはなんとももったいないことだといえるでしょう。
その教えを真に理解していくならば、むしろ他のスピリチュアリティの探究へとはもはや向かうことはなくなるといえましょう。
なぜなら、その内容がかなり優れたものだと分かってくるからです。
コースはそのようなスピリチュアリティだというふうに、私は実感している次第です。
探すことに疲れ果てた人々にとっての霊性の道
上記に述べたことにちなんで、ワプニック博士も以下のように述べています。
「私たちが苦痛の域に達したとき、はじめて私たちはより良い道を探し見つけようと真に動機付けられます。なのでコースは、自分の人生が心地良く安定している人のためのものではないと言うことができます。それよりも、コースは、もはや苦痛に耐えることはできない、そして世界の様々な形態の魔術を信じて探すことに疲れ果てた人々にとってのものだといえます。」
さまざまなスピリチュアリティを探究しても見い出すことができなかった、救われなかった、うまくいくことはなかった、、、もう探すことに疲れ果てた、、、
そういった探究者たちがコースにたどり着くのだといえます。
言い換えるなら、コースはそういった人々にとって最終的に行き着く霊性の道だと言うことができます。
コースは、スピリチュアル探究の旅の終着点であると。
ただ、そうだとしても、コースの学びはそう容易いものではありません。
それというのも、コースの歩みは、まるで向かい風に向かって歩むようなものだからです。
なので、コース形而上学をしっかり理解することが絶対不可欠となります。
コース形而上学はコースを実践していくための土台となるものであり、コース形而上学の理解がなければ、その実践もあり得ないというのは言うまでもありません。
なぜ、そのようなことを強調するのか?
というのも、すでにコースを学んでいるコース学習者ですらも、コース形而上学の内容を本当の意味で理解しているのか?というならば、それも怪しいというコース学習者がほとんどだといえるからです。
すでに何年も何十年もコースを学んでいながらも、実際のところ、コース形而上学を真に理解することもないまま、コースの学びの階梯の一番下に留まったままということは良くあることなのです。
コース学習者であるならば、せっかくコースを学んでいるのですから、コースの教えをしっかり理解して、そしてその学びの階梯を上っていきたいものです。
せっかくコースという霊性の道に出会ったのですから。
ずっと探し続けてきた道をようやく見つけたわけですから。
コースだけが唯一の霊性の道であるとは言いませんが、学ぶ価値は十分にあるスピリチュアリティであるということです。
それは真摯に学ばれていくならば、確実に私たちを目覚めへと導いてくれるスピリチュアリティ(霊性の道)であるということを強くお伝えする次第です。